春雷前(3)
久しぶりの自宅のソファに座って、秀はうーんと背伸びをした。仲間と過ごすのは楽しいが、やはり、自分の家は落ち着く。
妻、里菜が今日は仕事が休みということで秀は一度横浜へ帰った。遅い昼食を中華街で一緒に食べて、近所の山下公園や赤煉瓦倉庫を散策したあと、夜景を見ながら帰路についた。秀と里菜の暮らすマンションは中華街からほど近い。デート、といっても、生活圏内である。それでも二人で歩くと十分に楽しめるのだから、この土地は魅力にあふれている。
キッチンから戻って来た里菜が、秀と自分の前にジャスミンティーを置いて、秀の対面のソファにくつろいだ。
「あ、ありがとな。」
言って、秀はグラスに手を伸ばした。
「ねえ、麗黄。」
「なんだ。」
「元気ないわよ。」
里菜は言って、じっと夫を見つめた。大きな黒い瞳は秀を映している。いつもは人の目を捉えて離さないアジア系の特徴的な表情が翳っている。元気なショートカットがわずか、揺れた。
瞳で問い詰められて、ジャスミンティーを口に運ぼうしたその手を秀は止める。
「そ、そうか? そんなことねえよ。気のせいだろ?」
「……昼ご飯、二人前しか食べなかった。おやつの肉まんも三つしか食べてない。」
「そ、それはだなぁ。昔の仲間に会って、ちょっと食い過ぎだって言われてな……」
「ごまかさないの。」
ピシリと里菜に言われ、秀は抵抗を諦めた。がっくりと肩を落とし、長い溜め息をつく。
「……今、俺ら吉祥寺に集まってる理由は話したよな。十年前のことも。」
「うん。」
「でも、今回のは、十年前のと全然、違うんだよな。なんかこう、誰を、何を相手に戦っているのか分かんねえんだよ。つかみどころがないっていうか……。」
里菜はその続きを無理に促さなかった。相手の言葉を待つ。秀はぐいっとグラスのジャスミンティを一気に飲み干して続けた。
「伸の奴は何か隠しているみたいだし、遼もここのところ、ちょっと元気がないんだよ。まあ、あいつのことだから、五人の力が集まるってことに神経質になってるんだろうが。」
銀座で渡井から金烏玉兎集再生の日取りを聞いてから、遼の笑顔がわずか、曇るようになった。その変化が分からぬ秀ではない。そして秀が気付いているということは、他の三人も同様なのだろう。
「肝心の俺らの頭脳の当麻の奴は、今回の事件に対して何も結論を出してないしな。知ってて言わないのか、全く分からないのか、それすらも言わないんだから逆に怖いんだよ。唯一、救いなのは、征士のヤローがまともだってことか。」
仲間には言えない本音を吐き出して、秀は頭をがりがりとかき乱した。
「俺さ、単純だから、目に見えないものになんとかしろっていわれても困るんだよな。……だから、悔しいんだ。」
そこまで言い終えて、何か満足したように秀はほうと吐息を吐く。
里菜が、やさしく笑んだ。すっと細めた目に、気遣いの色が浮かんでいる。
「麗黄は?」
「俺?」
「不安なのは麗黄のお友達だけじゃなくて、麗黄もなんでしょ。じゃなきゃ、私の麗黄はこんなに落ち込まないもの。」
言われて、秀は大きく目を見開いた。視線の先で、妻が微笑んでいる。胸につっかえたものを吐き出すようにと、やさしく笑いながら言っている。
束の間の沈黙のあと、秀は俯きがちに言った。
「なあ、里菜。」
「何?」
「もし、俺が鬼だったらどうする。」
今度はたっぷりと時間があった。里菜はゆっくりと瞬いて、夫を見る。
「鬼?」
「そう、鬼だ。人を殺したり、街を破壊したり、そんな悪さをする奴だ。」
「麗黄は、十年前、そういう相手と戦ったんでしょ。なら鬼じゃないわ。」
里菜は言い切って、身を乗り出した。
「何があったの、麗黄……。あなたが鬼だなんて。」
妻の表情が見る見るうちに不安に沈むのを見て秀は狼狽えた。最も守りたいものを自分の手で苦しめたくはない。
それでも、と思う。
最も大事な相手だからこそ、自分の抱える不安をきちんと伝えておく必要があるのではないかと。そうでなくては、相手が先の見えない不安を抱えたとき、自分にぶつけることはできない。喜びのときも悲しみのときも、とはよくいったものだ。ただ二人でいることが楽しければいいというものではない。長い時間を共に過ごす道を選ぶということは、楽しい時間よりもむしろ、辛い時間を一緒に共有するためにあるのだといつしか思うようになっていた。
「あのな、里菜……」
そう切り出して、秀はかいつまんで十年前の事件から今回の事件に至るまでの、自分の胸の裡に抱えてきた疑惑を話した。螺呪羅の幻術にはめられたときのこと、自分で壊してしまった新宿の街のこと、自分たちの纏う鎧が元は鬼の鎧であること、銀座で天狗から鬼と言われたこと、ひとつひとつ、丁寧に。
聞き終えた里菜は、ずいぶんと長い間考えているようだった。
その間、ずっと秀の顔から視線をそらさず、ひたすら自分の二つの眼で、伴侶の真実の姿を探っているようでもあった。
それから一度、目を閉じ、今度はゆっくりと見開く。ぴたり、と秀の瞳に視線を合わせて。
里菜は迷いの欠片ひとつ見せず、言い切った。
「麗黄が人だろうが鬼だろうが化け物だろうが、私は信じてるから。貴方が正しいって。だから、前を見て頂戴。私が愛したのは、真直ぐに前を向いて揺らがない貴方よ。」
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