第26話 春雷前(2)

 第26話 春雷前 (2)


 遼と征士の二人が町田の純の家を訪ねたのは、銀座で事件が起きてから一週間と少しを過ぎた日曜の午後だった。田無神社で再会を果たしてから、一ヶ月が過ぎている。その間、遼たちは慣れない出来事に翻弄され、一方、純はといえば、大学の新学年のスタートで忙殺され、五人が仮住まいをしている吉祥寺に足を運ぶことすらままならなかった。
 そんな純に遼から連絡があったのは三日前。重要な話があるという。両親の次に慕っている大切な「お兄ちゃん」の言葉を無碍にできない。その日の友人たちとの映画の約束をキャンセルして遼たちを自宅に招いた。

「強くなったな、純。」
 竹刀を降ろした征士が目を細めて静かに笑っている。純は肩を竦めて首を横に振った。運動後の心地よい汗が首筋を伝う。
「十年前の征士兄ちゃんの足元にも及ばないよ。」
 言って純はわずか、視線を空から征士へとすべらせた。
 お世辞でも謙遜でもない。かつて、光輪の鎧を纏って戦う征士の姿は何よりも美しく強かった。鬼神、とは彼のことをいうのだろうと思ったのは、それからずいぶん後のことだ。普段は口数の少ない征士が、光輪剣で闇を切り裂く姿は、幼心に強く焼き付けられた。
 だから、こんな形で剣道の形稽古をつけてもらう日がくるとは思いもしなかったので、二人が来訪してから今日は浮かれ気味だ。
「純はまだ十八なんだぜ、これからもっと強くなればいいんだ。そうしたら、今度は試合で征士から一本とってやれよ。」
「無理言わないでよ、遼兄ちゃん!」
「ははは、冗談だよ。」
 中庭に設えた洋風の椅子に座って二人の練習風景を見物していた遼が茶々をいれる。もちろん、純の努力も征士の強さもすべて周知の上だ。その言葉に、純は一瞬、幼げな表情に戻りに拗ねた色を浮かべた。隣で征士は苦笑する。
「しかし、本当に大きくなったもんだな。こんなに背も伸びて。あの純とは思えないぜ。」
「お兄ちゃんたちが三十路になっておじさんに片足を突っ込むころには、僕、まだまだ青年だから。」
 つんと澄まして言う純に、遼が頭を抱き寄せてその髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。
「純、誰にそんな口調を習ったんだ? 俺の知ってる純は素直で年上思いのやさしい子だったのに!」
 五月、もう初夏に近い眩しい陽光を浴びて輝く白い椅子とテーブルに征士と純が戻ると、笑いが弾ける。賑やかな風景は、少し前の征士と純の稽古で張り詰めた空気を嘘のようにかき消した。
 嬉しいな、と真直ぐな気持ちで純は思う。
 対等ではない、それでも対等に近い場所で、自分に接してくれる、その距離が心地よかった。十年前は、自分は非力な子どもで、ただただ、「お兄ちゃんたち」に守られ、憧憬することしかできなかった。それが今ではこうして、学校の先輩と後輩のように身近な存在として接してくれる。 
 テーブルには純の母親が用意してくれた冷たいハーブティとサンドウィッチが載っている。グラスにハーブティを注いで、一口飲んだ征士は、素朴な疑問を純に投げかけた。
「しかし、何故、まだ剣道を続けているんだ? 大学生ともなると、学業以外にもいろいろ忙しいだろう。やめていくものも多いのだが。」
 子どもの頃に親にすすめられて剣道を始めても、多くは受験、大学進学を機にやめてゆく。今の社会では、剣道の段が進学や就職に有利に働くことはない。道場を営む家で育った征士の疑問は当然のものだった。
 その言葉に、一瞬、考えるように黙り込んだ純は、対面に座る二人をしっかり見てから言った。
「強くなりたいんだ。」
「え……。」
 遼が思わず声を零した。征士もまた、わずかに目を見開いて純を見る。
「お兄ちゃんたちの言いたいことは分かってる。力を追い求めることは危険だとも知ってる。」
 ドクドクと、心臓の音が早くなる。自分の想いを、誤らずに理解してもらうには丁寧に説明する必要があった。
「十年前、僕はお兄ちゃんたちに何度も何度も助けられて元の世界に戻ることができた。そして、何よりも僕の父さんと母さんが助かったのも、お兄ちゃんたちが命をかけて戦ってくれたおかげなんだ。もし、お兄ちゃんたちが負けていたり、戦わなかったりしたら、僕も父さんも母さんも、今頃、妖邪に喰われているかもしれないって、後で気づいた。でも、僕には大切なものを守る術がない。だから、せめて、今度何かあったとき、父さんや母さんや、友だちや、お兄ちゃんたちを守る力が欲しいんだ。戦う力じゃなくて、お兄ちゃんたちのように全てを引き受ける力でもなくて、手の届く範囲の大切なものを守る力が。」
 そこまで言い切って、ふと純は、十八歳にはふさわしくない大人びた表情を浮かべた。
「包丁を持っているひとが皆、人殺しになるわけじゃないって聞いたんだ。……つまり、力っていうのは使い方さえ間違えなければ、ないよりもいいと、僕は思うんだ。」
 そこまで言い切って、純はふうと大きく息を吐いた。
 ……正しくても、やさしくても、大切なものを守れないときがあることを十年で知った。
 遼と征士は互いに顔を見合わせる。
 気持ちは同じだった。
 純がまだ中学生なら、何かアドバイスの一つでもしたかもしれない。けれども今の純は、もう大人といってもおかしくない年齢だ。その彼が、十年かけてそういう決断をした、その決意に水をさすことはできない。
「分かったよ、純。」
 遼が明るい笑顔を向けた。純は驚いたように目を瞬かせて遼を見つめた。
「大きくなったのは、体だけじゃなかったんだな。参ったよ。」
 言って遼は、わずか、遠い目をした。
 十年前、自分は、今の純のように、明確に守るものを意識していただろうか。ただ導かれるままに、心を磨き、技を極めて阿羅醐を倒す、その一点しか考えていなかったのではないだろうか……。
 しばらくの間があった。
 鳥のさえずりが、枝葉がささめく音が、沈黙を埋める。
 ふいに、何かに気づいたように純が言った。
「ところで遼兄ちゃん。大切な話があるって言ってたのは?」
「ああ、その事だけど。」
 言い出すタイミングを逃していたが、遼はこれを伝えるために純の家まで押し掛けたのである。
「この前、神社で会った神主さん、覚えてるか?」
「うん、渡井さんだよね。」
「あの時、『金烏玉兎集』っていう本を再生させるっていう話があっただろ。それが次の日曜日なんだ。どうする、純、来るか?」
 遼の声が、最後、わずか翳った。本音を言えば、純をこれ以上巻き込みたくない。当麻でさえ現状把握ができず、毎日のように図書館やら本屋から大量の本を持ち込んで来て調べているようだが、それでも未だ本人の口から決定的な判断は出ていない。そんな異常な状況に無理に付き合わせる必要はない。
 それでも、純には知っておく権利がある。十年前の事件に立ち会い、「命の勾玉」に選ばれた者として。
「もちろん行くよ。」
 迷いなく純は答えた。目には強い意志の光が宿っている。
「あの神主さんも言ってたよね。あの結界はお兄ちゃんたちだけでなく、お姉ちゃんや僕も関係があるんだって。だったら、行かなきゃ。」
「そう、か。」
 言って、遼は、ほんの一瞬、痛みを堪えるような笑みを浮かべたが、すぐに元の明るい表情に戻った。
 その様子を隣で見て取った征士が、うまく話題を逸らす。
「そういえば、白炎はどこだ?」
「来てるぜ。」
 不思議そうに遼は首を傾げてから中庭の奥に植えられたツツジの茂みに声をかけた。
「おい、白炎!」
 グルルル、と獣の声が応じた。
 白い大きな体躯の獣が、蜃気楼のように曖昧に輪郭をとったあと、姿を現した。
「白炎!! そんなところにいたの!」
 歓声をあげて、純は白炎のもとに駆け寄る。遼たちの前では一人前の大人として振る舞っても、白炎の前では、子どもの頃に戻ってしまう。
 その姿を微笑ましく見遣りながら、征士が静かに尋ねた。
「怖いのか。」
「え……。」
 思わず、顔をあげて隣の席の征士を凝視する。そこにはいつもと変らない静かに整った顔が、何の感情も露にせずあった。
「遼は、金烏玉兎の話が出てから、あまり浮かない顔をするときがあるだろう。やはり、輝煌帝のことを考えているのか。」
「征士に隠し事はできないんだな。」
 言って遼は、両膝をテーブルについて手のひらに顎を乗せた。
 五人の力が集まるとき、それは十年前、輝煌帝の出現を意味した。しかし、その輝煌帝は、鎧世界の暴走により、五人の敵に回ってしまった。因果関係ははっきりしないが、輝煌帝の鎧を出現させてしまったがゆえに、鎧世界の暴走が始まった可能性も未だ否定できない。
 だから今回、『金烏玉兎集』という本の再生のためとはいえ、五人の力をひとつにすることに、遼はちりちりと胸をあぶられるような不安を覚えていたのだ。
 純には決して見せなかった物憂げな表情の遼に、征士が慈しむような柔らかな声音で言った。
「一人で抱え込むな、遼。そうでなければ、私や、他の仲間や、そしてなによりも私たちを守ってくれるという純はなぜ、お前の傍にいるんだ? 安心しろ。何かあったら私が皆を守り抜く。だから、そんな表情をするのはよせ。私が辛くなる。」

次へ