第2話 海つ神の神話

 第2話 海つ神(わだつみ)の神話


 大阪大学付属図書館。
 長い大学の夏休みのちょうど折り返し地点の8月半ば。
 一般的にこの時期の大学生は、バイトにいそしむか、人生最後の「学生時代」を楽しむべく、心置きなく遊ぶか、どちらかである。
 そんな時期に、図書館を利用するのは、主に来年の春に卒業を控えた4年生である。
 学部にもよるが、多くの学生は「卒業論文」というものを提出しなくてはならず、ゆえに、図書という資料に埋もれて、夏を過ごすのだ。もっとも、中には自宅にクーラーがなく、避暑がわりに図書館を利用する輩もいるわけにはいるのだが。
 そんな静かな図書館の片隅に、その場にそぐわない人間がいた。
 身長は140センチ程度、蒼みがかった髪と、やや目尻が下がり気味の目が特徴的な少年だ。
 周囲の大学生は、彼が図書館に入って来た時から、ちらちらと少年を見ていたのだが、見られている方は一向に気にする様子もなく、司書に手伝ってもらいながら、何冊かの本を選ぶと、自分の机に腰をおろして本を熱心に読み始めた。その本はもちろん、大学生や研究者向けの本であり、決して7歳の少年向けの本ではない。
 少年が図書館に入ってから3時間くらい過ぎたころだろうか。
 図書館の奥の方の机で居眠りをしていた大学生が、ふと、少年を目にした。何かを考えるように少年を見ていたが、やがて、静かに近づくと、少年の上の方から見下ろして、周囲に遠慮がちに声をかけた。
「おい、僕。ここは子供の図書館じゃないんだぞ。どうやって入ったか知らないけれど、絵本や童話もないし。大人の迷惑になるじゃないか。」
「ここの大学の図書館は、確か市民に開かれた図書館のはずだ。俺は必要な資料が読みたくて、ここの図書館の資料を読んでいる。何か問題でもあるのか?」
「な……。」
「第一、お前は大人なのか? 大人なら、俺より賢いはずだな。じゃあ、宇宙の年齢を知っているか? 推定でいいが。」
 大学生は、何か怖いものでも見るように少年を見て、一歩、足を後ろにひいた。
 残念ながら、この大学生は文学部生であり、理系の知識は高校生レベルだった。しかし、目の前の小学生に馬鹿にされるわけにはいかない。いくつかの記憶をたどり、行き着いた数字を答える。
「ええと、確か、46億年、だったか?」
 蒼い髪の少年は、最初、ぽかんとあどけない表情を見せてから、すぐに大人びた顔に戻り、その鋭い瞳で大学生を射た。
「阿呆。それは地球の年齢。宇宙の年齢は推測だが137億年。NASAの公式発表を信じるなら、の話だがな。」
 両者の会話は静かに行われていたのだが、もともと、静謐な図書館内である。
 聞き耳を立てていた他の図書館を利用していた大学生の間から、小さな笑い声が起きた。
 自分が嘲笑されていると悟った大学生は、怒りを露にし、それでも、ようやく落ち着いた口調で少年に語りかけた。
「キミ、頭いいんだね。もっといろいろ話したいな。ジュースおごるから、外にいかないか?」
「遠慮する。俺は本を読みにきたんだ。」
「そんなこと、いわないで、さ。」
 こわばった笑顔で、少年を誘い出し、馬鹿にされた仕返しをしてやろう、という安っぽい大学生の試みは、しかし、すぐに諦めるところとなった。
「私の息子に、何か用ですか?」
 大学生の背後に、男が立っていた。
 180センチは軽く超えているであろう長身の男は、ひょろりとしていて、威圧感こそないものの、白衣をまとったその姿は研究者然としており、大学生を畏怖させるには十分だった。
「いえ、子供が大学の図書館にいたもので、驚いて……。」
 バツが悪そうに、大学生が答えると、男は、表情を柔らかくしてわずかに微笑んだ。
「それはすみませんね。わたしが、今日、こちらの大学の太陽エネルギー化学研究センターの部会で仕事で来ていたものですから。息子は本が好きなので、司書の方にお願いして預かってもらっていたのですが。何か息子が失礼でも?」
「いえ、何も。ええと、俺、失礼しますね。そろそろバイトの時間なんで。」
 逃げるように、その場を離れる大学生を、少年と長身の男が見送った。
 姿が見えなくなったところで、白衣をまとった男は少年に声をかける。
「何かあったのか、当麻?」
「なにも。なあ、源一郎。最近の大学生は阿呆なんだな。あの大学生、宇宙の年齢すら知らなかったんだ。本当に大学生かよ。」
「みんながお前のようにはいかんさ。で、今日は何を読んでいたんだ?」
 源一郎、と呼ばれた少年の父は、机の上に置かれてある数冊の本を手にとる。
 『地球の水圏』『生命と地球の歴史』『深海の不思議』。
 もちろん、どれもやさしい本ではない。
「どうした、当麻。めずらしいな、お前が宇宙以外の本ばかり選ぶなんて。」
「宇宙はさ、源一郎の話と、これまで読んで来た本でだいたいわかったんだよ。あとは宇宙探査技術が発展して、新しい情報を待つだけだ。いつかは、俺自身が行ってもいい。でも、この前、テレビで見たんだ。これだけ宇宙のことが分かってるのに、同じ地球の深海のことは、まだまだ未知の領域だって。だから、面白いと思ったんだ。」
 ほう、と源一郎は声をもらして、息子の頭をやさしく撫でた。
「そういえば、当麻は海を見た事がなかったな。」
「大阪湾ならある。あと、テレビでも何度も見た。」
 少年が少しムキになって答えると、それを受け止めるように父は研究者らしくない柔和な笑顔を当麻に向けた。
「大阪湾は海だが、いわば人につくられた海だ。テレビの海は、所詮、映像にしかすぎないよ。当麻、一番最初に、天体望遠鏡で星を見た時、どう思った?」
 当麻は、7歳らしいあどけない表情に戻って、小さく首をかしげると、すぐにほころぶような笑顔を見せた。
「すごいと思った。こんな綺麗なものがあるって、宇宙ってすごいと思ったんだ。本で見てたのと、全然違って、生きていたんだ、星が。」
「それと同じことだ、当麻。映像や本で見る海と、本物の海は、それくらい違うんだ。どうだ、本物の海を見てみないか?」
「え? 源一郎、そんな暇ないだろ。」
「急な話なんだが、来週、四国の大学で講演会をすることになったんだ。先方がとってくれた宿の近くが海に近くてな。どうだ、夏休みだし、一緒に行ってみないか。今、お前の知りたがってる本物の海だぞ。」
 少年は、一瞬、自分のいる場所を忘れて、夢想する。
 テレビの向こうから聞こえたのは、波の音。広い碧。海の鳥。
 でもそれ以上は、わからない。実感がともなわない。
 本物の海に行けば、それがわかるのだろうか。
「源一郎、俺、海が見たい。だから連れてってくれ。」


*****


 父の車を降りて、堤防と堤防の間に開かれた視界に飛び込んで来たその風景の前に、当麻は立ち止まって息をのんだ。
「これが、海……?」
 8月の最終週。
 まだ夏休みで、大阪近辺の海水浴場なら、海で溺れるより、人込みに溺れそうな、そんな時期。
 今、当麻の目の前に広がる風景は、少年の豊富な知識と経験の範疇をはるかに越え、少年を飲み込んだ。
 南の国特有の青い空、肌を焼くような強い日射し、入道雲。
 大気には隅々まで潮の香が含まれ、息をする度に少年の体を海の香で満たす。
 見渡す限りの白い砂浜には、所々に流れ着いた海藻類が横たわっているだけで、人の気配すらない。
 時折、海鳥が鳴きながら、空と海の狭間を泳ぐ。
 そして、視界いっぱいに広がる、紺青色の海。
 すべて、少年が初めて見て、体で感じる世界だった。
「どうだ、当麻。」
 車を降りた源一郎が、いつの間にか当麻の横に立って同じく海を眺めていた。
「こんな世界があったんだな。源一郎の言った通りだ。本もテレビも、こんなの教えてくれない。」
 高揚感で、自分の胸の鼓動が聞こえてきそうだ、と当麻は思った。
 これまで、いろんな本を読むことで過去の偉人と対話したり、父のつてで、宇宙関係の専門家と何度も話をしたことがあるけれど、こんな高ぶる気持ちにはならなかった。
 いや、正確には一度だけ。
 4歳の時、誕生日に買ってもらった天体望遠鏡で、夜空を観た時の興奮とこの高揚感は同じ物だと、当麻は思った。
「ここの浜辺は、地元の人しか知らない浜辺だから、観光客も来ないんだそうだ。わたしは、借りて来たビーチパラソルとチェアで適当な所で本を読んでいるから、お前は目の届く範囲で好きな場所に行っていい。ただし、地元の人の話だと、ここは比較的、浅瀬部分が少ないそうだから、波打ち際から1メートル以上は、入るなよ。」
「わかった!」
 少年は、7歳らしい、いきいきとした返事と笑顔で父に答えると、さっさと着衣を脱ぎ始め、海水パンツとビーチサンダルになり、波打ち際に向かって、走り始めた。
 その後ろ姿を眺めながら、源一郎は呟く。
「当麻のあんな子供らしい顔見るのは、久しぶりだな。まあ、わたしが何も父親らしいことをしてやってないからかもしれないが。今日は1日、父親を決め込むとしよう。」


 波打ち際の、約1メートル手前で当麻は立ち止まり、ビーチサンダルを脱いだ。
 足裏に直接触れる、砂の感触。
 はじめは、奇妙な違和感を覚えたが、それもつかの間。
 当麻は、蒼い髪を揺らして、波打ち際にかけよった。
 小さな波頭を立てて寄せては返す波。
 寄せる波が、少年の足下をさらう。
 当麻は、もう、ただの7歳の少年に戻っていた。
 天才だとか、神童だとか言われ、大人の中で過ごして、自らにもそのように振る舞う事を課していた日常から抜け出し、初めて海を見た、純粋な7歳の少年。
 「すごいや。」
 寄せる波が当麻の足下を濡らし、ひく波は、浅瀬の姿を露にする。そこには、貝殻や海藻などの海の漂流物が姿を見せつつ埋まっている。
 海は透明度が高く、波の上からでも、いろいろな漂流物を見る事ができた。
 当麻は、手当たり次第、気のひいたものを手にとって眺める。
「これは、貝だ。これも。名前はまったくわからないなぁ。こっちは、多分、珊瑚かなにかのかけら。あと、これは、何だろう?」
 宇宙に関する事柄は、父親譲りの知識量を持つ当麻だが、海に関しては、普通の7歳の少年と同じだ。
 見たことのない世界。触れた事のないものたち。
 知識と情報の外側の、未知の空間。
 好奇心と、素直な喜びが押さえきれず、夢中になって当麻は浅瀬にかがみ込み、面白いものはないかと探す。
 波が去った瞬間、わずか50センチほど先に、太陽の光をうけて蒼くきらりと光るものがあった。
 当麻はそれを見逃さなかった。 
 浅瀬を少し進み、去る波に足下をとられないように注意しながら、その蒼く光るものに手を伸ばす。
 石でも、貝殻でもなかった。
 一見したそれは、形の悪い飴のようで、決して、他の貝殻のように美しくはなかった。
 けれども、当麻にとっては、それは心待ちにしていたもの。
「これが、シーグラス?」
 海に行くというので、予備知識のつもりで海に関する本を読んだ時に必ずでてきたのが「シーグラス」という言葉と写真だった。
 飲料の容器などが、波にもまれて角のとれた曇りガラスのような小片となり、海辺に流れ着くのだと書いてあった。
 当麻は日の光に透かして、その色合いを楽しむ。
「すごいな。すごくきれいだ。宝石みたいじゃないか。捨てられた人工物が、自然の海に育てられて、こんなきれいなものになるんだな。お前、どっちが好きだ? 人間と、海と? 生みの親と、育ての親と。」
 満足げに呟いてから、当麻は思う。
 そうだ、もう一つ見つかれば、父と母へのプレゼントになるじゃないか。
 父と母になにかを「プレゼントする」ということは、今まで考えついた事がなかった当麻だが、この美しい半人工物だけは二人に見て欲しいと心から思ったのだ。
 そんな当麻の気持ちに答えるかのように、ちょうど、斜め前方30センチくらいの所に、何か碧いものが沈んでいるのが見えた。ただ、そこはずいぶんと深くなっているためか、波がひいても姿を露にすることはない。
 当麻は振り向いて、波打ち際からの距離を目で測った。波打ち際から1メートル以上は踏み込むなと、父に言われたのを思い出したのだ。
「ギリギリ、ってとこかな。」
 ゆっくりと碧いものの方へ足を動かす。先に進むにつれて、引き際の波にさらわれそうになるのをぐっと我慢して、その場にとどまる。そして、また一歩、碧いものに近づこうとした瞬間。
「うわぁ!」 
 当麻の足下が、いきなりなくなったのだ。
 7歳の少年に、生まれて初めての恐怖が訪れる。
 落ちる。
 底がないみたいだ。
 俺はこのまま溺れるのか。
 さっきまで、やさしい顔を見せてくれた海というのは、こんなに残酷なのか?
 ……怖い。
 当麻は金槌ではない。
 必死に泳ごうと水を掴み足掻いたが、波が体を絡めとり、叶わなかった。


 気がつくと、当麻は碧い光の中にいた。
「ここは、どこだ? 俺は確か、溺れたはずだが。」
 一面の碧い光の帳は、海の表のようにゆらゆらと揺らめいている。
 当麻は自分の手を動かして、自分が海の中らしきところに浮いていることを知った。
「海の中には間違いないな。でも、息ができる。」
 水の中にいるためか、上手く動くことができない。
 どこまでも続く碧い光の帳。
 時間の止まったような、静けさ。
 どこか懐かしい、暖かさ。
 どれくらい、時間がたったころだろうか。
 当麻は眠気を覚え、ひとつ欠伸をした。
 俺、このまま眠ったら、死ぬのかな。
 いや、案外、もう溺れ死んでいるのかもしれないな。
 俺が死んだら、父さんと母さんは泣くのかな。
 二人の涙なんて、見た事ないけど。
 脳裏に、両親の横顔がよぎる。
 襲ってくる強い睡魔に勝てず、当麻は瞼を閉じた。


「だいじょうぶ?」
 浅い眠りの中で聞くようなはかない声が聞こえて、当麻は目を覚ました。だが、体がいうことを聞かず、ようやく、目だけあけることができた。 
 視界には、白い砂浜と、そこに押し寄せるきらきらと輝く波頭。
「ねえ、だいじょうぶ?」
 声はさっきより、当麻の近くで聞こえた。
 春の野に咲く小さな花々のような、甘やかで幼い声だった。
 当麻は、声の主を確かめようと、ようやく動くようになった体を起こす。
 半身だけ起き上がった当麻の視界に映ったのは、先程の碧い光の帳と同じ瞳と、琥珀色の髪を持つ子供だった。どういう訳か、時代劇にでも出てくるような、白い袍を身につけていた。
 一瞬、夢ではないかと思い、当麻はゆっくりと周囲を眺める。
 先程、遊んでいたところと同じ、砂浜だった。
「まにあったんだね。よかった。海がさわいでいたから、きてみたら、きみがおぼれてた。だからお願いして、かえしてもらったんだ。」
 幼い声が言った。
 溺れた事に動揺していた当麻だが、どうやら一命を取り留めたらしい事を理解して、理性を取り戻す。
 俺は生きている。
 ここはさっきと同じ場所だ。
 そして、さっきと違うのは、この白い袍の子供。
 年齢は、俺と同じか、少し下か。声からすると、女の子だろう。髪は短いが、あどけないわりにはやさしげで綺麗な顔をしている。
「きみが、その、助けてくれたのか?」
 白い袍の子供は、ちょっと困った顔になって首をかしげた。
「たすけたのは、海だよ。でも、飲み込もうとしたのも、海。だから、おねがいして、たすけてもらった。」
 焦点のあわない答えに、今度は当麻が心の中で首をひねる番だった。
 確かに、よく見れば子供の白い袍は濡れていないから、海に入ってはいないのだろう。
 じゃあ、溺れた俺を「海にお願いして助けた」というのは、一体どういうことだ。
 白い袍といい、不思議な言動といい、当麻は自分の理解を超える目の前の子供の存在に、先程の海での体験が重なり、ふと寒気を感じた。
「それはどうも、ありがとう。きみは、ここの地元の子かい?」
 子供は、また困った顔をして、首を横にちいさくふった。
「今日は、家のお仕事についてきたんだ。ほら、堤防の向こうに、『とりい』が見えるの、わかる?」
 袍を、折からの潮風にはためかせて、子供は海とは正反対の方向を指差した。つられて、当麻も見遣る。
「あそこは、この海をまもるかみさまの神社。かいしょうはちまん神社。今日はあの神社のえらい人の『けいしょうしき』だから、ぼくも、さんれつ、したの。ぼくのいえも、海をまもる神様をあずかっているから。」
 長い説明をいい終えたことに安堵したのか、子供はその穏やかな顔に笑顔を浮かべた。
 当麻は、その笑顔に、これまでに覚えのない感情を抱き、息をのむ。
 そのため、子供の一人称が「ぼく」だったことに気づかなかった。
「あの、俺、大阪からきたんだ。親父の旅行についてきて。きみも、ここの地元じゃないって言ったけど、どこから来たんだ? きみの家も、海を守る神社なのか?」
 まくしたてるような、口早な問いに、子供は碧い瞳を揺らし、驚いたように当麻を見た。
 その瞳が、じっと当麻の瞳を覗きこむ。
 何もかも見透かしているような、その碧い瞳に、当麻の鼓動が早くなる。それをわかりやすく説明するように、頬に、うっすらと朱が浮かんだ。
「いえは、萩にあるんだ。神社はないけどね。そろそろいかないと、おこられるから、かえるね。」
 子供は、もう一度、やさしい笑みを浮かべ、当麻をじっと見つめると、ふわりと白い袍を浮かせるように踵を返し、駆け出していった。
 その後ろ姿が消えるまで、当麻は目が離せなかった。
 そして、視界から消えた瞬間、両手を砂浜につき、全身の力を抜く。
「あれ、人間、だったよなぁ?」
 その段になって、初めて当麻は、自分の右手に、掴もうとしていた碧のシーグラスが握られていることに気づいた。 


 波打ち際からずいぶん離れたところにぽつんとある、風景ににあわないビーチパラソルに当麻はかけよった。
 テーブルの上には、本が置かれ、源一郎は居眠りをしていた。
「まったく、父親失格だなー。」
 呟いてから、当麻は父の髪の毛を軽くひっぱった。
 むくり、と起きだした源一郎は、寝起きの目で何事かとゆっくりとあたりを見渡し、ようやく、息子の存在に気づく。
「どうした、当麻。」
「起きたかよ、低血圧。」
「ああ、いつの間にか、眠ってしまっていたみたいだな。」
 苦笑して、源一郎は息子の頭を軽くなでた。
「さっき、俺、溺れてたんだけど。」
「そのわりには、元気そうだな。」
 真面目に答える源一郎に、当麻は、先程体験した一部始終を話した。 
 ただ一つ、白い袍の女の子にいだいた淡い思いを除いて。
 聞き終えると、源一郎は何かを納得したかのように頷いて、海を見遣った。
「なあ、当麻。海って、何かわかるか。」
 それは、科学者としての問いなのか、それとも、別の意味なのか。
 計りかねて、当麻は、自分の知識の中から答えを出す。
「全ての命の源、だと読んだけど。母なる海、そうじゃないのか?」
「まあ、一般的にはそう言われているんだがな。でも、それは、多分、人間の畏怖心の裏返しだと思うんだ。」
「どういうことだ?」
「『海』という漢字は、さんずいに『毎(くらい)』を合わせて作られたそうだ。つまり、我々人間が知る事のできない、果てをしらない広々とした水のあるところ、それが『海』なんだ。それは、何かに似ていないか?」
「人の知る事ができない、広いところ? 宇宙か? いや、宇宙は俺たちが知っている宇宙だ。」
「そうじゃない、当麻。心の問題だよ。私たちの心が知る事のできない不可知の世界、つまり、死後の世界だ。海は、きっとそういうところなんだよ。」
 言われて、当麻ははっとする。
 先程、溺れかけた時に感じた事、白い袍の子供に感じた事。
 自分の知識の範疇では捉えられない、得体の知れない恐怖。
 どれだけ、知識を増やしても知る事のできない、不可知の世界。
「だから、海に住む人は、祀ってきたんだろうな、海の神様を。今、当麻の話にでてきた、白い袍の子供が言ったという海正八幡宮は、この橘の海を守る由緒正しい神社だそうだ。宿の人に、海に行くなら見てくるといいと言われたよ。帰りに、寄ってみるか?」
 ふいに、あの碧い瞳と笑顔が、当麻の脳裏をかすめた。
 もしかしたら、逢えるかもしれない。
 逢う事ができたら、せめて、名前くらい聞けるかもしれない。
「うん、帰りに必ず連れてってほしい。」
 破顔した当麻の蒼い髪を、源一郎が優しくなでる。
「ところで当麻。その、右手に大切に持ってる宝物は何だい?」
 当麻は右手をみて、その小さな手の間から碧が陽に当たって光っている事に気づいた。
 手を父親の前で広げて、自慢げに見せる。
「シーグラスだ。こんなに大きいのは、多分、珍しいんじゃないかな。本の記述が正しければ。」
「いや、間違いなくこれは大物だな。父さんもいくつか見せてもらったことがあるが、これは立派なものだ。」
「そうなのか!」
 喜色を満面に浮かべた当麻は、シーグラスをテーブルに置いた。
「俺、もう一個、探してくるから。絶対、もっと大きいやつ!」
 当麻は勢い良く海に向かって駆け出した。
 その後ろ姿を、目を細めて、源一郎は低く呟いた。
「当麻、お前はいつか、俺よりももっと、海に近しい人間になるだろうな。その時は、お前がお前の海を守れるようになるんだぞ。」


2009/10/13 脱稿
2009/10/17 修正
2009/10/19 修正

7歳の少年がこんなに生意気だったらちょっとイヤだ(笑)源一郎パパがなにげに意味深なセリフをはいてますが? マッドサイエンティストという設定ですが、そんなにおかしな人じゃないと思うのです。当麻のパパだから、それなりに美形じゃないかとか(笑)