第14話 神という名の呪(しゅ) 1
ちらちらと黄金が舞う中、鳥居をくぐる手前の階段を降りようとした瞬間だった。
『我の眠りを妨げたのは汝か。』
低く、大地の奥底から響いてくるような声だった。
伸は足を止め、慌てて周囲に目を遣り、声の主を探す。しかし、それと思しき者は見当たらない。
客人の異変に気付いた渡井は、振り返り尋ねる。
「毛利さん、どうかされましたか。」
「今、声が聞こえたんです。渡井さんには聞こえませんでしたか?」
渡井は、いえ、と静かな面持ちでそれを否定してぐるりと荘厳な本殿を見遣った。その表情が一瞬にして強ばったものになる。
『汝か。』
「えっ?」
今度は、もっと大きくて鳴り響くような声だった。その音の圧倒的な力に伸は体を凍らせた。そしてこの段になって初めて、声が外界のものではなく、自分の頭に直接聞こえてくるものだと気付く。
「まだお聞こえになりますか。」
「はい。」
「私には聞こえませんが、どうも本殿の方が騒がしいようです。それも、大地の下の方が。」
「それは……。」
前回に案内された時のことを伸は思い出した。本殿の地下に秘された淡く金に輝く部屋。全ての水の神祇の総本山であるという黄金の龍。
「何かあったのかもしれません。このような気配を感じるのは私も初めてです。毛利さんに声が聞こえたというなら関係のあることなのでしょう。」
言い止して、渡井は彼にしては珍しく足早に本殿に続く参道を歩き始める。
伸も、突然の出来事に訳が分からないまま渡井の後に続いた。
拝殿も本殿も、何の儀式も執り行わず通り抜け、例の階段を降りると、そこには以前来た時と同じ淡く黄金色に輝く岩造りの部屋があった。中央には壮麗な金の龍。
しかし、伸は以前とは何かが違うと感じた。それは言葉では表せない微妙などこか神憑かった感覚なのだ。
『汝か。』
声がまた聞こえて来た。今度は神経を集中させなくてもはっきりと分かった。
……声の主は、この龍。
伸は瞬きを忘れ、黄金の龍に魅入った。
前よりも、水の気が強い。頭に響いてくる声は、どこか水の強さを感じさせる心地良い音。何故、僕を呼ぶ?
くぅーん、と足下で声がした。伸はその声で正気に戻る。玄狐が不安そうに伸を見上げていた。
「毛利さん、声の主は分かりましたか。」
渡井のその問いは、疑問ではなくほぼ断定だった。
伸は心を決めて、提案する。
「渡井さん、僕はこの金龍さまから呼ばれているようです。出来るならば話をしたいと思います。大丈夫でしょうか?」
「それは構いませんが……。」
渡井の表情が不安に曇る。
伸にはその理由がすぐに分かった。前回、自分はこの龍神の気の強さにあてられて不覚にも倒れてしまっている。心配されて当然だろう。
「ご心配には及びません。一応、僕も海を守る一族としての修行は積んでいます。心構えさえあれば、前回のような醜態をお見せすることもないと思います。」
「わかりました。」
客人の目に強い意志を見て取り、渡井は軽く一礼をして一歩下がった。
また、伸も金龍に一礼をすると、歩みをすすめて目映く輝く龍と対峙した。
次の瞬間、金龍からさらに強烈な黄金の気が立ち上った。それはひときわ鮮やかに、上方に向けて金の柱を作る。
同時に伸の体からも淡い水色の気が放たれ、黄金の気に負けない清冽さで虚空をその光で満たす。
黄金と水色で出来た帳の向こうに金龍と伸がいることを渡井は分かっていたが、その姿を目で見る事は叶わなかった。
帳の中で、伸は不思議な感覚に陥っていた。
上もなく、下もなく、明るいのか暗いのかも分からない不思議な空間。
そこに、自分の体が漂っている。
意識は明瞭だが、身体は思うように動かず、ただふわりとした浮遊感を感じるだけだ。
『汝は誰そ。』
あの声がした。今度は、頭に届くのではなく全方位から響いて来た。
もしかすると、ここは神の中そのものなのか、そんな事が伸の脳裏を過る。
「僕は毛利伸といいます。縁あって、先日こちらに伺いました。」
静寂が訪れた。
それは一瞬にも感じられたし、永劫のようにも思えた。
『汝の気が我の永きに渡る眠りを破った。汝は誰そ。』
伸は言葉に詰まった。声の意図するところが読めないのだ。名前を聞かれた訳ではないらしい。
しばらく考え、相手が知ろうと欲しているのは名前ではなく自分自身の本性、つまり中身だということに気付く。
「僕は古くから、この大倭秋津嶋の西の海を守る一族の末裔です。」
しばらく間をおいてから、ごうと空間が揺れた。伸の体も震える。
続いて声がした。
『海の神の祝か。』
「はい。」
祝とは、古代日本において神に仕え、その言葉を俗界に暮らす人々に伝える役割の男性である。
伸は、この一言で相手が自分が知り得る歴史以前の神であることを知った。
空間が振動し、伸の体は海に放り出された小舟のように不安定に揺れる。
深い沈黙が訪れ、再び声が続いた。
『人の子が、我を追いやり、この場所に縛り付けた。そしてまた、人の子が我を目覚めさせたのか。』
思いも寄らない言葉に伸は息を詰める。
渡井の話では、金龍はこの国の水に関わる神祇の最高位として崇められているはずだ。話が矛盾する。
それとも、この神は金龍ではないのか。
不意に、伸の浮かぶ空間の視界が開けた。
見渡す限りの緑。人の手の入らぬ山の麓だろうか。うっそうと灌木が生い茂っている。
風が伸の頬をさらい、木々はさらさらと歌った。鳥たちの軽やかにさえずる声が聞こえてくる。
突然、この穏やかな風景に似つかわしくない猛々しい気配がした。
見ると、男達が木の枝を持って下草を叩きながらやってきた。先頭の男は自分の背丈より長い太い木の枝を持ち、威厳に満ちた表情で山の麓一帯を眺めている。その男が立ち止まると、追従する男達も立ち止まり、一様に何かを恐れるような表情を浮かべた。
長(おさ)と思しき男が辺りを伺うようにぐるりと灌木地帯を見た後、手にしていた長い木の枝をぐさりと大地に刺した。
そして、朗々とした声で見えない何かに告げるように言った。
「此より上は神の地と為すことを聴(ゆる)さむ。此より下は人の田と作(な)すべし。」
言葉に従うかのように、男達が下草や灌木を乱暴に叩いて何かを追い出そうとし始めた。
その不思議な行動に伸が疑問を感じていると、灌木の中に動くものを見つけた。
それは、小さな蛇たちだった。
次の瞬間、風景がスライドショーのように切り替わった。
伸の目に飛び込んで来たのは、山の麓に開拓された見渡す限りの稲田。
そして、稲田と鬱蒼と茂る森の境目に祀られた石。
老いた男が、その前で祝詞を唱えている。
伸は何故か、一瞬で理解した。その男が、木の枝を大地に刺した本人だということを。
ならば、この神は……。
続き