リビングの時計が九時半と少しを過ぎたころ。
「ごめん、遅くなっちゃった。メールしたけど、みんな、夕ご飯はどこかで食べたよね。」
元気な声とともに室内に入って来たのは伸だった。普段の彼よりも、ややテンションが高い。何かとてもいいことでもあったのか、そんなことを伺わせる雰囲気だ。
そんな伸に当麻はパソコンの画面から、征士は新聞から、それぞれ視線を転じた。
「ずいぶんと遅かったな。」
「うーん、ちょっといろいろあってね。」
千早樹の家を出たあと、彼に教えてもらった神保町の老舗の絵本専門店に行こうとしたが、地下鉄で乗り換えを間違えた。その上、本屋の店主と意気投合してしまい茶菓子まで出されて引き止められること一時間。結果、こんな時間になってしまった。楽しい時間を過ごすことはできたが、さすがに遅くなってしまったと反省はしている。
「あれ、遼は?」
秀は今晩、自分の家で過ごすと言い残して出かけた。今頃、奥さんと楽しく呑んでいるのだろう。だから秀の姿がないのは納得するとして、リビングに遼の姿がないのは不思議だ。
「それよりも今日、どこへ行っていた。」
当麻が伸に剣呑な色を浮かべた瞳で問うた。
「ええと……。」
口許に手を当て、もごもごと何か言いかけて伸は当麻から視線を逸らす。
「東京の知り合いのところ。」
嘘ではない。千早樹は、知り合いには違いない。名前が出せないのは、そうと知った時の当麻の反応が手にとるように分かるからだ。
「昼頃、三回、携帯に連絡を入れたが出なかったのはなぜなんだ。」
「え? 連絡なんてなかったよ。」
目を丸くして、伸は慌てて自分の水色の携帯電話を取り出した。着信履歴を確認する。最後の履歴は昨日の夕方、ナスティからだ。
当麻も自分のポケットから濃い青の携帯を取り出して伸に来るように促した。
言われるままに当麻の携帯の発信履歴を覗き込む。
確かに、自分宛に昼の二時から三時の間に三度、発信履歴が残っていた。
「どういうこと?」
呆気にとられて伸が当麻の顔をまじまじと見つめる。
「それはこっちが聞きたい。この東京で電波が正常に届かないようなところで何をしていた?」
伸が返答に困り、当麻がさらに言い募ろうとしたそのとき。
水色の携帯が着信を知らせた。反射的に通話ボタンを押して電話に出る。
「はい、毛利です」
『今日はどうもありがとうございました。』
なよやかな声が電話の向うから聞こえた。千早樹その人からだった。
「千早さん、こちらこそありがとうございました。」
そこまで言って、伸はあ、と小さく声を漏らした。
真横で当麻が険悪な表情で睨みつけている。一瞬、目があって、慌てて視線を引きはがした。
『先程、ご紹介した絵本店の店主から、毛利さんを遅くまで引き止めてしまって申し訳ないと連絡があったので、電話を差し上げました。いえ、悪い人ではないんですが、若い人と話す機会があまりないもので、店主も浮かれていたようです。本当に申し訳ありません。』
「いえいえ、こちらこそ貴重な本を見せて頂いて本当に嬉しかったです。お気になさらずにとお伝えください。」
そうですか、と千早は安堵の声を漏らして、二言三言、伸と会話を交わしてから最後に一言、付け加えた。
『今度は是非、青い鎧の……羽柴さんですか、その方とも一緒にお越し下さい。それでは夜分遅くに失礼しました。』
何か慌てることでもあったのだろうか、人の呼ぶ声が遠くに聞こえて、千早からの通話は切れた。
携帯から顔を離す。そっとその場から離れようとした伸を、低く鋭い声が引き止めた。
「……千早樹のところに行っていたんだな。」
居心地のわるい沈黙が束の間、二人の間を過る。
「そうだよ。」
わずか、声を強ばらせて伸は応じた。口を引き結び、まっすぐに当麻を見る。自分は悪い事などなにもしていないと主張するように背筋をすっと伸ばした。
「東京にいる知り合いには違いないだろう?」
自分は嘘をついてはいない。しかし、名前を出せなかったことへの負い目を感じながら、それでも当麻からは目を逸らさない。
「あの男には近付くな、と言ったはずだ。」
唸るような低い声で言って、当麻の表情が苦いものになる。深い紺藍の瞳が厳しい光を帯びて、伸を睨みつけた。
視線がぶつかる。
互いが自分の思いを譲れずに、相手の気持ちを分かり合えずに時が過ぎる。
「だいたい……」
言い止して、伸はふいっと視線を逸らした。
「当麻は千早さんとちゃんと話したこともないのに、どうしてそうやって危険な人だなんて決めつけるんだい?」
抑揚を押さえた声音で伸が問う。
そうだ。
千早さんは、彼は自分と同じ宿命に縛られている哀しい人。いつも自分が蓋をして見ないふりを決め込んでいる痛みにもそっと手を伸ばしてくれた人。そんな彼が危険であろうはずがない。
「はっきりとは分からないがな。あいつを見てるとイヤな予感しかしないんだよ。」
「ふうん、智将ともあろう君が、はっきり分からない理由で? 予感? そんな理由で他人を判断するのかい?」
当麻は一瞬、腰を浮かしかけて、しかしまた座り込んだ。噛んで含めるような物言いで応じる。
「冷静になってくれ、伸。俺がお前に不利なことを言ってどうなる? 今が平和な時なら何も言わない。だがそうじゃないだろう? それくらい、お前だって分かっているはずだ。」
「だからって、千早さんを根拠もなく悪人扱いするのかい? 当麻だって話せば分かるよ。話す前から危険だのどうのって決めつけるのはおかしいじゃないか! それで智将っていうんなら、呆れて物が言えないね。」
「伸!」
さすがに堪えかねて当麻が声を荒げると、伸は踵を返してリビングのドアへ向った。俯きながら、わずか、目尻を熱く滲ませて呟く。
……何が智将だよ! このバカ! バカ当麻!
足早にリビングから立ち去ろうとした伸を征士の静かな声が止めた。
「伸、出て行く前に耳に入れておきたいことがある。」
何、と足を止めて伸は征士を振り向いた。玲瓏な面を伸に向けて、いつになく静かな声で征士は言った。
「今日、町田からの帰り、吉祥寺駅で何者かの罠にはめられた。相手は水の結界を使って遼を弱らせる策を使った。たいしたことはないと遼は言ったが、大事をとって今、寝室で休んでいる。」
「何だって?」
伸は大きく目を見開いて征士を凝視した。そんなことがあったという素振りは征士の落ち着いた所作からは全く感じられない。
「こんなことが起こった矢先だ。当麻の肩を持つわけではないが、あまり素性の知れぬものに肩入れするのは、今の状況では危険だと私も思う。」
「征士まで……。」
悄然と肩を落とし、伸は独り言のように呟いた。唇をきつく噛み締めて目を閉じる。
……千早さんは悪い人ではないのに、なぜ、みんな信じてくれない?
目頭が熱くなるのを堪え、再びリビングのドアに向き直り部屋を出ようとした。その間際。
すべての感情を削ぎ落とした声音で言った。
「……しばらく、秀の布団を借りて寝るから。心配しなくてもご飯はちゃんと作るよ。」
リビングにぽっかりと不自然な沈黙が降りた。
ずいぶんと長い間があった。
「怒らせてしまったな。」
言って再び新聞を広げ、目を落とした征士が他人事のように言った。言葉とはほど遠く落ち着き払った声音だ。
当麻は無言でそれに応じた。苦い表情で、伸が出て行ったリビングのドアを睨みつけている。
「お前も、意外に冷静だったな。」
「意外とは何だ。ああいう時の伸はこっちが怒ると逆効果なんだよ。」
「なるほど、心得ていると言う訳か。」
征士がわずか、口の端に笑みをためて面白げに当麻を見た。
「しかし、今の話を聞くと、伸はずいぶん件の日本画家に心酔しているようだが。」
「それが大問題なんだ。油断も隙もあったもんじゃない。GPSでも付けとかなきゃな。」
「やめておけ。見つかったあとが怖いぞ。」
「冗談を本気で返すな。」
当麻はパソコンを閉じて、長い溜め息をついた。どさりとソファに体を預けて、青みがかった髪をかき乱す。
全身が気怠い感覚に襲われる。それに反して頭はいつになくクリアだ。危険、危険と赤信号が点滅している。
……千早を伸に近づけては危険。
伸に指摘されたように、それは何か根拠のある危機感ではない。自分でも信じられないが、池袋で千早樹を見たときの、あの得体の知れない恐怖が脳裏に蘇り、小さく身震いをした。自分が一番苦手な、何かしら人智の届かない類の事象へのもの恐ろしさと同じものを千早樹に感じていてた。そして不思議なことに、伸を失ってしまうという漠然とした不安が、何故か、あの日本画家に繋がってしまうのだ。
……伸は何も感じないのだろうか。
いや、むしろ先程の態度を見る限り、彼に絶対的な信頼を寄せている。今日逢って、何を話したか分からない。ただ、千早樹という人物は、出会って一ヶ月もしない伸の心に見事に入り込んだ。そうでなければ、あれほど、伸が怒るはずがないのだ。
表向きは人当たりの良い伸が、実はその内面を見せたがらないのを知っている。彼のやさしさの裏側にある脆さや弱さを恥じているというよりも、自分自身で扱い方に難儀しているということも。しかし、一度、相手に心を開いてしまえば、伸は無防備だ。何をされても受け入れてしまう。やんわりと包み込み、清も濁もその身で受け止める。
それがこれまでは、鎧玉という希有な運命で結ばれた仲間に対してだけ発揮されるものだと思っていた。ところがここに来て、千早樹という不審人物が現れてその領域に踏み込んで来た。
何か、苛々とする。
これは、毛利伸という人物に認めてもらえるのは自分たちだけだというような子どもじみた独占欲だろうか。
それとも、毎日ベッドの中で抱いているあたたかな温もりを横取りされたくないと、他の男に興味など持って欲しくないという自分の我がままなのだろうか……。
「馬鹿な。それじゃ、俺があいつに妬いているみたいじゃないか。」
自分の考えにツッコミを入れて当麻は渋い顔を浮かべ天井を見上げた。
下弦の月が、境内の公孫樹のご神木に掛かるように浮かんでいた。
明かりはない。黒々と漆を流したような闇が斎庭に静寂の帳を降ろしている。しんと静まり返る神社は、都会にあっては数少ない、夜に闇を迎え入れる場所だ。
うつろう時は、すでに日付を越えていた。
渡井は先程まで宮司の加陽と、翌週にこの田無神社で金烏玉兎の再生の儀を執り行うにあたっての打ち合わせを行っていた。加陽は陰陽寮をまとめる幸頭井と大学では先輩後輩の間柄で、もちろん、幸頭井がそこで何をしているのかも知っている。そもそも、渡井を寮に紹介したのは加陽貞次その人だ。そのため大規模災害予知対策研究室などの説明を一切省いて、祭儀についての打ち合わせにのみ終始することができた。それでも普段の神社の職務の後に時間を割くと、すでにこんな時間だ。
もう電車は動いていない。珍しくはないが今日は社務所に泊る覚悟で一旦、夜気にあたりに外に出た。
夜の斎庭は霊気に包まれて、渡井の目には仄かに輝いて見える。神社の本来の姿を目の当たりにするのはこういうときだと知っていた。夜は、神が寄りつく時間。今ではそんな風習も数少なくなってしまったが、古より、神を迎える儀式は夜に執り行われる。
すでに儀式にあたって斎戒中の渡井はいつもより感覚が鋭敏になっていた。そのためか、胸をかするようなほんの少しの異変に気付いた。
……神社の五龍神の気配が常と違っている。
普段は斎庭を走ることなどない渡井は、小走りに鳥居の傍にある石造りの赤龍の前に駆け寄った。
一瞬、躊躇いを見せてそっと触れる。
「これは……。」
零した言葉は闇に飲まれた。驚いてもう一度、赤龍に触れる。間違いではなかった。
一ヶ月前、真田遼がこの赤龍に触れて残していった南方火気の力の残滓が弱まっていた。昼間であれば気付かないくらいの、わずかな変化。けれども五人の力で金烏玉兎の再生を行う直前とあっては、非常事態だ。
突き上げる不安を押さえきれず、渡井は足早に白龍、青龍、黒龍に足を運びそれぞれに触れた。中央の黄龍は本殿の中にあるため、明日にならなければ確認できないが、想像はできた。
……赤龍と同じく、他の四龍も、彼らが触れて残していったそれぞれの気が弱まっていた。
「何かありましたか、毛利さん……。」
闇を透かして夜空を見上げる渡井の表情は、何かに畏れをなしたかのように硬く強ばっていた。
実はこのエピソードは、当初予定になかったのですが、流れで追加になりました。しかも体調不良の時に書いていたためにえらく時間がかかってしまいました(汗 その他呟きはブログにて。

