第25話 春雷前(1)

 第25話 春雷前


 視界いっぱいに千歳緑が広がっていた。
 どこか鄙びた地の山の中であろうか。
 人を寄せ付けぬ深い森の中、しっとりと濡れた濃い緑色をまとう木々はどれも幾星霜を重ねたものだ。太い幹とその根方の苔が歳月を物語っている。
 鳥の鳴き声ひとつなく、森閑として、葉擦れの音すら聞こえない。全くの無音。
 湿った森の大気には光すら射さず、薄暗い。
 五感に訴えかけてくるのは、深く暗い緑色と、木々が呼吸する匂いだけ。
 そんな、時間の流れから切り離された世界に、色が生まれた。
 緑に映える、鮮やかな唐紅の色。
 静かな森の色の調和を破るような鮮やかな衣を身につけた童女がそこにいた。
 緑の黒髪が、風もないのにふわりと揺れる。
 その髪の下に見えた表情は、歳に似合わない大人びたものだった。
 何かを強く決意したような、運命の全てを受け入れることを覚悟したような、静謐で穏やかな表情。
 濃い紅の衣を揺らしながら、しずしずと森の奥に分け入っていく。
「待って!」
 世界に初めて、音が響いた。どこか舌たらずな、性別の不分明な幼い声。
 童女は振り返った。
 そこには、やはり濃い緑に映える純白の袍をまとった亜麻色の髪の少年がいた。
 驚いているのか、それとも焦っているのか、目を大きく見開き、何かを訴えるように童女を見ている。
「行ってしまうの?」
 こくり、と童女は頷いた。
 その言葉を聞いて、少年はあどけない顔に苦しげな色を浮かべる。
「行かないで。」
 少年の切羽詰まった声に、童女は心を動かされたのであろうか。静けさをたたえていた表情が、ゆっくりと子どもの顔に戻ってゆく。時をおかず、一気に崩れて今にも泣きそうな面持ちになった。その、さくらいろの薄い唇が動いて懸命に言葉を紡いでいる。しかし、少年には聞こえない。首を傾げて聞き返すだけだ。どれくらいそうしていたか。童女は諦めにも似た笑みを浮かべた。一度、目を閉じてにこりと少年に笑いかけてから、再び前を向いた。そして、深く暗い緑の森の奥に歩みはじめる。
 その後姿を見送って、少年はがくりと膝をついた。純白の袍が黒い土で汚される。
 苔むした土に、一粒、涙が落ちた。俯いた少年の口から悲痛な言葉が零れる。

 ……行かないで。




「……行かないで。」

 眠りの波の狭間に、何かに縋るような苦しげな声を聞いて、当麻は目を覚ました。
「伸?」
 自分の胸に身を預ける声の主にそっと語りかける。返事はない。規則正しい寝息が聞こえるだけだ。それでも当麻は根拠のない嫌な予感が拭えずに、ベッドサイドのランプを灯した。
 枕元だけふわり、と暖かい橙が二人を包む。
 やさしく照らし出された世界に似合わぬものを見てとって、当麻は柳眉を潜めた。
 伸の枕元が、濡れている。
 その意味をすぐに理解し、ドクンと心臓の脈打つ音が早くなるのを聞きながら、当麻は一気に覚醒した。理性を総動員して、現状を考察する。
 寝言を発したのは間違いなく伸だった。その枕元が濡れているのは、涙のせいだろう。夢を見たり寝言を発したりするのは眠りの浅いレム睡眠中だという。普段なら簡単に見せない涙を流すような辛い夢を、今、見ているというのだろうか。
 伸にとっての辛いこと、それは過去においても現在においてもただひとつ、だ。
 「戦う」ということ。彼はそれを得意としないにもかかわらず戦士となった。
 ならば今、涙を流しているのは。
 ……何と戦っている、伸。
「伸、おい、起きろ!」
 起こすには多少、大き過ぎる声で当麻は伸の肩を揺らした。
 その腕の中で、ゆっくりと伸の瞼が開かれる。何度か瞬きをして、それからまだ夢と現の境にいるようなぼんやりとした声で応じた。
「……ん、何だい?」
「起きてるか?」
「君に今、起こされた。」
 さりげない軽口に、当麻はほっと安堵の息をついた。
「何か、夢を見ていたんじゃないのか?」
 ん、と伸は小首を傾げた。まだ半分、眠りの海に意識を沈めたまま、曖昧な記憶を辿る。
 ああ、またあの童女の夢だった気がする。
 唐紅が印象的な。
 とても悲しい夢のはずだった。しかし、その内容までは覚えていない。
「見ていたような気がするけど、覚えていないんだ。」
「……本当に覚えていないのか?」
 伸は小さく肩を竦めた。
「覚えていたら、こっちが聞きたいよ。大丈夫、悪い夢じゃない。」
 『大丈夫』、その一言を聞いて、当麻の紺藍の瞳に一瞬、険しい光が宿った。伸がその言葉を使う時、彼自身と他人を無意識に欺いているということをここ一ヶ月で学んだ。どうやら、伸には夢について何か心当たりはあるらしい。言わないのは伸の自由だ。だから自分は、言えない伸を受け入れる……。
 当麻はベッドサイドのランプを消した。夜の帳が静かに降りる。
 腕の中で、まだうつらうつらとしている伸の、線の細い体を夢から守るように抱き締めた。伸はみじろぎをして、当麻の方を向いた。こつん、と頭を当麻の肩に乗せる。そしてそのまますやすやと寝入ってしまった。
「起こして悪かったな。……ただ、怖かったんだ。」
 当麻の切ない独り言を聞いていたのは、伸の腕の中で眠る黒い霊獣だけだった。

次へ