第28話 金烏玉兎(1)

 金烏玉兎(1)


「なあ、このままで本当にいいいのか?」
 ぽん、とベッドに腰をかけて秀が尋ねた。サイドテーブルの時計はとうに11時を過ぎている。
「当麻のやつ、相当、参っちまってるみたいだぜ。」
 当麻、の言葉に、ベッドで仰向けになっていた伸がぴくりと動いた。
 ……いいわけがない。
 その言葉を飲み込んで、伸は顔を隠すように布団に潜り込んだ。それから顔を半分だけ出して、秀を見る。駄々をこねる子どもを前にして困ったような、そんな表情をしていた。
 当麻と喧嘩をしてから、一週間が経とうとしていた。明日は金烏玉兎再生の儀に臨まなくてはならない。けれども当麻との距離は平行線のまま、虚しく時は過ぎた。
 あの日から、当麻はあまりゲストハウスに居ることがなくなった。朝ご飯は食べずに遅くまで寝ているようだ。伸の目をかいくぐって昼前にはどこかに出払っている。夕飯時には皆と一緒にテーブルにつくが、食べたあと、すぐに寝室に籠ってしまう。
 ここ一週間、そんな彼の顔を見るたびに心臓がひき絞られるような鋭い痛みを覚えていた。そして反射的に、目を逸らしてしまう。傷つけたかもしれない、嫌われたかもしれないという根拠のない不安に苛まされて。
 何度も謝ろうと思った。
 しかし、謝ったところで千早樹を巡る互いの見解は変わらないだろう。
 ただの友達なら、曖昧に言葉を濁して、それで終わりにすることもできる。
 ……そう、ただの友達なら。
 当麻に嘘はつきたくなかった。かつて、彼の幼い情緒を自分が受け入れたように、この未熟さもまた受け入れて欲しかった。我がままだと分かっていても。
 ……どうでもよくない人だから、謝る方法が分からない。
「秀は……」
「なんだ?」
「奥さんと喧嘩したことある?」
 そりゃ何度もな、と自慢気に秀は応えた。そのあと視線を宙にさまよわせ、小さく溜め息が続く。何か思い出す節でもあったのだろう。
「そういうときって、どうやって仲直りしたの?」
 そうだなあ、と何度か首をかしげて、秀は言った。
「とりあえず、俺が頭を下げる。」
「どうして?」
「喧嘩の理由はどっちにも問題があるわけだろ? その上、二人して居心地が悪いのは俺は好きじゃないからさ。だったらこっちから先に頭を下げた方が、里菜も楽だろ。俺だって安心できるからな。」
 そっか、と頷いて、伸は布団から再び顔を覗かせた。まるで宇宙人でも見るように目を丸くして驚いている。
「な、なんだ? 伸。」
「秀ってほんと、大人になったんだなーって思って。」
 調子外れの答えに、秀はがくりと肩を落として深い息をついた。伸がこの布団で寝るようになって六日目。これまで当麻との喧嘩については一切触れようとしなかった伸が、今日になって饒舌に語り始めたのも奇妙だなと秀は思う。
「お前らさ、二人とも仲直りしたいって思ってるんだろ。当麻はアレだからさ。ほら、こういうの、苦手じゃん? 伸の方がさっさとご飯大盛りにしてでも強引に引き戻した方がいいんじゃねえか? そのほうが、伸らしいぜ。」
「僕らしい、ね。」
 複雑な笑みを浮かべて伸は秀を見たあと、ごろん、と横になって背中を向けた。
「それが、できないんだよ、秀。」
 それができるなら、とても簡単なのに。
「元通りになりたいのに、謝れないんだ。子どもみたいだって思う?」
 自分に背を向けた伸の表情が見えず、ただその言葉がやたら弱々しい印象を与えて秀はわずか狼狽えた。呼吸をいくつか数えて、伸の問いに応えようとしたとき。
「おやすみ。」
 秀の答えを拒絶するかのような熱のない声音で、その一言がベッドの上の暗がりに滲んだ。
 ややあって、秀の声が返る。
「……おやすみ。」
 秀が立ち去る気配を感じて、伸はふうと深く長い吐息をついた。今からシャワーでも浴びるのだろう。 
 一週間前ならば、おやすみ、といえば、その背後からやさしく抱き締めてくれる長い腕があった。重ねてくれる大きな手があった。今はもうない。
 ぎゅっと、腕の中の小さな黒い霊獣を抱き締める。
 この一週間、仲間といるのに寂しいと、夜がくるたびに思うようになってしまった。
 自分が弱いことは知っている。
 でも、夜ごと誰かの腕を求めるほど弱いとは思ってもみなかった。

「参ったな。」
 薄暗い寝室でベッドに座ったまま、当麻は虚空に視線を投げた。明かりはベッドサイドのランプのみ。温かみのある橙のそれが、本当の温もりのない部屋を逆に際立たせて、今は虚しく見える。
 あの日の喧嘩のあと、伸が秀の部屋で寝起きするようになってから、また、夜に寝付けなくなった。友人から横流ししてもらっていた短期入眠剤は一日分しか残っておらず、丸五日間、夜に眠っていないことになる。明け方、といっても朝の六時か七時にうとうとと短く浅い睡眠をとることができるが、それ以上眠ることができず、夜中に調べた資料を日中に街や図書館で探す日々が続いた。
 しかし、睡眠不足というのは本当に体に良くないようで、ここ二日ばかり、思考が不透明な膜に覆われている感触をぬぐい去れず、苛々としていた。
 鬱々とした気分の理由は他にもあった。
 伸の顔がまともに見られない。視線があったとたん、向うが目を逸らすのだ。その瞬間味わう激痛にも似た感情を持て余して、ゲストハウスに居辛く、三鷹の家に帰ることも考えた。しかし、さすがに今の事態にそれは非常識だとは思い、なるべく顔をあわせないように過ごすことにした。
 謝ればいいのかとも思う。
 だが、何をどのように謝ればよいのか分からない。
 自分から謝るということは、千早樹の存在を認めることだ。それだけはできない。自分のためではなく、伸のために、だ。根拠は全くないけれども、あの男は伸を害するものだ。そんな動物的な勘を今まで信じたことはなかったが、今回に限っては例外だ。彼を、千早樹を伸に近づけてはならない。
 しかし、それでは謝ることができない。
 MIT時代、小さな思惑の行き違いで言い合いになったとき、どのようにやり過ごしたのだろう。いくら思い出しても、ただの一度も誰かに謝罪をした記憶がない。必ず、相手の方から謝ってきた。あなたが正しかった、という言葉とともに。
 ……そういや、俺、誰かに謝ったことってあったか?
 ベッドの上に転がり、もう見慣れた天井を見上げる。答えは否。いつも自分が正しかった。だから、謝るのは相手の方だった。
 では、今回はどちらが正しいのだろう。自分か、それとも伸か。
 いくばくか、人の気配のしない、冷たい静寂が訪れた。
 分からない。
 千早樹という人物の本性がどのようなものであるかを見極めるまで、どちらが正しいかなどという論争は無意味だ。
「しかし、眠れないというのも人間としてどうなんだろうな。神経系統が完全に麻痺してるな、こりゃ。」
 疲れたな、という言葉を付け足して、当麻は目を閉じた。
 何も見えない。虚ろな闇がそこにある。
 このまま眠ることができれば、どれだけ楽だろうと何度も思った。けれども、眠りたいと思うほど、意識は冴え冴えと冬の朝のように透徹になる。
 今日もまた、眠れぬ夜を過ごすのだろう。
 眠りの神ヒュプノスの慈悲を諦めて、当麻はベッドから降りた。
 ベッドサイドのテーブルに一冊の本が置いてある。それを手にとってぺらぺらとめくる。
 『解題 ほき抄』。
 明日の祭儀で原本が復元されるはずの、金烏玉兎集の注釈書の現代語訳版の本だ。内容は、主に方位や暦の説明に尽きる。
 金烏玉兎集そのものは、唐の伯道上人から直接、安倍晴明に与えられたとも、陰陽師の祖である吉備真備が日本に持ち帰ったとも言われる。どちらにしろ、これまで人の目に触れることのなかった陰陽道の聖典が自分たちの力で蘇る、はずなのだ。かつては皇室をも動かしていた……そして今でもその片鱗の残る呪術が復活する。それは、自分たちを、そしてこの国の未来をどう動かすことになるのか……。
 当麻にはもう一つ、気になることがあった。
 先週、遼と征士が正体不明の結界に誘い込まれ、攻撃を受けた、ということだ。征士の話からすると、その相手は陰陽寮がやろうとしていることを知っているとほのめかしていたという。今回の祭儀が、自分たちと陰陽寮の人間以外の、第三者が知っているとは渡井から聞いていない。ならば、その者からの横槍が入ることも十分に考えられる。
 立ち上がって窓の傍まで移ると、カーテンを乱暴に捲し上げた。今日の天気は午後から下り坂で、外では木々が強い風に煽られ、黒々とした闇の中を奇妙な生き物のごとく蠢いている。明日はさらに荒れるという予報が出ていた。
「……何もなきゃいいがな。」
 当麻がぽつりと独り言ちた言葉は誰の耳にも届く事はなかった。

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