黒い霊獣 (2)

 第13話 黒い霊獣(2)


 朝の清澄な大気がまだわずかに残る午前十一時過ぎ、伸は田無神社に着いた。
 鳥居の下で渡井に出迎えられ、一度、本殿の前で手を合わせてから、前回訪問した時に通された参集殿の奥の部屋へ案内される。
「今日はまた、不思議なモノと一緒に参られましたね。」
 神棚の前に座る渡井が、伸にお茶と菓子を勧めながらやんわりとした笑顔で言った。
「やはり、渡井さんには見えていらっしゃるんですか。」
 伸が左肩に座っている小さな黒い獣に手を近づけると、獣はまるで母親に甘えるような仕草でその掌に頭を撫で付けた。
「前回は霊獣の白虎といらっしゃった。そして今回は玄狐(げんこ)を連れていらっしゃいます。このような仕事に就いていると不思議な事に巡り会うことは多々ありますが、こうも立て続けに霊獣にお会いできるのは初めてです。」
「この子は、やはり白炎……いえ、白虎のような霊獣なのでしょうか? 『玄狐』というのは初めて聞く言葉なのですが。」
 伸はわずかに首を傾げる。
 専門的ではないにしろ、日本の神仏や霊獣などに関しては一族の当主として大概の事は教わって来た。
 その知識の範疇にない「玄狐」と呼ばれた小さな獣は、くるりと一周、伸の首まわりを回ってから膝の上に軽やかに降り立ち丸くなる。
「黒狐、という名前の方が一般的かもしれません。」
「もしかして、宮城の尊久老稲荷神社の黒狐ですか?」
「はい、よくご存知ですね。」
 尊久老稲荷神社は宮城県亘理郡にある神社で、平安時代、陸奥の太守・参議小野篁が巡行した際に、童子に化身して道案内をした黒狐を祀ったのが起原とされている。「尊久老稲荷」とは「総黒の狐」から「尊久老の狐」と時代を変遷して呼び替えられたものだ。
「狐は元来、陰陽道と関わり深い動物なのです。茶色の毛は土気を意味します。五行の理、つまり土剋水の理により狐は洪水を治める獣として崇められました。原始的な稲荷信仰はここに端を発します。安倍晴明の母親が白狐というのも、あながち嘘ではなかったのかもしれません。この狐が歳を重ねると、霊格や神通力をあげて、銀狐、金狐、白狐、そして黒狐と変化していきます。この黒狐は別名『玄狐』と言い、格の高い霊獣として貴重なものとされてきました。」
 伸は静かに頷いて、それから素朴な疑問を口にした。
「そんな霊験あらたかな獣が、なぜ僕のところに来たのでしょう?」
「さあ、そこまでは私にも。霊獣の姿は拝見できますが、その内側までをも視る事は叶わないので。」
「……そうですか。」
 小さく溜め息をついて、伸は膝元の小さな霊獣を軽く撫でた。茶褐色の瞳が伸の姿を映して、大きく瞬きをする。
 吉祥寺の雑踏の中で、この小さな獣と出会った瞬間、伸は、今回の事件に何か関係があるのではないかと思っていた。そうでなければ、こんな不思議な生き物が自分の前に現れる理由が分からない。事件を良き方向へ導く存在なのではないか、そんなことすら考えてもいた。
「どうして玄狐が現れたか、それは分かりません。ただ、何故、毛利さんの前に現れたかは分かる気がします。」
「え?」
「先程、土剋水の話をしました。狐は水の気を制します。想像するに毛利さんの強過ぎる水の気を察して現れたのではないかと思うのです。」
「僕の、水の気?」
 伸は驚きを隠せず、わずかに声を高くして繰り返した。
 海を守る一族の当主。水滸の鎧を受け継ぐ者。
 確かに水との関わりは深い。けれども「強過ぎる」とまで言われたのは初めてだった。
「今だからお話できます。先日、この田無神社にいらした時に、私は毛利さんを迎え入れて良いものか迷いました。この田無の神様も水の神様。強力な水の気が同じ聖域に二つも相容れないのではないかと。ですから、今のままでは五人が揃っても、毛利さんの水の気が強過ぎ、他を圧する為に、バランスが損なわれて五行の力をうまく発揮することはできない。そういう意味で、毛利さんの強過ぎる水の気を押さえる為に現れたのだとしたら、もしかすると今回の事件に何か関わりがあるのかもしれません。」
「ちょっと待ってください。確かに僕の家は海を守る一族で、僕は今、その当主です。でも、そういう一族の方は全国にいらっしゃるし、僕だけがそんなに強いという話は聞いた事がありません。」
 伸はわずかに語気を荒げて渡井の言葉を即座に否定した。
 その様子に、渡井はすっと目を細め表情を消し、伸を観察するように見つめる。
「風貌は随分と違っていらっしゃるが、お父上のおっしゃる通りのようですね。」
「え……。」
「今日、一人でいらしたのは、お父上の話を聞くためでは?」
 返す言葉を失い、伸は瞠目したまま渡井から目が離せなかった。そこに、いつもの年齢を曖昧にさせる独特の笑みはない。
 確かに、今日、伸は父の話を聞きたくて一人でやってきた。前回の訪問の時、渡井が父、清一と面識があると話していたからだった。しかし、その件について、伸は一言も渡井には告げていなかった。
 目を閉じ、息を整える。
 わずかな沈黙の後、心の平静を取り戻した伸は、渡井を真っ直ぐに見て言った。
「はい。前回伺った時に父の事を知っているとおっしゃったので、いつどこで会ったのか、お話しして頂ければと……。」
「忘れもしません。あれは二十二年前です。」
 いつの間にか、渡井の表情には笑みが戻っていた。
「まだ私が、神職に就いて間もない頃です。その時に奉仕させていただいていた神社も水に所縁のある神社でした。年の瀬で忙しい中、私は宮司に呼び出され冬至に行われる、淡水(あわみ)の例祭に参列するように言われたのです。淡水の例祭はご存知ですか?」
「ええ、話だけは伺った事があります。」
 播磨灘と紀伊水道に挟まれた淡路島の中央部にある、淡路富士とも呼ばれる先山の中腹に、「淡水石」と呼ばれる古い石がある。その一帯は禁足地となっており、普段は地元民も立ち入る事ができない。しかし、三十年に一度、例祭が行われる時のみ人が入る事を許され、水や海に関わりのある者達が集まって祭事が行われている。その起原は、有史よりも古いとも謂われており、また、神社や寺と違いどこにも管理されず、関係者のみの口伝で伝わったため、正式な文献などにその存在が記される事はなかった。日本の信仰が、まだ、仏教の影響を受けた社殿などを持たない原始宗教であった頃、山や森といった自然そのものを「神社=神のおわすおところ」と崇めていた時代があったが、淡水の例祭はまさにその時代の様式を現代に伝えるものであった。
 故に、この淡水石には鳥居もなければしめ縄もなく、単に石だけである。そして、淡水の例祭で祀るのは、淡路島そのものであり、淡水石は淡路島と人とを繋ぐ霊的な手段として存在しているに過ぎない。
 淡路島は、古事記において「淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)」と記され、いざなぎの命といざなみの命が行った国産みの際に、一番最初にできた尊い島であるとされる。淡路島の「淡」とはまさに「尊い」の意味なのだ。次に、いざなぎの命といざなみの命は七つの島を産み出した。淡路島を含め、八つの島が最初に産み出されたことから、日本のことを大八島国という。
 混沌とした世界から「島」という大地が産み出された事は、同時に、海が産み出された事でもある。
 よって、淡路島そのものが、古から海に携わる者にとって聖地であった。
 その畏敬から、淡路島を祀る信仰が海事関係者の間に生まれ、淡水の例祭が現代まで連綿と続いて来たのだ。
「その折に、毛利さんのお父上とお会いしたのです。恥ずかしながら、まだこの業界に入ったばかりで海に携わる方々の顔や名前を存じ上げておりませんでした。右も左も知らない方々の中で、ひときわ清冽で強い水の気を放つ方がいらっしゃったので、私はつい、声をかけてしまいました。その方がお父上です。まだ若輩者の私にも丁寧に接して頂き、互いに連絡先の交換などもいたしました。本当に穏やかで、それでいて強い方だと思いました。」
 そこで一旦、渡井は言葉を置いて静かな遠い目をした。 
「話の途中、失礼にも私は、お父上に向かって『強い気をお持ちですね』と口にしてしまいました。ところが嫌な顔ひとつせず、自分は特別ではない、息子の方が強い気を持っていると、静かに笑ってそうおっしゃったのです。」
「父が?」
 伸はわずかに息を飲む。
 初めて聞く話に、記憶の古い地層から幼い頃の父の姿を思い出そうと努力する。しかし、追いかければ追いかけるほど記憶は曖昧で、鮮明な姿をとることはなかった。
「その翌年、明けてからすぐのことでした。西日本側の日本海沿岸が突然の時化(しけ)に襲われて、沖合に出ていた漁船が数隻、行方不明になったそうです。お父上はその身を海に捧げて時化を治め、漁船は無事、帰って来たのだと淡水の例祭で知り合った方から伝え聞きました。」
「そんな……。僕は父は病気で死んだのだと聞いて育ちました。親族の者もみな口を揃えて病気だったのだと。」
 言いながら、伸は自分が心のどこかで、うっすらその言葉に疑問を持っていたことを自覚する。
 親戚も近所付き合いのある人も、そして母も姉も、父の話をする時は笑顔を浮かべていても表情が曇るのだ。
 その理由が、伸には長い間分からないでいた。
 しかし、渡井の話が本当なのだとすれば納得できる。
 父が突然いなくなった本当の理由が、海を守る家の定に従ってのことだと話すには、当時の伸はまだ幼すぎた。
「真実が何処にあるのか私にはわかりません。ただ、お父上くらいのお力があれば時化を鎮めることも可能かと当時の私は思い、その死を悼みました。」
 二人の間に沈黙が降りた。
 そして、二人とも、荒ぶる海の神を鎮めるためにその身を捧げた男のことを考えていた。
 一人は同じ、水の神に仕える者として、一人は息子として。
 障子に影が映り、女性の声がした。
「失礼します。」
「どうぞ。」
 渡井の許可を得て、女性が障子を開けた。
 長い髪を束ねた巫女の姿がそこにあった。
「宮司が、そろそろ明日の地鎮祭の打ち合わせをしたいと言っております。」
「分かりました。頃合いを見て伺うとお伝えください。」
 巫女は一つ礼をして、二人の視界からすっと消えた。
 その短い遣り取りで、伸ははっと気付く。
 渡井は言わないが、ここは神社であると同時に、彼の職場でもあるのだ。今の自分は、他人の職場に悩み事相談を持ちかけて居座っている状態である。
「すみません、渡井さん。お仕事中ですよね。申し訳ありません。」
 伸は立ち上がり、帰る準備を始める。
「気になさらないでください。ここは神の社。時間は俗界と離れてゆっくりと流れています。それに、本当に緊急の時は、あれが鳴りますから。」
 おどけた顔を見せて、渡井は部屋の隅の黒電話を指した。
 つられて伸も笑いかけたが、慌てて表情を引き締める。
「いえ、やはりお仕事の邪魔になりますから。それに、今日、ここに来た目的は十分、叶いました。」
「そうですか。それは良かった。」
 渡井は穏やかな笑みを浮かべて立ち上がり、この部屋に来た時と同じように、伸を参集殿の外まで案内した。

あくまでもフィクションです(笑)でも微妙に史実も混じってます。