黄金の斎庭(ゆにわ) 〜壱〜

 第7話 黄金の斎庭 〜壱〜


 2009年2月の第1日曜日、ナスティは三重県の伊勢市にある皇學館大学の伊勢キャンパスにいた。
 皇學館大学は、1980年代後半に、当時の伊勢神宮祭主であった久邇宮朝彦親王によりその礎が築かれ、國學院大學とともに、日本の神道系の大学の代表と位置づけられている。
 新婚生活のまっただ中、毎日がミルクチョコレートのように甘い日々を送っているナスティだったが、若い頃の伝奇学への興味は薄れることはなく、現在も祖父のつてで、千石大学に足を運んで情報収集に勤しんだり、こっそりと若い学生にまじって興味のある講義を聞いたりする時もある。
 昨年の暮れ、大学の伝奇学研究室関係者のみが登録できるメーリングリストで、興味をそそられる講演をナスティは見つけた。
 皇學館大学伊勢キャンパスで行われる「神々と人間」と銘打たれた講演の内容は、記紀成立以前の、日本人の信仰概念について語られるということで、ナスティはそれを見た瞬間、鳥肌が立った。なぜなら、今、ナスティが興味を持っている「伝奇学」の根っこを掘り下げる、という作業で、この「記紀成立以前の日本人の感覚」について知ることは、とても重要な事柄だったからだ。
 語り手は加陽貞次(かや ていじ)氏、西東京市の田無神社の宮司を務める傍ら、精神科医、東京大学客員教授としても活躍している。
 講演が行われるホールの入り口で、表情を引き締めたナスティは、甘い新婚生活を頭の中からすっかり追い出して、講演会場に入った。

 約1時間にわたる講演を聞き終えて、興奮冷めやらぬまま、ホールの隣に設けられた休憩所の椅子に座り、ナスティはメモ帳を何度も確認する。
 書き落とした点はないか、聞き落とした点はないか、湛然にチェックして講演内容を思い起こす。その姿に、新婚の二文字は全く見受けられなかった。
 作業に集中していたナスティの上から、声がした。
「はい?」
 長い髪を流して、顔をあげると、その視線の先で中背のスーツ姿の男がナスティを覗き込んでいた。
 浮かべている笑みに、いやらしさはなく、とても自然で、全身に纏う空気も柔らかい。ちょっと奇妙な点といえば、そのスーツ姿が微妙に似合っていない事と、独特の笑顔のせいか、年齢が曖昧な点だった。しかし、このような研究ジャンルでは、こういった手合いの男性は珍しくなく、むしろ「マトモ」な方であるので、ナスティは嫌な顔をみせず、応対した。
「あの、私に何か用でしょうか?」
「突然すみません。ナスティ柳生さん、ですよね?」
 え、と思わず、ナスティは小さく呟く。
 この講演に来ていることは、千石大学の関係者は知らないはずであり、だとすれば、この男はなぜ、自分の名前を知っているのか、いささか不気味だと思ったのだ。
「わたくし、先程、講演をしました、加陽貞次が宮司を務める田無神社の神職の渡井(わたらい)慶一と申します。今日は加陽の付き添いでやって参りましたので、いかんせん、時間がなく、手短かにお話することをお許しください。」
「あの、何のことでしょう。」
 ナスティは表情を消して、男を観察する。決して、不審なところはない。しかし、何かがナスティを不安にさせる。
「10年前、あの、東京大事変の折に、事件の中心にいらした方ではありませんか。」
 それは疑問ではなく、断定の口調だった。ナスティは小さく唇を噛み締める。
 あの事件の際、大阪に臨時政府ができたり、主に新宿一帯が被害にあったことで、「事件が起きた」という認識は政府にもマスコミにもあり、もちろん、国民も知るところではあったが、なぜか、事件の被害だけが報じられ、その原因、内容といった詳細が報じられることはなかった。ましてや、妖邪界の結界の中で戦っていたナスティ達のことを知るものは皆無のはずだ。
「あの事件は、仕組まれたものでした。我々は、予め判っていながら、決定的な力を得る事ができず、あのような凶事を招いてしまったのです。そして、まだお若かったあなた方に、生死の淵を渡らせるような惨い経験をさせてしまいました。」
「あ、あの、何のことでしょう。」
「お疑いになられることは、重々、承知の上で話しております。しかし、どうぞ、私が神職者であり、神に仕える身であることを信じていただきたいのです。」 
 男は相変わらず、笑顔だったが、その目に宿る光はまっすぐ、真摯なものだ。嘘をつく人間特有の歪みは、そこにはない。
 ナスティは、男の物腰の丁寧さと、実直な物言いに、虚言ではないことを認め、腹を括って話を聞く事にした。
「わかりました。確かに、わたしはあの事件の関係者です。でも、初めて会った方にお話できることは、それだけです。」
「ありがとうございます。わたくしも、それはもちろん承知の上で、こうしてお声をかけさせていただきました。今は、聞いて下さるだけで結構です。」
 男は一旦、言葉をおいて、一瞬、周囲の様子を伺った。何かを警戒しているようだ。
「あの事件は、始まりでした。あの都市に綻びをつくるものでした。そして、今年、再び、この国は災いに見舞われます。今のままでは。」
「え……。」
「凶兆は、弥生(3月)の中頃、この国の民が一斉に知るところとなります。それは、おそらく、空というスクリーンで。」
 携帯の振動音が、男の言葉を遮った。
 渡井と名乗った男は、ナスティに「すみません」と一言、謝って、携帯を取り出す。
 簡単な会話を終えて、再び、男はナスティを向いた。
「すみません。加陽からすぐ来るようにと連絡がありました。単刀直入にお願いがあります。10年前に関わった、あの事件の方々に、逢わせていただくことは叶いませんでしょうか。連絡先はここです。」
 男はそういって、鞄の中から名刺ケースを取り出し、長方形の紙切れをナスティに渡した。
「どうぞ、よろしくお願いします。なるべくなら、早めに。それでは、失礼します。」
 立ち去ろうとした男を、ナスティが呼び止める。
「待って、分からないことがあるんです。なぜ、わたしの顔と名前を知っていらしたのですか? それとも、神社に務める方は、公的な権力のデータベースに接触する権限でもあるのですか。」
 振り返った男は、相変わらず、穏やかな表情を浮かべたまま、わずかに苦笑いした。
「民社(たみしゃ)に務める一介の神主に、そんな力はありませんよ。恥ずかしながら、わたくしには少しだけ『視る』力があります。それで、偶然、ここを通りかかったら、お探ししていた方がいらっしゃったので、声をかけさせていただきました。信じていただけるでしょうか。」


 JR中央線吉祥寺駅の隣、三鷹駅からバスで15分のところに、田無神社がある。
 江戸時代には、青梅街道沿いの宿場町として発達したこの地域は、2001年、旧田無市と旧保谷市が合併し、西東京市として新しい行政区分に生まれ変わり、21世紀最初の新設合併の市として注目を浴びた。青梅街道、五日市街道といった都心へ向かう主要道路が走り、西武鉄道新宿線、西武鉄道池袋線といった鉄道が敷かれ、現在では、東京のベッドタウンとして発展を続けている。
 その西東京市で最も有名な神社が、この田無神社だった。
 その神社の鳥居の前で、遼、征士、秀、当麻、伸は立ち尽くしていた。
「今、春だよな。」
 誰に尋ねるともなく、遼が呟く。
 鳥居から本殿とおぼしき建物までは、500メートルぐらいだろうか。
 その周囲には、木造平屋の建物がいくつかあり、それを包み込むように、木々が生い茂っている。いわゆる「鎮守の森」である。
 しかし、その木々は春に似つかわしくない色をしていた。
 木々に繁る葉は、すべて黄金色をしており、ちらちらと舞い落ちる葉が、春の柔らかい日射しの中で、まるで、天からこぼれ落ちた光のかけらのように踊っている。
「ざっと見たところ、全部、公孫樹(いちょう)の木のようだな。常識的に考えると、この時期の公孫樹は、若葉が生えて、同時に花も咲いている頃だ。本来なら、黄緑、と考えるのが普通だが。」
 遼の問いに答えてか、当麻が頭の中のデータベースから一般的な回答を引き出した。しかし、目の前の状況の説明にはなっていない。
「まさか、春に黄色に色づく公孫樹があるなんてね。驚いたよ。それにとても綺麗じゃない? 神話に出てきそうだよ。」
 あっけにとられつつも、この不思議な事態を面白そうに受け入れるのは、伸の性格と育った環境ゆえだ。
「これだけ、公孫樹があるんだったらさ、銀杏(ぎんなん)もたくさんあるんじゃね?」
「秀は、本当に食べ物のことばかりだねぇ。いっておくけど、神社の銀杏は勝手に取っちゃいけないんだよ? 神様の木なんだから。」
「別に、取って食うなんて言ってないだろー。ただ、公孫樹と言えば、銀杏というのが定番だと言ったまでだ。」
「諦めろ、伸。秀に風情を求めても無駄だ。」
 生い茂る黄金に魅入っていた征士が、ぼそりと呟く。古代の宮廷人たちが、「宮城野」と称し憧憬した仙台で生まれ育った征士の目にも、眼前の情景は不可思議に映ったようだ。
「驚いたでしょ。私も、2月に来た時は、本当に驚いたもの。話によると、一年中、こんな感じに黄色に色づいているんですって。これぞご神威というやつかしらね。」
 ナスティが嬉しそうに話す。5人には事前に「神社の神職の方が逢いたがっている」と告げてあったのみで、その神社について一切説明しなかったのは、自分が感嘆した体験を5人にも味わって欲しいと思ったからだった。
 携帯の着信音が響いた。
 ナスティが慌てて、鞄の中からシャンパンピンクの携帯を取り出す。
「はい、わたし。うん、もうすぐよ。角をまがって、すぐ。」
 言い終えるか終わらないかのうちに、横断歩道を挟んだ道路の向こう側に一人の青年が現れた。信号が青になるのと同時に駆け出して、遼たちのもとに向かってくる。
「お兄ちゃん達、久しぶり。」
 遼と同じくらいの身長の青年は、すらりとした体躯に、ジーンズと赤のラインが目立つリブボーダーのニットソーを身にまとって嬉しそうに笑顔を浮かべている。
「もしかして、純なのか?」
「もしかしなくても、そうだよ。遼にいちゃん!」
 信じられない、というような顔つきで5人からまじまじと見つめられて、純は居心地が悪くなったのか、照れ笑いをして頭をかいた。
「おにいちゃんたちも、大きくなってるんだから、俺も大きくなって当たり前じゃないか。言っておくけど、もう大学2年なんだかからね。」
 遼たちは、毎年、正月に届く年賀状でしか純のことを知らなかった。
 今でも町田に住んでいること、遼たちと別れてから地元の剣道教室に通い始め、現在も、剣道部に所属していること、昨年春に慶応大学に入学したこと。そういった、点としての情報は知っていても18歳の青年としての純については、想像していなかったのである。
 10年前、遼たちは14歳で、現在は24歳である。
 その時8歳だった純も、同じように10歳、年をとり18歳になるのは、当然の自然の摂理なのだが、いかんせん、白炎に乗ってはしゃいでいた頃の記憶がぬぐい去れない5人にとって、目の前の、自分たちとさして変わりがない青年と「あの純」を結びつけるには、多少の時間が必要だった。 
「まいったぜ! あの純がこんなにでかくなってたなんてな。」
「大きくなったね、純。大学は楽しいかい?」
「成長したな純。これでは、我々とあまり大差ないではないか。」
 かつて、自分たちも十分に子供だったことを棚にあげて驚く「お兄ちゃんたち」の中で、遼だけが、大人びた微笑みを浮かべて、同じ身長の純の頭をぽんぽんと叩く。
「元気そうで何よりだ、純。嬉しいよ。」
「うん、遼にいちゃんもね。」
 言ってから、純は、遼の足下に従う獣にも挨拶をする。
「元気だった? 白炎。俺、純。覚えてる?」
 白い虎は、グルルル、と鳴いて、純の手をぺろりとなめた。まるで、自らの子供を慈しむかのように。
 ナスティは、渡井氏の言葉に従って、10年前の事件に関する人物を、今日、ここに集めた。その中には、人ではないが白炎も含まれていた。遼に頼んでおいたのだ。
 新宿で機動隊に囲まれるという事件以来、白炎はその霊力で、人前に姿を現すことはなかったが、白炎自身が望む場合に限り、許された人間はその姿を見る事ができる。
「さて、これで主役は集まったわね。」
 ナスティが表情を引き締める。先方の渡井氏が、悪い人物だとは思わない。しかし、それだけで、味方だと言う事はできないからだ。
「確認しておくが、ナスティ。」
 先頭に立って、階段をのぼり始めたナスティを、当麻が呼び止めた。
「向こうに伝えてあるのは、俺たちが鎧をまとって、戦った、それだけなんだな?」
「ええ、それだけよ。おじいさまの資料も見せてないし、阿羅醐のことも、妖邪界のことも話していないわ。」
「わかった。」


 7人と1匹が、階段を昇り、鳥居をくぐる。平日のせいか、人気はなく静かだった。
 ふいに、伸が足を止める。
「どうした、伸。」
 当麻の問いに、伸が軽く首を傾げた。
「なんだか不思議な感じがする。鳥居を抜けてから、水の気配がするんだ。ねえ、ナスティ、この神社には、とても大きい池でもあるんじゃない?」
「いえ、そんなはずはないわよ。2回来て、その度に案内してもらったけれど、見た事ないわ。」
「おかしいなぁ。大きな、とても広い水の気配がするんだよ。」
 納得がいかないという風に、伸は周囲を見渡す。しかし、黄金の鎮守の森に囲まれたこの神社に、自らの想像するような水のある場所が見いだせないのは明白で、伸は再度、首を傾げた。
 参道を少し歩くと、前方に、翠色の袴姿の男性の姿が見えた。ナスティたちに向かって、頭を下げている。
 歩み寄ると、男は、年齢を曖昧にさせる独特な笑顔で再度、会釈をした。
「この度は、田無神社にようこそおいでくださいました。」
「渡井さん、こんにちは。今日はご招待、ありがとうございます。」
「いえいえ、こちらこそ、ご足労をおかけしまして。」
 ナスティとの挨拶をすますと、渡井は残りの6人の顔を見て、会釈をする。
「お約束通り、あの事件の際、わたしと一緒にいた者たちです。」
 それを、ナスティからの紹介と受け取ったのか、渡井は、遼たちの前に少しだけ近づいて、落ち着いた声で話し始めた。
「初めまして。渡井慶一と申します。この田無神社の職員を務めております。この度は、ようこそ田無神社へお越しくださいました。きっと、田無の神様も、あなた方をお迎えすることができて、喜んでいると思います。もう、話には聞いていらっしゃると思いますが、今日は、10年前の出来事について、お話したいと思います。そして、お話を伺いたいとも。どうぞ、よろしくお願いします。」
 10年前の出来事、という言葉に、神社の空気に似つかわしくない緊張感が走る。
 未だ、敵か味方か判別しづらいこの状況で、相手にどう接するべきなのか。
 逡巡している5人の迷いを断ち切ったのは、やはり、大将である遼だった。
「はじめまして。俺、真田遼です。こちらこそ、よろしくお願いします。」
 遼の晴れやかな笑顔と言葉に、渡井は、笑みを深めた。
「俺、秀麗黄です。よろしく。」
「伊達征士です。よろしくお願いします。」
「羽柴当麻です。」
「毛利伸といいます。よろしくお願いします。」
 そこで、笑顔を絶やさず、自己紹介を聞いていた渡井の笑顔がすっと静謐なものになった。
「毛利、というのは。ご実家は、萩でいらっしゃいますか?」
「はい。僕の実家をご存知ですか?」
 伸の表情からも、笑顔が消える。毛利という名字はそんなに多くはないが、かといって、萩にしかない、というような希少なものでもない。
「お父様の、毛利清一さんに、一度お会いした事があります。縁というのは、まこと、不思議なもの。」
「あの、失礼ですが、僕の父さんのことを知っていらっしゃるのですか?」
 伸の父は、3歳の時に儚い人となった。病死だと聞かされて今に至る。ゆえに、伸には、アルバムに残る写真以外での父の思い出がない。親類縁者は、温和で優しい人だったよ、と伸に語るだけで、それ以上は話そうとしなかった。 
「それについては、長くなりますので、後に、お話しいたしましょう。」
 深い笑みを取り戻した渡井は、そっと話題をそらした。
「そちらの、若い方は?」
 5人の少し後ろで、隠れるようにしていた純に、渡井は声をかけた。
「俺、山野純です。10年前は、まだ8歳の子供だったから、役に立たないと思いますけど。」
「いえいえ、そんなことありませんよ。いらした事に意味があるのです。それに、その霊虎は、あなたに心を開いている様子。」
「えっ?」
 驚いたのは、遼だった。白炎は、一般人には見えないはずなのだ。
「白炎のこと、見えるんですか?」
「ええ、まさか、生きているうちに、霊獣と言われる白虎に逢えるとは、思いもよりませんでしたが。素晴らしいですね。」
 笑みを崩さず、静かに答える渡井に、遼は少々、戸惑いの表情を隠せない。
 ナスティの紹介である限り、決して、害をなすとは思えないが、白炎が見える、ということは、一般人ではない、ということだ。
 それが、どういうことを意味するのか、今の遼には計り兼ねた。
 他の4人も同様に、複雑な表情を浮かべている。
 当麻は、先程の伸との会話を含め、この渡井という人物が、温和で深い笑みを浮かべるだけの神職者ではないと悟り、探るようにその表情を伺う。
 その視線の先で、相変わらず、年齢不詳の笑みを浮かべた渡井が、ゆっくり左手をあげ、黄金の木々の奥にある本殿を指した。
「それでは、まずは、田無の神様をご紹介いたしましょう。」 


2009.12.25 脱稿


田無神社 黄金の斎庭を写真で見る

やっと本編です。(え)実は、黄金の斎庭の回は前後編にしようと思ったのですが、6話が長過ぎたと反省いたしまして、ここで切りました。なので、予告にあった武装シーンは次になります。すみません(汗)ええと、実名がぼろぼろ。フィクションとしてお楽しみください!!(笑)吉祥寺の次にメイン舞台となる田無神社は、本当に西東京市にあります。素敵な神社でご神威も抜群です。イベント大好き神社(笑)オリジナルキャラクターとして出て来た渡井さんも、宮司の加陽さんもリアルにモデルがおります。(だから、田無神社に行っても黙っててね)一応、これを書くにあたり、田無の神様にお許しは得てきましたー。年末の大祓は行きます! その他、ダラはブログにて。