町田の純の家で、半ば引き止められるような形で夕飯を食べて帰路についた二人が吉祥寺についたのは、九時を少し過ぎたころだった。休日ということもあって、京王井の頭線は帰宅ラッシュもなく遼と征士はのんびりと、純の成長の喜びを互いに語り合いながら終点の吉祥寺に着いた。
異変が起きたのは、電車を降りて改札を抜けた、その瞬間だった。
遼と征士が並んで改札を通り過ぎる。
束の間、ひどく足元の覚束ない感覚が二人を襲い、思わず目を閉じた。全身がどこか深い淵に沈み込んでゆく錯覚に襲われる。
何が起きたのかと目を開けたとき、駅の構内を彩る賑やかな喧騒も、華やかな看板広告もすべて消え失せていた。
ただただ、音のない白い空間が眼前に広がっている。
高さも奥行きも分からぬ、人智を越えた白い静寂と白い闇。
それが、二人の周囲にどこまでも続いていた。
白い闇はあまりにも広く、いや、果てしなく思えて、方向感覚や自分の所在さえも危うく感じさせる。
「おい、征士。」
「ああ。」
二人は息を殺して辺りを伺う。全身に緊張を漲らせ、この異様な空間を観察する。人の気配はない。ただしらじらと白い闇が二人を押しつぶさんとするばかりに圧力を持って視界を覆っているだけだ。
「ここがどこなのか分かるか、征士。」
常日頃はひまわりのように明るい遼の声は、突如、現れたものへの不安のためかわずか、ひきつれていた。
「分からない。分からないが、魑魅魍魎や妖の類がやらかしたことではなさそうだ。」
いつもと変らぬ冷静な声音に遼が驚いて征士を見た。
「それって、どういうことだ?」
「はっきりとは言えないが、この空間に悪い気はしない。妖気や瘴気を感じない。……どちらかといえば、寺社で感じる霊気に近いものがここには満ちている。」
再び、驚いたように目を瞬かせて遼は征士を見つめた。真実をその眼に映す彼の言うことに嘘はないのだろう。では、ここは一体、どこだ。
「じゃあ、俺たちは……」
遼の言葉を遮ったのは、白い闇に黒々と映える、鼠であった。人の拳よりもずいぶん大きい。ぬばたまの闇のごとき艶のある美しい被毛が、白い闇を破って逆に凶暴に見える。それが、突然に白い闇に生じて二人の視界を過る。一匹ではなかった。ずいぶんと離れたところにも何匹か蠢いている。
身の危険を本能で感じた二人は、背中合わせになって事の成り行きをじっと見守る。同時に、鎧玉に力を注いだ。
「……駄目だな。」
「やはり、か。」
鎧玉は反応しなかった。これで、三度目になる。霊気の満ちている場所に、鎧は呼ぶことはできない。この空間もまた、そのような特殊な場所だと分かったとき。
変化は唐突に起きた。
何かに操られるように、黒い鼠たちが白い闇を裂いて一斉に走り出す。あるものは、真横に、あるものは縦に。不思議なことに、彼らは全く同じスピードで走っていた。
二人の足元にも、一匹、駆け寄って、去って行く。
鼠たちの駈けた跡には、定規で引いたような綺麗な黒い直線が描かれていた。
遼と征士は小さく首を傾げ、視線だけで遣り取りをする。
……これは何だ、と。
鼠の走った跡に描かれた軌跡の意味を、二人理解できない。
その様子をはるか高みから見下ろすことができるものがいれば、一目でそれが何であるかを理解しただろう。
縦に四本、横に五本。
修験の道においては九字と呼ばれ、陰陽の道においてはドーマンと呼ばれる呪法の象であることを。
鼠たちは駈けて行った先で霧散した。
「あれ?」
何かに気付いたように、遼が小さく声をあげた。
「どうした。」
「俺の感覚がヘンになったのかな。足元、なんだか重い感じがしないか。」
言われて征士は、自分の足元に視線を遣る。目を細め、異変を見極めるために神経を集中させたとき。
ゆらり、ゆらり、とくるぶしの辺りで水面が漣をたてて揺れるのを見た。
……水?
試しに足を持ち上げてみる。しかし、雫が落ちることはない。靴もまた、水に濡れている様子はなかった。
「どうかしたか?」
背後の遼に征士は冷静に応じる。
「足元に、水の幻のようなものが、ある。」
「水の幻?」
征士の言葉の選び方に反応して、遼は眉をつり上げる。応じて言葉を継ごうとしたとき、別の声がそれを遮った。
「幻ではありません。本物の水です。ただの水ではありませんが。」
声の出所に、二人は同時に視線を走らせる。
そこに、人の形をした灰色の靄に似たものが佇んでいた。定まった形ではなく、しかしふわふわと浮いてしまうほど軽い様子でもない。不思議な、そして不気味な存在だった。声はわずか、水を通したようにくぐもって聞こえた。
「誰だ!」
遼が鋭い声音で問う。相手はそれに気圧された様子もなく、声音を変えぬまま、言葉を白い闇に滲ませた。
「名乗るほどの者でもありませんが、ご挨拶に参りました。」
「挨拶だと?」
「挨拶するならば、名乗るのが筋というものであろう。」
いきり立つ遼の隣で、ずしりと重い征士の声が響く。
「そうですか、それならば、ご挨拶替わりということで。」
灰色の靄から、細い腕が突き出た。
刹那、白い空間がぎしりと耳障りな音を立ててひずむ。悲鳴にも似た残響が二人を取り巻く、その瞬間。
「遼、伏せろ!」
征士が叫んだ。遼の肩を抱き寄せ、一緒に身を沈める。
一拍の呼吸を置いて、二人は顔だけで見上げる。視界に映ったのは。
透明な水の妖であった。
人の体ほどの大きな顔は狼に似ており、その体躯は鳥を思わせる二枚の羽が付いていた。
双眸には陰惨に燃える赤。
その二つの眼が、はるか虚空から遼と征士をねめつけるように見下ろしている。
ばさり、と大きな両翼を羽ばたかせた。水飛沫が千々に飛び散る。妖が次の攻撃を仕掛けようと構えたのを見て取って、征士は遼を背に立ち上がった。
「遼には指一本触れさせん。」
目を射るばかりの目映い若葉色の光輝が征士の体を縁取る。眼差しに苛烈な色を浮かべて妖と対峙したのと、それが襲いかかって来たのは同時。
両手をかざして防御の体勢をとる。
征士の発する気と妖の気が喰らい合い、空間がごうと鳴る。鮮やかな緑と昏い赤の光が絡み合いながら駆け巡る。白い闇がぐにゃりと曲がって空間ごと大きく歪んだ。
弾みで、妖は一旦、二人を見下ろす高みに戻る。
征士もまた、全身のエネルギーを一気に放出したために、肩を喘がせて、荒い息をついている。
視界に過った遼の姿に異変を感じたのはその時だった。
「どうした、遼!」
何の攻撃も受けていなかったはずの遼が、足元に倒れ込んでいた。苦しげに浅い息を繰り返して、みじろぎしている。
「遼……!」
二度目の征士の言葉に、ようやく遼は反応した。ゆっくりと顔を持ち上げ焦点の定まらない瞳を征士に向けた。
「力が……入らないんだ。」
意識を失いかけているのか、再び瞳を閉じて、ゆらりゆらりと漣を描いて揺れる幻の水に沈み込もうとする遼の上半身を、征士は抱き上げる。そのまま灰色の靄に目を転じて眦をつり上げた。
「貴様、遼に何をした!」
「何をしたと言われましても。お連れの方を害したのは、貴方自身ですよ。」
征士は目を細め、小さく息を飲む。得体の知れぬ相手に声を張り上げた。
「私が遼に何をしたというのだ!」
灰色の靄がふわりと揺れた、どうやら笑っているらしい。くく、とくぐもった声が聞こえる。
「五行の理を知らぬ者を、なぜ、寮は使うのかわからない。話に聞いた通り、よほど手駒がないらしい。」
「五行の理だと?」
「ここは私が作った呪力を含んだ水の結界。そこで貴方が力を出すとどうなるか。」
息を詰めて征士は相手を睨みつける。数呼吸置いて、冷静な意識を取り戻した瞬間、相手の意図を理解した。
すなわち。
金生水……金属は水滴を生み、ゆえに金は水を生じ。
水剋火……水は火を消す、ゆえに、水は火に剋つ。
金気である自分の気は、水の気を盛んにさせる。つまりこの水の結界の力を増幅させ、その水の結界は火の性である遼を弱らせる……。
そこまで辿り着いて、征士は彼に似つかわしくない狼狽えた表情を浮かべた。腕の中の遼の顔を覗きこむ。普段は血色の良い頬からは血の色が失せ、青白い。弱々しく閉じられた瞼は、二度と明るい瞳を見せることはないように思えた。
……守ると言った矢先に、私自身の力が、遼の存在を危うくしていた。
征士は目を伏せ、遼を抱き上げた腕にわずか、力をこめる。
底知れぬ罪悪感と後悔が、荒れた海の波のごとく押し寄せる。自らの激しい感情に搦めとられそうになって、征士は軽く頭を振った。ここは、戦場だ。一時的な情動に溺れている場合ではない。生きてさえいれば、嘆くことも、謝ることも、後でいくらでもできる。
「……すまない。」
白い闇の中、ひそりと呟いて。
それが聞こえたのだろうか。
腕の中の遼が小さくみじろぎして顔を上げた。うっすらと目を開けている。瞳に宿る光は弱々しい。色をなくした唇からぎこちなく言葉が紡がれた。
「だい……じょうぶだ……」
征士に向って、ゆるりと遼の手が伸ばされる。必死に想いを伝えようとするかのように。
「遼……」
眉をひそめた征士を見て、遼は仄かに笑いかけたようだった。
「俺……のことは、気にするな……。だい……じょうぶ、だから、俺に構わず……戦え」
語尾はかすかになり白い静寂に消え入った。征士の腕に遼の体重がのしかかる。
遼が意識を手放したのと、征士が意を決したのは同時。
すまないと、もう一度、心の中で呟いて。
征士は力強く立ち上がった。
一秒も早く、遼自身を弱らせているこの水の結界から連れ出さなくてはならない。
「『気』を使わねばいいのだな。」
征士はぼそり、と呟いた。
……ならば、素手で勝負だ。
自分の荷物の中にある竹刀を引き抜いてすっと背筋を伸ばし、征士は正眼に構えた。妖を見据える目に、もはや迷いはない。紫水晶の瞳が激しい怒りを宿して相手を睨め付けた。
征士の気を感じて、再び水妖がカッと大きく口を開けた。中から透明な飛沫が舞い散る。ばさり、ばさり、と二度打ち鳴らされた羽から、水飛沫が跳ねて白い闇に滲んだ。
再び空間がごうと唸る。
飛来した水妖を征士は竹刀一本で真っ二つに断ち切った。
衝撃で、どぉんと空間が轟いた。
刹那、いんいんと燃え上がっていた妖の赤の双眸が光を失う。
「やったか……」
独りごちたその背後に、新たに殺気を感じ、征士は振り向く。
千々に砕け散ったはずの水妖の水飛沫が、一度、大きな球形に姿を変えた。その球形の卵から水妖が再び生まれ、征士をめがけ飛来する。陰気に燃える赤の双眸は、以前にも増して激しく怒気をはらんで燃え上がり、征士を捉えていた。
呼吸を整える間もなく、征士はそれを迎え撃つ。だが間に合わず、右翼を半ばから折っただけだった。千切れた羽が無数の水滴となって白い空間に弾け飛ぶ。
飛散した水滴は集まり、右翼はすぐに元に戻った。妖は威嚇するように征士の真上の高みで大きく羽ばたく。
しらじらと白い闇の中で、征士の硬い紫水晶の瞳と、妖の昏い赤の目がぶつかったとき。
征士の視界の端に、光るものが映った。
妖の胸のあたりに、透明な水妖の体躯の内で、ひと際強い輝きを放つ、それ。
……あれが妖の本体だ。
大きく鼓動が跳ねる。
戦いを重ねて来たものの、直感。
征士はそれを、自分の勘を疑わなかった。
真上から妖が垂直に滑り落ちて来る。
迷わず、その部分に竹刀を突き刺した。
グエッ、っと怖気を含んだ鳴き声が白い闇に、波紋が広がるように響き渡る。
征士の真上で、妖は幾千もの水滴となって飛び散った。光射す所で見れば、それは壮絶に美しい光景であったかもしれない。しかし、白い闇の中、それはただ、ぬらぬらと白い色を映しただけでぼたり、ぼたりと不愉快な音を立てて落ちた。
妖が霧散したあと。
灰色の靄は消え、後にはひらりと一枚、白い懐紙が落ちただけだった。
白い闇が消えつつあった。
人々の喧騒や、派手な色彩の看板広告が蜃気楼のように現れ出した。
結界が解け始めたのだ。
ならば、ここは吉祥寺駅の構内。
征士は慌てて竹刀を戻し、片膝をついて遼を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「……ああ。ここは?」
目をゆっくりと見開いて、遼は上半身を起こそうとした。先程まで、体中に重い鉛の枷をつけられていたような感覚はもうない。白い闇も水妖も、知らない間に消えていた。
ふいに、起こしかけていた上半身を抱き締められる。
侘しい秋の夕暮れの似た、切なくやさしい抱擁。
「すまなかった。」
……遼を弱らせる罠にみすみす誘い込まれ、挙げ句にこのような形で遼自身を危険に晒してしまった。
心地よく響く征士の低い声が体越しに伝わって来る。遼にはその真意は分からない。ただ、生真面目なこの人には、それを問い返してはならないということだけは知っていた。
ざわざわと喧騒が戻って来る。
そのことの意味を理解できぬ二人ではない。
何事もなかったかのように立ち上がる。
遼は征士に肩を借りて人混みに紛れ、帰路についた。
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