「あの……、乃千清美(のじきよみ)さんですか?」
「ええ。」
ナスティに声をかけられた女性は、すっとそちらに目を転じ、目だけで笑んだ。
ランチタイムを過ぎた昼下がり、当麻とナスティは新宿区にある城南大学近くのカフェに来ていた。大学が近いにも関わらず珈琲一杯が五百円強という強気の値段設定のためか、学生がたむろする姿はなく、店内はクラッシックのBGMだけが静かに流れていた。
今回の事件について調べていた当麻は、一冊の興味深い本と出会った。
「鬼の系譜」という本だ。
鬼、と呼ばれるもの、その周辺の天狗や狐、そういった妖怪と呼ばれてきたもの、異能と呼ばれるもの、それらの歴史を芸能と宗教の歴史と関連づけて論じたものだ。読み終えた瞬間、当麻はピンときた。自分の今必要としている知識をこの筆者は持っている、と。しかし、本そのものが広く浅く論じているせいもあり、物足りない。この筆者に会うことはできないだろうか、そうして辿り着いたのが乃千清美だった。
乃千清美、一九五九生まれ。二十代で京都大学を卒業後、許嫁と結婚。二人の息子を育て上げ、三十代半ば、能の鑑賞に興味を持つ。それが高じて四十歳で城南大学史学科に入学、卒業論文として提出した「鬼と能面」が学会誌で取り上げられる。そのまま大学院に進み、今は城南大学で助教授を勤める一方で、日本史を再検証する本を上梓している……。
それが、事前に当麻が彼女について入手していた情報の全てだ。
しかし、今、目の前でナスティに笑顔を向けた女性は、どう見ても五十歳の大学助教授の風貌ではない。ナスティと同い年か、頑張って見積もっても、二、三歳年上のOLのそれだ。ほっそりとした体のラインが出る落ち着いた色のスーツ、快活さを物語るような黒髪のショートヘア、薄い化粧の上からでも分かる肌理の細かい瑞々しい肌。
予想との落差に、当麻が呆気にとられて目の前の女史をまじまじと見つめていると、隣のナスティがコツンと肘でつついてきた。慌てて正気に戻り、居住まいを正す。
「はじめまして。ナスティ柳生と申します。この度は忙しい中、お時間を頂きありがとうございます。」
「いいのよ、助教授なんて忙しいわけじゃないから。それに、柳生博士の研究には私もお世話になったし、そのお孫さんたってのお願いとあれば、ね。」
女史は言って、若い女のようにころころ笑った。
乃千清美という人物に会う機会を作ることができないか、と当麻の頼ったのがナスティだった。伝奇学科と史学科は研究対象によっては扱う範囲が同じこともある。柳生博士の名前を経由して会うことはできないかと相談を持ちかけた。しかし、乃千清美が四十歳で城南大学に入学したその年に、ナスティの祖父は他界している。学者同士としての面識はないはずだ。それを承知でナスティは彼女の研究室に連絡をいれると、二つ返事で快諾された。もちろん、この時、ナスティも彼女を「五十歳の学者」として認識していたわけなのだから、やはり、目の前の三十路を越えているかいないかの風貌には、内心、戸惑うばかりだ。
女史に促されて、対面の席に二人は座った。その目が興味深そうに当麻を見ている。ナスティは思い出したように説明を始めた。
「彼は、電話でお話した先生の本に感動したという、民俗学に興味のある青年です。」
え、というように当麻はナスティを見た。そんな設定は聞いていない。確かに感動はしたが、そういう意味ではない。などと、心の中で糾弾していると、ナスティから強い視線で睨まれた。
「ちょっと、当麻、自己紹介ぐらいしなさいよ。」
しまった、と思った時には後の祭りである。五十歳の皺だらけで冴えないおばあちゃんのはずだった人物が、世の男性がこぞって結婚を申し込みそうな美人女史だったことに軽いショックを受けたせいで、すっかり段取りを忘れてしまっていた。
真剣な表情を作り直して、座ったまま軽く一礼する。
「初めまして。羽柴当麻といいます。本を拝読させていただき、非常に感銘を受けました。」
「あら、そう。ありがとう。こんな若くて綺麗な子に本の感想を貰えるなんて、学会で評価されるより嬉しいわ。」
そう言って、女史はまた快活に笑って言葉を継いだ。
「で、羽柴君はどこの大学かしら。柳生さんの後輩?」
「え……」
うっと言葉に詰まってしまった当麻である。
相手の質問は非常に常識的なものだ。自分のような二十代の男性が民俗学に興味を持っている、それをナスティから紹介された、という流れを考えればどこかの大学の学生であるのが最も自然である。しかし、実際は日本の高校すらまともに卒業していない。高卒認定試験に通ったのは去年の秋だ。そして今は、予備校生……。
答えあぐねた当麻をナスティが救った。
「あ、彼はこの春までアメリカの大学に留学していたんです。勉強熱心な性で、今度は日本の大学に入学したいと勉強中なんです。」
「あらまあ、うらやましいこと。」
女史は、当麻を見て微笑んだ。しかし、その目だけ笑っていない事に、状況に踊らされている当麻は気づかなかった。
「それで、私に聞きたいことというのはどういうことかしら。」
珈琲のカップを置いて女史が静かに尋ねた。直球だ。だから、当麻もそのまま返した。
「先生の本は非常に勉強になりました。ですがどうも、研究対象が多岐に渡り過ぎて存在にリアリティが感じられないのです。」
一瞬、間があった。店内のBGMはホルストの惑星がかかっている。
「それで?」
「先生は、鬼をはじめとする彼らの存在を『民俗学的フィクション』と捉えているのか、それとも実際に存在したものと捉えているのか、その辺りをお伺いしたいのですが。」
女史は背もたれに体を預け、しばらく目を閉じていた。
肩を小さく震わせ、咽の奥を絞るような笑い声を立てている。
「乃千先生?」
ナスティが不審に思い声をかけると、ぱっと上体を起こした乃千が、壮年の女性にしては盛大な笑い声を上げた。
「研究者としての生活はそんなに長くないけれど、そんな質問をされたのは初めてだわ。羽柴君、あなた、理系でしょう。」
「ええ、まあ……。」
否定はできない。いや、むしろ自分の言いたい主旨が相手に伝わったかどうか不安である、言葉を選び損なったか、と当麻が後悔しはじめた時。
「鬼は、いるのよ。」
さきほどまでの、朗らかな様子とは一変した乃千清美が、研究者の面差しで当麻を見た。
「鬼は、いるの。私の中にね。だから研究者になったの。」
他者を圧する強い眼差し。
当麻は彼女の言葉に秘められたものを理解し兼ねて息をのんだ。第一印象の明朗さからは想像できない、底知れぬ闇を感じる。ナスティも同様なのか、わずかに顔が青ざめていた。
「『正史』というものについて、羽柴君はどう思う?」
「先生の本を引用させていただくと『権力に都合の良い歴史』ということですか。」
「そうね、そういう考え方もある。でも考えてみて。『正史』という言葉のいやらしさを。歴史に正しいも間違っているもあると思う? 歴史というのは、刻々と流れる時間の大河に人間が事象を記したもの。本来なら全てが平等に記され伝えられるべきだと思うの。でも実際、この国が正史として伝えようとしているものは、勝者の歴史なんかよりももっと残酷な、人殺しよりも忌むことよ。」
淡々とした口調でそこまで言って、女史は珈琲を口に運んだ。
ごくり、と息を飲む音を聞いて、当麻はその先を促す。
「人殺しより残酷なこと、とは?」
「敗者を歴史から抹殺し、かつその怨念を封じるために『正史』という呪術で封殺しているのよ。」
目を見開いて、当麻は女史を見た。低い声で言葉を紡いだその面差しには自信に満ちた余裕がある。時折、短い前髪をかきあげる仕種は若い者のそれだが、言葉にこめられた重みは、年嵩を重ねた者のものだ。ここ一ヶ月で文献にあたっている自分とは視野が違う。だから、その本当の意味が分からなかった。
しん、と空気が冷ややかに重くなる。ナスティすら、その言葉に対して応じる術を持っていなかったらしい。
それに気づいたのか、女史が堅い表情を和らげ、口許に笑みを刷いた。ふっと空気の緊張が緩む。
「じゃあまず、簡単に、私たちが歴史というもの、教科書で習うそれがいかに『いい加減』で『不確定なもの』か説明してみましょうか。記紀はわかるわね?」
「ええ、概要だけですが。」
「古事記の成立が七一二年、日本書紀の成立が七二○年、おかしいでしょう。同時期に一人の……天武天皇の意志を継いだ歴史書が二冊も作られているのよ。何の必要性があって? しかも、古事記が公になったのは平安時代も半ばを過ぎてから。それまで皇室の奥深くに秘匿されてきたの。そして、古事記の後に成立したはずの日本書紀には、古事記のことは全く触れられていない。当時、歴史書を編むということは国家の大事な仕事だったはずなのに、何故、『日本書紀』やそれ以後に編まれた『続日本紀』や『日本後紀』はそれを記さなかったのかしら。」
「古事記偽書説ですね。」
ナスティが何かに気づいたように口を挟むと、女史は目を細めて笑んだ。
「そう。今でも議論の余地が残されている『古事記』が堂々と正史として教科書に載っている。その一方で、全くの偽書と烙印を押されて正史から消されて来た文書もあるのよ。たとえば、最近、注目を浴び始めている『先代旧事本紀』。これは今でも偽書であると扱われている。でもね、江戸中期まではこれが記紀より前の日本最古の歴史書だとされていたの。その後に研究がなされて、主に序文の引用が出鱈目だということで偽書とされたわ。平安時代に成立したこの文書の中には現存しない物部文書の中の物部氏とその祖神であるニギヤハギの記述が多く記載されている。つまりね、これは時の権力者、藤原氏の目から逃れるために序文を偽装して、物部氏の子孫の誰かが消されてしまった自分たちの輝かしい歴史を残そうとした証なの。」
「物部氏の歴史はなぜ消されたのですか?」
「物部氏が皇室より古い神の末裔だからよ。だから、輸入された仏教を国の宗教として礼拝するかどうかで諍いが起きた時、物部は古来の神を守ろうとし、仏教推進派の蘇我馬子に負けた。さらに、古いその神を封じてアマテラスという女神を仕立て上げたのが天武天皇の后である持統天皇。こうして、物部氏の歴史は正史から消されて来たの。」
哀しみをも感じさせる静かな口調で当麻の問いに応えた女史は、言葉を継いだ。
「あまり知られていないけれど、こうして『正史』を守るために、日本書紀を編む前には各地の豪族の編んだ本の焚書すら行われたのよ……。」
何かを悼むように、女史は目を伏せた。
ナスティも当麻も、突きつけられた事実から目を背けることができない。それぞれの裡で咀嚼し、理解を深めるには知識が不足していた。
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