東京タワーを一望できる港区の住宅街の中の、ひときわ目立つ屋敷の門の前で、伸は手にしたメモと屋敷の表札を何度も見比べた。メモには千早樹から教えられた自宅の住所が記してある。表札にも「千早」とあることから、ここが彼の家だということは間違いない。が、その屋敷の構えの大きさに伸は驚き目を瞬かせて思わず見入ってしまった。
道なりに続いて、どこで終わるかわからない白塀、車でも入れそうな広い門。その向うには、緑がこんもりとした森のように生い茂っている。まるで寺社のようだ。
高さのある門は、切り出したままの木が支柱として使われていた。他者を威圧するような立派な門扉に彫り込まれているのは、何かの家紋。
「これ……。」
思わず手を伸ばして、その家紋に触れる。固い凹凸が手に伝わってくる。
桜の花弁のように五枚に広がった葉が三つ、それを支える幹と広がった根を象った珍しい家紋。
どこかで見たことがある、と伸は思うのだが、思い出せない。と同時に、家紋があるということは住まう千早もまた、自分と同じく連綿と家を継いできたのだという予想が脳裏を過る。
五日前、吉祥寺のゲストハウスに千早から伸宛に手紙が届いた。内容は、先日、銀座でお世話になったお礼をしたいので、自宅に招待したいというものだった。郵便受けのチェックは伸が行っているから、その手紙はこっそりとキッチンに隠した。当麻の目にでもついたら、反対されるのは想像に難くない。
そして今日、偶然にも当麻はナスティと外出、ついでに遼と征士と秀もそれぞれ用事で外に出た。おかげで、誰にも咎められずに千早の家を訪れた。
すうと息を吸い込み、深呼吸をする。緊張を解いてから、インターホンを押した。
「ようこそお越し下さいました。」
通いの家政婦だという年嵩の女性に案内されたのは、和室ではなく、広い洋間だった。南向きに大きく設えられたガラス窓からは、光が燦々と射し込み、照明をつけていない室内を明るく染めていた。その光の中に、鶯色の着物を纏った千早が立っている。光を浴びてゆるゆると長い髪は浅い黄金に輝き、そこに今しがた、太陽神が舞い降りたように神さびて見えた。
「今日はお招きいただき、ありがとうございます。」
「いえ、こちらこそ。都合も伺わずに不躾な手紙を送ってしまったことをお許しください。」
細い面に微笑を浮かべて、千早は伸にソファへ座るように促した。
「今日はお一人で?」
「ええ、たまたま友人たちが用事でいなかったものですから。」
手紙には一人で来て下さい、とは書かれていなかった。こういう時、本来なら友人の一人でも一緒に連れて来るのだろうが、事情が事情だけに説明が難しい。
「てっきり、あの青い鎧の方と一緒に来るのかと思っておりました。」
言われて、伸はひゅっと息を飲んだ。目を見開いて、千早を凝視する。他意は何もないのだろう。ただ、この人は、何もかも見透かしているようで、時折、怖くなる。その冷たく整った美貌も手伝って。
会話が途切れた瞬間、ドアをノックする音が響いた、続いて声が。
「千早さま、入ります。」
「どうぞ。」
ドアの向うから現れたのは千方だった。手にグラスと菓子の入った器の載ったトレイを持っている。
その姿を見て、伸は、えっ、と思わず声を漏らして、彼のことをまじまじと見つめてしまった。
初めて会ったのは、銀座で千早を救出したとき。黒い細身のスーツを身に纏い、高級車の中から違和感を感じさせることなくすっと出て来た。漆黒の瞳が印象的な、夜の眷属かと見紛うくらい黒いスーツと車が似合っている青年、というのがイメージとして強く残っている。
が、今、目の前にいる千方はやはり細身の黒いスーツをきちっと纏っているのだが、その上から目にも眩しい白いエプロンを着けていた。お世辞にも似合うとは言えない。その滑稽にも見える姿のせいだろうか、前に会ったときに感じた痛みをともなう既視感は感じなかった。
半ば茫然としている伸をよそ目に、千方は慣れた手つきで二人の前にグラスと茶菓子を置くと、踵を返して部屋から退出しようとした。それを千早が止める。
「うん、やはり前から私も思っていたのだけれど、そのエプロンは不評のようだよ。」
束の間、奇妙な沈黙があった。
「そうなんですか。」
光を宿さぬ黒い瞳が、わずか、興味を示したように動いた。ただそれだけで、驚いた様子も困惑した様子も伺えない。眉一つ動かぬ無表情だ。
「見て御覧、客人が動揺している。」
千早に名指しされて、驚いた伸が目をまるくしたのと千方が伸を見遣ったのは同時。視線が一瞬ぶつかって、すぐに千方は視線を前方に向け、二人の目の前でエプロンを脱いだ。綺麗に折り畳んで脇に挟む。
「失礼します。」
何の感情も伺わせぬ声音で言って、千方は部屋を退出した。その一部始終を、伸が不思議そうに見つめていたのには気づかなかったようだ。
「あの……彼はいつも家の中でエプロンつけているんですか。」
恐る恐る、伸は千早に尋ねる。クスリと笑って千早が答えた。
「いつもという訳ではないんですけどね。家事をするときは必ずあの格好なんですよ。しばらく前にこちらに越して来た折、この家には私と千方の二人でした。二人とも家事に疎いものですからすぐ家政婦を雇いましたが、しばらく経ってから彼は家事に興味を持ち始めて家政婦から学んだようです。その最初の家政婦に、家事の際には必ずエプロンを着けることを厳しく教え込まれたようで。以来、あの調子です。まあ、おかげで、今は家政婦の方には三日に一度、来て頂くだけですんでいるので私の世話係としては十分、役に立っているのですが。」
「はあ……。」
気抜けしたような言葉とともに、伸は小さく頷く。本当に、人は見た目に寄らないらしい。
乾いた喉を潤そうとグラスに手を伸ばしかけた時。
ポロン。
深く深く透明な水底を思わせる音が、響いた。
ポロン、ポロン……。
音は集まり、旋律を奏でた。花の咲き乱れる草原を駈ける風の如く甘くやさしい調べだ。
伸が小さく首を傾げ、音の出所を伺っていると、千早がおっとりと言った。
「ああ、隣室で琴をつま弾き始めたようですね。」
「千方さんですか?」
「いえ、訳あってこの家で暮らしている知人です。」
その間にも、妙なる音は絶え間なく空間を満たす。会話の妨げにならない程度の慎ましやかさで、しかし、場に静寂をもたらさないくらいには美しい音の流れで。
音色に誘われ、うっとりと聞き入りかけた伸に、千早が尋ねた。
「東京へは、お仕事か何かで?」
「え?」
いきなり現実に引き戻される。伸は思わず千早を凝視した。そこには相変わらずの穏やかな笑みがある。鳶色の右目だけが、じっと伸を見つめていた。
「仕事という訳では……。」
思わず視線を伏せ、口ごもる。仕事以外の理由で地元から離れて東京に滞在する理由を、伸は思い浮かべられなかった。かといって真実を話すことはできない。
黙ってしまった伸に、何を思ったのだろうか、千早はすっとソファから立ち上がると、燦々と陽の射し込む大きな窓辺へと移り、外の庭を眺めやった。盛りを迎えたツツジが、赤紫や白、朱色に庭を彩っている。
「すみませんね。貴方のことが気になって、思わず伺ってしまいました。こちらのことをひとつも話さず相手に事情の説明を求めるとは失礼しました。」
「いえ、そんな。」
伸の謝罪の声音を気にした風もなく、千早は続けた。
「以前にも少し話しましたね。私は諏訪の出身です。諏訪の、ある神社の宮司家の嫡男でした。」
諏訪の神社、と聞いて伸は諏訪大社を真っ先に思い出した。しかし、千早はそこまで言及していない。ならば諏訪にある他の神社なのだろう。
「古い村でした。この時代に……神社への信仰がとても篤い、神様がすべて守ってくれると村人全てが信じている、そんな村です。当然、宮司家の嫡男は神社を継がなければならない。たとえ、本人にその意志がなくても、です。」
そこで一旦、千早は言葉を切り、顔だけで伸の方を振り返った。逆光でその面は見えない。ただ、ゆるゆると長い髪が、左目を隠してわずかに揺れているのが分かった。
「ですので、村と神社では古より暗黙の了解で行われていることがありました。……神社の嫡男は、生後一年目に左目と左足を呪術によって封じられます。村から、神社から逃げられないように。」
千早の腕がゆっくりと動いた、映画のスローモーションのようにそれは伸の目に映る。心の中で、その先の行為に戦き、小さく体を震わせる。見たくない、と唇を噛み締めるのと、千早が長い髪をかきあげたのは同時。
ゆるゆると長い銀鼠の髪の下には。
やはり左目はなかった。
あるのは、ミミズが数匹、そこに這っているように醜くひきつれた痕だけ。
伸は思わず目を閉じて俯く。そして、銀座で千早が「走れない」と言っていた理由に納得した。
「私はそれが嫌で、逃げてきました。狭い村の中で、古い神社を守るために生まれてきたのではないと強く思ったからです。奉じるべき神も守るべき村人も見捨てて、……ここに逃げてきました。」
古のしきたりよりも、自分の自由を願って、ここに逃げて来たのだと千早は言う。
その言葉に伸はわずか、目を見張った。針の先ほどの小さな何かが、心にひっかかる。
千早は再び、伸から目を引き離し、窓の外の庭を見た。
「それでも、宿業というのでしょうか。ご存知の通り、今の私には神様が降りて来て下さって、それを絵にしろとおっしゃる。それに抗えず、こうして生きながらえています。逃げて来たつもりのはずが、未だ、縛られているような気がしてならないのです。」
諦めと、哀しみと。二つの成分をその言葉に感じとって、伸は小さく吐息を吐いた。
多分、どこか似ているのだ。
宿命の輪から逃げようともがいているつもりで、本当は縛られたまま抗えない自分と。
辛い運命を生きている人なのだ、と伸は思った。
「ただ私は、普通の暮らしをしたかったのです。」
一瞬、息を止めて、伸は千早の背中を凝視した。
普通に暮したい……それは誰の、いやそれこそが自分の願いではなかったか。
それからずいぶん長い間があった。ゆうるりと甘く脳髄を刺激する琴の音色だけが部屋に響く。
音もなく千早が振り返る。伸を見る目にちらと妖しの光が過った。その視線に晒されているにも関わらず、伸は千早の変化に気づかない。とろけるような調べに、思考は麻痺していた。
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