「毛利さんは、何に囚われていらっしゃるんですか。」
千早は尋ねた。
その言葉は、伸の心の水面に綺麗な雫となって落ちた。清冽な光を弾く飛沫と、漣のように広がる水の輪。全ては伸が親しんで来たもの。
だから、疑うことすらできなかった。
「……戦いが、ありました。」
ぽつり、と言葉を落とす。わずか、俯いたまま。
ソファに戻った千早は、労るような柔らかい面持ちでその姿を眺めている。
「それは、銀座で、あの青い鎧を着ていた人と関係があるのでしょうか。」
「はい。……僕も彼と同じように、鎧を纏って戦っていました。……それが家に伝わる掟でしたから。」
心の奥底で警鐘が鳴っている。しかし、甘やかな調べに麻痺してしまった理性にその音は届かない。
何と戦ったのか、とは千早は聞かなかった。ただ一言。全てを見透かしたかのように言った。
「それはさぞ、お辛かったでしょうね。」
「えっ……。」
伏し目がちだった伸は、打たれたようにぱっと顔をあげて千早を見た。
「毛利さんが戦いを好むとは思えませんので。」
「戦いに向いていない、ということですか。」
言いながら、違う、と伸は心の中で呟いた。本当は、何故、自分が戦いを好まないと分かるのかと問いたいのだ。
「いえ、そうではありません。毛利さんなら、大切な方々が危機に瀕しているときは、どのような相手でも身を呈して戦うのでしょう。けれども本当ならば、そういうことがあって欲しくない、淡々とした平和な日常を送りたいと、戦いとは縁遠い世界で暮したいと思われているのではありませんか。ゆえに、戦いも、戦いのある世界も好まないのではないかと思ったのです。」
「どうして……。」
千早は薄く微笑した。
「私にも分かりません。ただ、なんとなく毛利さんを見ているとそう感じるのです。」
とくとくと流れ込んで来る千早の言葉に、伸の心が脆く震え出す。
今まで誰も、戦いを好まない真の自分の姿を見抜いてありのままに受け入れることはなかった。自分ですら、それは己の弱さなのだと諦めていた。
記憶を遡る。
輝煌帝の事件のとき、一度、自分は鎧と決別した。
けれども、守るべき仲間の存在の重みに気づいたとき、再び戦う道を選んだ……鎧ではない、争いを好まない自分との戦いだ。その時、知ったのだ。鎧玉は、五人の絆の象徴であると同時に、戦いとは無縁でいられない自分の運命の証なのだと。だから、鎧の宿命をもう一度、受け入れた。
それでも、苦しかった。
この手で、正義と悪を断じてしまうことが。
そんな資格は自分にはない。
だから、今回の事件では、十年前のような戦いはしない、と決意した。その代わり、自分の身をもって事態を収拾できるなら迷わず己を差し出すことを覚悟している。犠牲は少ない方がいい。
「……そうですね。争うのは苦手です。穏やかな時間を過ごしたいと、願っています。」
言ってから、ふと伸は疑問に思う。
千早と会うのはこれで何度目だろうか。自分の胸の裡がこんなにも露になるほどたくさん、言葉を交わしただろうか。
「それでも、戦う宿命には抗えない。……おっしゃる通りです。僕は囚われています。」
鎧という宿命に囚われている、と。
伸は告白した。
「自分の望む生き方と課せられた運命が違っているのは、疲れませんか。」
とろり、と誘うような口調で千早は言う。伸は小さくうなだれて、吐息をついた。
「……そうですね、僕は戦わなければいけない運命に疲れているのかもしれない。」
仲間にすら言えず一人で抱え込んできたものを、伸は言葉とともに吐き出した。
千早に全幅の信頼を置いて。
ポロン、ポロンと思考に流れ込んで来る甘い音色に脳髄が痺れる。
……伸は、銀座で千早が自分の記憶に触れていたことなど知るよしもなかった。
千早が制作をしているアトリエでこれまでの作品を見せてもらった伸が、屋敷から帰る頃には、陽も傾きはじめ、空は青から薄紫へと変りつつあった。
中庭に面した廊下を千早に導かれながら歩いている途中、伸はふと足を止めた。
きっちりと閉められた障子の一枚だけが、ほんのわずか、手のひらを広げた程度開いている。
その向うは薄暗く人の気配はなかったが、色があった。
唐紅の衣の。
全身が緊張で強ばる。
どう、と体の中に、宿っている蛇神が蠢いた。
「どうかされましたか。」
「いえ……。」
慌てて、先を歩いていた千早に追いつく。
「あの部屋には、何かあるんですか。」
振り向いて、先程の部屋を指で示す。その仕種を目で追って、千早は答えた。
「あの部屋には人形がありますよ。」
「人形?」
「諏訪の実家から持って参りました。幼い頃の唯一の友人でしたので。」
「そう、なんですか。」
頷いてはみたものの、何かすっきりしない。
唐紅の色は仮に自分の勘違いだとしても、何故、蛇神は反応したのだろうか。
「なにか気になることおありですか?」
「いえ、大丈夫です。」
身に宿る太古の神が反応したのだと告げるわけにもいかず、伸は小さく首を振った。
屋敷の門まで伸を見送った千早は、そのまま先程の、伸が足を止めた部屋へ向った。もう夜がひたひたと近付いて来ている。薄紫の空からは光が失せ、紺の帳が降りていた。
障子を開けて電気をつける。
暗闇から白々とした空間に反転する。
明かりは部屋の中央にある小さな揺り椅子と、そこに座る唐紅の衣を纏う人の形をしたものを晒し出した。
ただの人形にしては大き過ぎる。八歳か九歳、それくらいの歳の頃の子どもを思わせる背丈だ。肌も瑞々しく、目には生者の光が宿っている。ただ、人間と違って全く動きがない。瞬きも、呼吸に連なる胸の動きも一筋の髪の乱れも、ない。その点では人形とも言えた。
千早は『それ』に近付くと、膝を折って目線を同じ高さに据える。
口の端をわずかに持ち上げ、くつくつと笑う。その面には、先程まで伸に見せていた柔らかなものは跡形もなく消え去り、かわりに禍々しいまでの玲瓏な微笑が浮かんでいた。濡れた朱の唇が言葉を紡ぐ。
「どうですか、泡嶋様。」
返事はない。声は、ひそりと部屋の空気に滲んだ。
「あれが、貴女の伴侶となるものです。お気に召しましたか。」
やはり答えはない。それでもくつくつと、千早は楽しげに笑い続ける。
「貴女がお生まれになるのは、あと少しです。さぞ見物でしょう。二千年にも渡って『忘れられていた』貴女が、ミアレするのですから。」
ようやく、最重要人物(?)が出てきました。続きはブログにて。

