第1話 天つ神(あまつみ)の神話
本州の西の端の方、日本海に面した静かな萩の街に、桜が舞い散り、やがてハナミズキが満開を迎えようとするころ。
萩の市内からは少し離れたところにある、背後に山を、そして正面には萩の海を臨んだ古い家で、ささいな、それでいて世界の未来を暗示する事件が起こった。
この家は、表向きは萩焼の窯元で、市内に工房や直営ギャラリーを持っている。陶芸作品としての質の高さと、いまなお茶人好みのツボを外さない作風から、注文は後をたたない。
しかし、それはあくまでも「表向き」なのだ。実際は、この萩の海を古くから守り続け、いにしえのしきたりを守ってきた一族の末裔なのである。
「小夜子。伸ちゃんはどこに行ったのかしら? 姿が見えないようだけれど。」
築百年はゆうに経つであろう旧家にふさわしい、のんびりとした落ち着いた声だった。
声の主は、今ではこの旧家の主であり、そして、毛利の血を継ぐ二人の子供の母、毛利貴子である。
小柄な姿は、それだけでどこか年齢をあいまいにさせるのだが、その顔もまた、二人の子供とは思えないほど、若く、はかなげで、美しかった。色白の細面で、その二つの瞳は萩の海を映し込んだような、碧。うなじのあたりでゆるく束ねた髪は、色素の薄い肌に合わせたような琥珀色だった。
「伸? さっきまでテレビ見てたわよ。」
「そうなの? でも居間にもお部屋にもいないの。お夕飯の時はいたわよねえ。」
「何かあったの?」
食器を洗い終えた少女は、ようやく、その顔を母の方に向けた。小夜子、と呼ばれたこの家の長女は、母と同じく美しかったが、ただ母よりも、生命力に満ちていて、「はかなさ」を持ち合わせていないという点で人間じみていた。
エプロンを台所の隅にかけながら、母に話の先を促す。
「さきほどね、同じクラスの古田さんのお母様からお電話いただいて。来月の役員会の件だったのだけれど。その時に、来週月曜日の父兄参観について尋ねられたのよ。そんな話、伸ちゃんから聞いていないでしょう。だから、びっくりしちゃって。」
「あ、そういや、クラスメートの千夏の弟も父兄参観がなんとかって話してたっけ。」
小夜子は、何か考える仕草をして、それから台所のカレンダーに目をやった。そのカレンダーには、親子3人の大切なスケジュールが書き込まれてある。それを確認してから、なるほどね、と小夜子は呟いた。
「古田さんがいうには、一ヶ月も前に学校から案内のプリントが届いたっていうのだけれど。やっぱり、お父さんがいないからかしら。今まで、そんな大切なお知らせをわたしに言わないなんていうことはなかったのに……。」
本来なら、今、この家の当主であるべき人は、長男が3歳の時に、はかない人となった。
以来、通いのお手伝いさんと母と姉に囲まれ、8歳になる長男は、町内で評判の「出来の良いおぼっちゃん」として育った。
時代が時代なら、良い藩主になれるわよ、とは毛利一家の知らないところでささやかれている冗談である。
「ところで、お母さんの来週の月曜日の予定、覚えてる?」
小夜子が困ったように笑って、母を見た。
小夜子にとって、母は母なのだが、育てられるうち、いつのまにか「支えなければならない」存在になっていた。心臓を煩う体の弱さのせいもあったが、どこか、ほんわかと天然なところがあるのが最大の原因であった。
「月曜日? 何かあったかしら。」
「月に一度の、お母さんの定期検診の日。」
「あら、まあ。すっかり忘れていたわ。」
「カレンダーを見たら、伸でも分かるわよ。だから、言い出せなかったんじゃないの。」
責める風でもなく娘に指摘され、貴子はふう、とため息をつく。
「母親失格だわ。きっと優しい伸のことだから、今まで黙っていたことで、辛い思いしてるかもしれないわね。お母さん、謝らなくちゃ。」
ありがとうね、小夜子、と言い残して、台所を去ろうとした母は、ふと立ち止まってそれから再び、娘に向き直った。
「ところで、伸ちゃん、どこにいるか知ってる?」
ざあぁん、ざあぁん。
寄せては返す波の間際で、少年は体育座りをして海の上に広がる夜空を見上げていた。
月のない春の夜空は、星明かりでまぶしいくらいだ。
足下に打ち寄せる波頭は、まるで、宝石を運ぶ船のように星明かりをうけてきらきらとひかっている。
少年は時折、いたずらにその宝石を掴もうと手を伸ばすが、貴石のきらめきは、手の中で砕けてしまう。
ひょう、と春の夜の海風が吹いた。
少年はわずかに肩をすくめる。いくら西国の春だからといって、夜の浜辺に出るのに半袖半ズボンでは心もとない。
しかし、少年は気にした風もなく、星空の輝きを一心に見つめていた。
三日前、少年は姉の部屋で「星の教科書」を見つけた。
正確には「地学」の資料集なのだが少年には、まだ「地学」の意味も分からないし、どうして姉の教科書の中に綺麗な星空の写真が載っているのかすらわからなかった。ただ、生まれて初めて、夜空に輝く星々に名前があり、それらを紡ぐ「星座」というものがあり、星座には「物語」があることを知ったのだ。
地学の資料集の、天体の項目のページを飽くことなく眺める弟に、姉の小夜子は、自分の知っている限りのことを、簡単な言葉で伸に教えた。
8歳の伸は、それに必死に耳を傾け、分かろうとした。しかし、やはり姉の説明は難しく、耳慣れない言葉やカタカナに戸惑い、頷きながら聞いた言葉の半分も理解はできなかった。それでも、いくつか覚えたことがある。
いくつかの星の名前と、星座と、物語。
それらは幼い少年を虜にし、夜の世界へといざなった。
いつもは素直でおとなしい伸が、母にも姉にも告げず、今日、生まれて初めて、一人で夜に外出したのは、その誘惑に勝てなかったためだ。
といっても、家から歩いて3分の、庭といっても良い浜辺なのだが。
見上げた星空のきらめきにに、小さな手を指差し、覚えたての言葉を口にのせる。
「いちばん北にあるのが、ほっきょくせい。その、そばに、こぐまと、おおぐま。そして、ほくとしちせい。三つならんでいるのが、おりおん。」
言えたことに満足したのか、少年は一人で笑みを浮かべる。
その瞳は、天上のどの星よりも綺麗な碧で、星明かりに照らされた顔は、幼いながらにもどこか神秘的でやわらかな美しさを見せ、それを囲むすこしクセのある髪は、母と同じ、琥珀色をしていた。
「ほっきょくせいは、うごかない。ほかの星は、ほっきょくせいのまわりをうごく。……ほっきょくせい。ほっきょくせいだけ、ひとりうごかないんだ。ほかのなかまは、いっぱい あそんでいるのに。さみしくないのかな。」
伸は手を下ろして、北極星を、そしてそれを取り囲む星々の海を見つめた。
その瞳に、不思議な色が宿る。
戸惑うようでいて、それで安堵するような。
なんでだろう。
幼い少年は自分に問いかける。
今、ぼくは、はじめてひとりで星空をながめているのに、ちっともはじめてじゃない感じがする。
こうやって、ひろいひろい星空をながめていると、なんだか、きらきら星の海を泳いでいるみたいだ。
そう、おおきなものに、まもられて、泳いでいるかんじがするのは、この目の前の青い海を泳いでいるときと、おなじかんじなんだ。
でも、なんでだろう。空は、海じゃないのに。
「伸ちゃん。」
きらめく星空の海に少年が思いをはせていると、聞き慣れた声が伸を地上に引き戻した。
「おかあさん!」
伸は破顔して、立ち上がり、重力を感じさせないような軽い仕草で母親の足下に抱きついた。
貴子は、やさしく息子の髪をなで、それからかがみこみ、同じ視線の高さから静かに問いかける。
「何を見ていたの?」
「ほしを見てたの。」
少年は夜空を見上げた。一緒に、母親も視界を濃紺の空に向ける。
「なまえをおぼえたんだ。ほっきょくせい。ほくとしちせい。おりおん。こぐまと、おおぐま。ほかにもたくさんあるんだけど、まだ、わからない。」
「そうね、こんなにたくさんあるんですもの。まだ伸ちゃんには無理ね。」
「そうなんだ。こんなにたくさん、ほしはあって、うごいているんだよ。なのに、ほっきょくせいだけ動かないんだ。ひとりぽっちであそべない。かわいそうなんだ。」
息子の言葉に驚いたように、貴子はじっと息子を見つめ、もう一度その髪をなでた。
「そうね。確かに目に見えるところで北極星は動かないわね。でもね、伸ちゃん。本当は、北極星はわたしたちの目に見えないところを動いているのよ。」
「見えないところをうごいているの? よく分からないや。」
「今はまだ、わからなくてもいいのよ。いつか、わかる日がくるから。」
それから、毛利家当主は優しい表情をわずかに引き締めた。
「伸ちゃん。北極星にはね、重要な役目があって、だから、もうひとつの名前がついているの。北辰(ほくしん)、というのよ。」
夜空から地上の母へ視線を移した伸は、不思議そうに繰り返す。
「ほくしん?」
「そう、『ほく』は北の意味。『しん』は龍のことなの。」
「りゅう! 水のかみさまだね。」
幼い頃から、萩の海を守る一族の次期当主として育てられた伸にとって、水と海に関わることは幼い頃から泳ぐことと同じく、その身に教え込まれたことだった。
すべての命が水から生まれたこと、その水が、世界をまもっていること、自然のなかを形をかえて巡っていること。
学校では習わない事でも、水と海にかかわることは、伸にとっては、ちゃんとご飯を食べないと病気になる、というレベルで常識だった。
「そう。『北辰』は、夜空の中でもっとも偉い神様なのよ。だから、わたしたちの目に見えないところで、乗り物にのって動いているの。」
「夜空にのりものがあるの?」
「そう。それが北斗七星。北辰の神様は、北斗七星に乗って、1年で世界を一巡りするの。北斗七星は神様の使いね。だから、星ひとつひとつに名前がちゃんとあるのよ。」
「あの、ななつのほし、それぞれに名前があるの?」
伸が目を丸くして、母の瞳を覗き込む。
そんなことは、星の教科書にも書いてなかったし、姉の話にもなかったからだ。
「そう、ちゃんとお名前があるの。貧狼(とんろう)星、巨門(こもん)星、禄存(ろくぞん)星、文曲(もんごく)星、廉貞(れんじょう)星、武曲(むごく)星、破軍(はぐん)星、そうやって名前をつけて、昔から、多くの人が祈りを捧げて来たのよ。」
「……むつかしいや。おぼえられない。」
伸はうつむいて、小さく呟いた。大好きな母が教えてくれる事は、きっと、家に伝わる大切なことだから覚えなくては、という意識が、毛利家長男としての伸には幼いながらにあるのだ。それが分からないのは、次期当主としての才がないことになってしまう。それで、母を悲しませるのが伸にとって一番辛いことだった。
「伸ちゃん、いいの。今はまだ。北極星が北辰という神様で、北斗七星の七つの星は、北辰の使いでこの七つ星も神様なのよ。それがわかればいいわ。」
「うん、ほっきょくせいが『ほくしん』というかみさまで、ほくとしちせいが、『ほくしん』のお使いのかみさま、それはわかったよ。」
「偉いわね、伸ちゃん。」
あやすように、息子の髪をなでた母は、ゆっくりと立ち上がった。
「伸ちゃん、今日、お母さんにも小夜子姉さんにも言わずにここに来たでしょう。」
「ごめんなさい。」
消え入りそうな声で、少年は謝った。
星空の誘惑に勝てなかった事、誰にも告げずに出て来た事が悪い事を、伸はちゃんと自覚していた。
「おかあさんも、おねえちゃんも、心配したのよ。だから、これから星を見る時は、ちゃんと誰かに伝えていくこと。」
叱られて、もう二度と、一人で夜の浜辺に出る事を禁じられると思った伸は、思いがけない答えに驚いた。
「また、見に来ていいの?」
喜びを押さえきれない、といった声音で問い返す。
「あまり長くはだめよ。ちゃんと、お風呂の時間までには帰ってくること。それならいいわよ。」
伸は、あらためて夜空を眺めた。
これから、たくさんのほしをみられるんだ。
おねえちゃんは、春、夏、秋、冬、ほしはちがうっていってた。
いろんなせいざがみられるんだ。
嬉しくなって、伸の顔がほころんだ。しかし、その表情は星明かりの下でも、母の目には届かなかった。
「さあ、伸ちゃん。寒くなって来たわ。おうちへかえりましょう。」
息子の手をひいて、毛利家当主は子供の歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。
その後ろで、一緒に歩きながら伸が静かにたずねた。
「ねえ、おかあさん? 水のかみさまのりゅうの、もうひとつのなまえは、『しん』なんだね。」
「そうね。」
「ぼくのなまえも『しん』だよ。」
「まあ、本当。お父さんが『のびやかに育ちますように』ってつけてくれた名前ね。その名前が夜空の神様の名前に通じるなんて、よくできた偶然だわ。この海を守る一族の長としては、とても素敵な名前ということね。」
この時の会話が、17年後、水滸の鎧を預かる毛利伸の運命を左右する事柄をはらんでいる事に、二人はまだ気づく由もなかった。
2009.0921 脱稿
2009.1007 改稿
1話と2話は指輪における「序章 ホビットについて」みたいなものです(汗)ムダに長いですが、ストーリー全体の初期設定みたいなものなんで、許してください。3話以降からちゃんと20代の彼らを登場させます。

