黒い霊獣 (1)

 第12話 黒い霊獣 (1)


 買い物を終えてスーパーを出た伸は、流れる人波の中に立ち止まり、空を見上げた。
 視界の半分は、くすんだような青い空。半分は、周囲の高い建物が遮っている。
 何度見上げても、見慣れないな、と伸は思う。そして、この街が異郷だと実感するのだ。
 萩では、見上げる視界はどこにいても全て青一色だった。そして、大気を満たすのは、排気ガスではなく、潮の香り。聞こえてくるのは、クラクションの音ではなく、海鳥の高い鳴き声……。
 そこまで思い巡らせて、伸は慌てて視線を地上に下ろして、軽く頭を振った。
「いい歳して、ホームシックにかかってる場合じゃないな」
 東京に来てから十日が過ぎていた。
 初めは、人と建物の多さに右往左往していた吉祥寺という街の地理にも慣れ、ナスティの助言で生活に必要な物を揃える店も覚えて、ようやく、足のついた生活の感触を掴み始めたここ数日。それ故に、ナスティから五人の生活を預かる伸は、頭を抱えることになった。早い話が、都会と地方の物価の違いである。
 一足早くナスティと合流した伸は、「当面の生活費」ということで、一枚のキャシュカードを受け取っていた。そこに預け入れられている額の大きさに一度は断ろうとしたが、ナスティから「必ず必要になるから」と言われ、伸がカードを手元に置く事になった。そして実際、早々にもお世話になっているのだ。
光熱費の類はナスティが管理しているので、それぞれが無駄使いしないように節度を守る、という事で五人は同意したが、最大の問題は食費だった。二十代半ばの男が五人である。それぞれがきちんと腹を満たす量を用意するというのは、一人暮らしをしばらく続けていた伸にとって最大の難関だった。相変わらず秀と当麻は大食漢で、それぞれ三人前位は必要である。征士と遼は、そこまでいかないものの、体格の良さも手伝って伸の考える一人分の三割増は食べている。単純計算しても、一食につき、十人前の量を用意しなくてはならないのである。
 さらに伸を呆然とさせたのは、東京の生鮮食品の値段だった。肉類は安いくらいだったが、萩に居た頃はタダ同然で貰っていたような野菜類や魚介類が、驚くほど高いのだ。最初は、ナスティに教えてもらい、伸も名前だけは知っていた西友で買い物をしたが、その合計金額の桁に驚き、慌てて当麻に「安くてちゃんとしたものを売っているスーパー」を探してもらった。すると意外にも、ゲストハウスから歩いて十分のところ、ユザワヤの正面に、首都圏に多く展開する薄利多売をウリにしているスーパーがあることが分かった。その店で、二日おきに買い物をするようになった伸は、購入量の多さと、少し変わった風貌と、配送のために書く伝票に名前の珍しさも手伝ってか、すっかり店員に顔を覚えられてしまい、人懐っこい精肉部のパートのおばさんからは、顔を合わせる度に「お仕事大変ね」と返事に困る挨拶をされるようになってしまった。
 通りすがりのカップルに軽く肩がぶつかり、伸は我に返る。
 ゲストハウスには、欠食児童が二人、伸の帰りを待っていた。
 早く帰らないと携帯に催促のメールが届くのは間違いない。
 再び歩み始めた伸の視界を、黒いものが過った。正確には、影のようなものである。
 影の消えた方向に伸が目を遣ると、その頭の後で黒いものが走った。大きくはない。掌くらいだ。時折、体に触れる足らしき感触からは、小動物を想像させた。
 しかし、と伸は思う。
 こんな都会の真っ昼間に、リスのような小動物が人に寄ってくるのだろうか。
 否、そんな動物がいるのか。
 再び足を止め、目を閉じる。
 相変わらず、小動物らしきものは、伸の肩から首元、頭上を行ったり来たりしていて、離れて行く様子はない。
 伸は雑念を払い大きく深呼吸すると、影の気配にのみ意識を集中させて自らが無防備な事を相手に伝える。
 そして、そっと手を差し伸べる。
 目を開けると、掌の上には、長い耳とふさふさの長い尻尾を持つ漆黒の小さな獣がいた。



 「というわけなんだ。」
 事の一部始終を話し終えた伸は、右肩にちょこんと座る黒い小動物を見た。
 昼下がりのリビングに集まった五人の視線の先で、黒い小さな獣はくるりと丸くなり、茶褐色の鋭い目の光だけを自らを取り囲む人間に返した。 
「おかしなことに、この子を肩に乗せていても、誰も気付かなかったんだよ。それとも、都会じゃ、こんなことくらいで他人に干渉しないものなのかな?」
「いや、それはありえんだろ。普通、こんなのが街中にいたら、振り向くぐらいはするだろうさ。」
 言いながら、当麻はそっと黒い小動物の方へ手を差し伸べる。即座に、伸の肩の上から「うーっ」と小さな威嚇の声がした。伸に目で咎められ、当麻は仕方なく手を戻す。
「しかし、大きなリスだな。私は初めて見る。」
「リスじゃないよ、征士。これはどっちかというと狐に近いんじゃないかと思うんだ。」
 真剣な征士の感想に笑ってしまったのは遼だった。父親譲りで動物に詳しい遼には、一目でその種別を判別したようだ。
「前足と後ろ足のバランスから考えて、狐が一番近い種類だと思う。でも、図鑑でも資料でも、こんな色と大きさの狐は見た事ないな。」
「まだ子供じゃねーの?」
 当麻に習って、黒い小動物に手を差し伸べた秀は、やはり唸られて手を戻した。
「狐の子供が吉祥寺の街中をうろうろして、あまつさえ、人間にくっついてくるか? どんなお伽噺だよ。」
「るっせーな。じゃあ、智将天空殿は、これについてどう説明するんだ!」
 からかわれてムっとした秀が当麻に食ってかかる。
 それに真面目に答えるように、当麻はこれ以上ないくらい真摯な面持ちで答えた。
「これは、キツネリスだ。」
「は?」
 ぽかんとする四人を前に、手を組んだ当麻は誰も止める隙を与えず、語り始めた。
「今日の伸の服装を見ろ。青いチュニックだろう。つまりあの予言通りの格好だ。『その者青き衣をまといて金色の野におりたつべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地にみちびかん』。」
「もしかして当麻、『風の谷のナウシカ』のことを言ってるのかい。」
 それは、伸たちが生まれた年に映画版が公開された日本アニメの金字塔である。オリジナルストーリーである漫画版は世界八カ国で翻訳、発売され、映画版は国内外で多数の賞を得ている。
「もちろんそうだ。この耳の形といい、尻尾の形といい、大きさといい、キツネリス以外説明がつかない。色が違うのがこの際仕方ないだろう。」
「ほう、貴様はアニメの中の動物が、降って湧いたとでもいうのか。」
 征士の冷たい視線を真正面に受けても、当麻は怯む事なく持論を展開する。
「馬鹿言うな。根拠はあるぞ。井の頭公園の中にはジブリ美術館があるだろう。あの中にはたくさんのジブリのぬいぐるみが置かれているんだが、時折、その一部が夜になって公園内を徘徊しているという都市伝説があるんだ。その一匹かもしれない。」
 真面目なんだか不真面目なんだか分からない内容に、三人が返答に困っていると、伸が呆れた声色で答えた。
「夜中にネコバスが走る公園とは、またロマンチックだねぇ。我らが智将は、いつの間にそんなファンタジーを信じるようになったのかい?」
「しかしだな。今、お前の肩の上のやつは、明らかにおかしいぞ? ただの動物じゃない。」
「そう、確かにただの動物じゃないと思うんだ。こうして、肩にいると、何か水の気配を感じるしね。」
 安穏としていた昼下がりのリビングが、一気に緊張に漲る。
「何か、霊的な動物と言う訳か。」 
 伸の肩の上で丸くなっている小さな獣を見つめながら、征士が呟く。
「白炎みたいなもんか? それにしちゃ、ちっちゃいな。」
 真顔で答える秀に苦笑しつつ、伸は続けた。
「はっきりとは分からないけれど、僕に付いて来たって事は、何か意味があることなんだろう。明日、専門家に聞いてみるよ。」
「専門家?」
「田無神社の渡井さんだよ。あの方なら分かるだろう。」
 伸の返答に、当麻は眉根を寄せて明らかに怪訝な顔をした。遼と秀は、互いに顔を見合わせて、何かを言いたげな表情を浮かべるが言葉が続かない。
「あの神主は、どうも信用ならないな。行くなら俺も付いて行くぞ。」
「いや、いい。ちょっと個人的に聞きたい事もあるから一人で行くよ。だから秀、明日は昼ご飯よろしく。」
「伸!」
 視線を逸らされて、自らの意思をやんわりと拒否された当麻は、知らず、声をあげていた。正面の征士の瞳が静かに当麻を射る。
「当麻、伸はお前の保護者ではないぞ。逆も然りだ。一人で行きたいというなら尊重するのが筋だろう。」
「征士、言い過ぎだ。」
 隣の遼が困った顔で征士を見る。
 諦めたように、当麻は征士からも伸からも目を逸らし、ちょっと外に出てくる、と残してリビングを出た。

久々の本編です〜。ブランク三ヶ月とか!! 長くなりそうなので、切りました。ナウシカの公開年って1984年なんですよね。陰陽伝設定でいくと、彼らがうまれた年だと初めて気付きました。すごいファンなんですけど、まだ一度も原作を読んでません。いつか読めるや、と思って此処まで来てしまった。。そうそう、ジブリ美術館は三鷹市なのですね。意外にも知られていないことですが、井の頭公園の半分は武蔵野市、残りは三鷹市の所有であり、よって両市はとても仲が悪いのです(笑)ちなみに、伸が買い物をしているのは「ららマート」。今はなくなってしまいましたが。(この調子でずっと2009年の話を書き続けるのだろうか(笑)ユザワヤもなくなりましたしねぇ。。