第11話 涙の惑星 (4)
伸の哀しみの声が絶え、当麻に体を預けるようにしながら寝室に戻ったのは、時計が翌日を示した頃だった。
全身から力を無くした伸は、当麻に導かれるようにベッドに横たわると、そのまま、また人形のように動かなくなってしまった。
「伸?」
心配になって顔を覗き込むと、その瞳はやはり何も映しておらず、わずかに開かれた触れ心地の良さそうな唇からは、言葉はなかった。
魂を抜かれているようだと、当麻は思った。
今、おそらく、伸の心は、亡くなったという老人のもとにあるのだ。
そんなものが実際にあるのかどうかはわからないが、此岸と彼岸を分つ、その川のたもとに立ち、老人と別れの挨拶でもしているのかもしれない。
けれども、ここは、現実世界である。
明日があり、自分たちは朝起きて、生きてゆかなてはならない。
そのためには、今はきちんと眠りという休息をとる必要があるのだ。
ベッドの上に横たわった伸を見て、さて、どうするべきかと悩む当麻である。
人間の身体の理論からいうと、伸はおそらく、疲れと睡魔が自然と眠りに導いてくれるだろう。
ふと、花見をしていた時の伸の言葉を思い出した。
『天気予報で、今日は20度を超えるって言ってたけど、本当に暑いね。』
そういいながら、時折、小さなタオルで額や首筋に浮かぶ汗を拭っていたのだ。
確かに、今日の昼は気温が上がり、アルコールもあいまって、当麻も自分の体が汗ばむのを感じていた。
「せめて、寝間着に着替えさせた方が良いな。」
それは、半分本音であり、半分は逃げだった。
女性が着るような、さくらいろの服を身につけた伸の隣で、当麻は眠る自信がなかったのだ。
伸の寝間着を探そうと、ボストンバッグやら部屋の箪笥の引き出しを片っ端から探してみたが、見つからない。
きっと、今は尋ねても、返事は返ってこないだろうと諦め、当麻は自分の寝間着の予備を出して来て、伸に着せることにした。
あらためて、ベッドに横たわる伸に向き直り、はた、と動きを止めてしまう当麻である。
今から自分がしようとしていることは、伸の身につけているこの女性の服のようなものを脱がし、自分の寝間着を着せるということである。
それは、まるで……。
ぶんぶんと軽く、頭をふってその答えを否定する。
見た目はともかく、伸は立派な男である。
かつて、一緒に戦った、立派な戦士としての側面すらあるのだ。そこらへんの、中途半端な優男ではないことは、よく分かっている。
そして、生物学的にも、男性として、下半身には自分と同じものがついており、生えているものは生えているはずである。
ならば、何も問題はない。友人を気遣うことの、どこがいけないのか。
「伸。せめて、寝間着に着替えないか?」
虚ろな瞳の伸の顔を覗き込んで、声をかける。しかし、やはり、みじろぎひとつしない。
諦めて、当麻は恐る恐る、さくらいろのチュニックに手をかけて、剥がすように伸の体から引き抜いた。
その視界に現れたものに、当麻は手を止め、息を飲む。
肌触りの良い、最高級のシルクのような、艶かしいなめらなか肌。そこには、男性を象徴するようなものは一切、見当たらなかった。
やわらかな間接照明に浮かび上がった伸の上半身は、無駄な脂肪は一切なく、うっすら纏った胸から下腹部に続くしなやかな筋肉が、ゆうるりとした丘陵のように起伏して、影を落としている。男性にしては、幅のない肩。薄い胸。細すぎるといってもいいほどの腰。
気のせいか、汗ではなく、淡い花の香りまでしてくる。
当麻は、目をそらせないまま、先程まで我を忘れて抱きしめた伸の、身体の感触を思い出す。
その瞬間、自分の腰が熱く疼きだし、自分自身がゆるやかに立ち上がりかけていることに気づいた。
「馬鹿か、俺は。伸は男だぞ?」
論理的に間違った反応をする自分の身体に、当麻は精一杯、悪態をつく。
しかし、身体は自分の意識とは無関係に、熱を持ち、その視線を伸から逸らすことができない。
上半身を露にしたまま、伸は、相変わらず、どこか遠いところに意識を飛ばしたまま、虚ろな視線で宙を見ている。
完全に無防備な伸を目の前に、当麻は名付けがたい雄としての欲情が身体を支配するのを感じ、血が滲むほど下唇を噛む。
そして、低く自分に命じるように呟いた。
「伸は、男だ。」
当麻は、わずかに震える手で、自らの予備の寝間着を取り上げ、伸の上半身を抱き起こし、着替えさせる。
その間にも、当麻のものは雄としての主張を続け、今はもう、押さえられないほどに膨らんでいた。
着替えを終えて、再び、力を失った伸の体をベッドに横たえる。
その姿を確認して、当麻は自嘲するように呟いた。
「男の伸に欲情するなんて、俺って最低。」
言ってから、当麻は肩を落とし、静かにトイレに入ると、声を押し殺し、自分自身の熱を自らの手で解放した。
荒い呼吸を整えた当麻が、トイレから出てきて再びベッドを覗き込むと、伸の瞳は閉じられ、ゆるやかな眠りに落ちているようだった。
その姿を目にし、肩の力を抜いて当麻は安心する。
シャワーを浴びたかったが、その物音で伸を起こす訳にはいかない。
当麻はわずかな音に気遣いながら、自らも寝間着に着替え、ベッドに潜り込む。
仰向きになって、薄明かりに照らし出された天井を見ながら、当麻は自らの考えに落ちる。
伸は、いままでこうして、死んでいく人を看取り、自らの心を捧げ、その内面に湛える哀しみの海に溺れながら、再び浮かび上がり、また死んでゆく人を見送ってきたのだろうか。
それは、永遠に繰り返される拷問に近いものではないだろうか。
なのに、伸は、その仕事に誇りを持っていると言う。
自分で選んだ道だという。
人の心が死んだ後、どこにいくか、という問題は、科学的には証明できていない、未知の世界だ。
けれども、伸に看取られた人たちは、間違いなく、伸の中に心を預けていくのではないだろうかと思う。
そして、伸はそれを笑顔で受け取るのだ。
血のつながった親族なら、まだ理解ができる。
しかし、明らかに、伸のやっていることは自分の関わった人の死を、すべて自分自身に取り込もうとしている。
そんなことをしていたら、伸の身はもたないのではないのか。いや、普通の人なら、絶対に狂気に陥るはずだ。その先には、暗闇しかない。
……暗闇?
まさか。
自分の思考の行き着いた先に、当麻は恐怖を覚え、慌てて、隣で眠る伸を確認する。
規則正しい寝息は、生きている証だ。
それでも、不安が拭えない。
一瞬、ためらったが、それでも、自分の胸に理由もなく湧いてくる、大切なものを失ってしまうような予感を振り払おうと、当麻は伸の体を抱き寄せた。
されるがままに、華奢な伸の身体は、当麻の胸の中にすっぽりおさまり、静かに寝息をたてている。
……あたたかい。
当麻は、抱きしめた伸の体のぬくもりに、生きていることの安心感を覚えると同時に、胸を鋭い刃物で傷つけられるような切ない痛みを覚えた。
その痛みの名前を、当麻はまだ知らない。
伸のぬくもりを全身で感じながら、当麻は知らず知らず、なだらかな眠りの坂を落ちていった。
ふうわりと意識が光を取り戻す。
始めに聞こえて来たのは、ここ数日、聞き慣れた、鳥達の軽やかな歌声。
伸は目を覚まし、自分が置かれている状況にわずかに驚く。
慣れないぬくもりは、当麻のものだった。
何かを守るかのように、自分の身体を抱きしめている。
記憶にはないが、寝間着姿になっていた。しかも、自分にはぶかぶかの、当麻の寝間着だ。
察するに、昨晩、当麻が着替えさせてくれたのだろう。
その時の当麻の、雄としての葛藤を、伸は知る由もない。
自分を抱きしめたまま眠りこける人の不器用な愛情に、伸は苦笑する。そして、すぐにその笑みを消し、静謐な表情を取り戻した。
しまったな、と後悔する。
昨晩の出来事をゆっくりと思い出していた。
当麻に、自分の中の荒れる海を見せてしまった。
傷つける事を言ってしまった。
そして、最も見せたくなかった弱さを、見せてしまった。
征士や遼なら構わなかったのだけれど。
ただ、当麻の前でだけは、この時期特有のやわらかな春の日射しを浴びて、悠然と凪いでいる広い海でいたかった。
決して荒ぶることのない、雄大で、すべてを受け止めることのできる優しい海でいたかった。
けれども、昨晩、当麻は間違いなく、自分の中に潜む荒れ狂う海を見てしまっただろう。
「まいったな。君の前では、決して荒れる事のない穏やかな存在でいたかったんだけどね。」
言いながら、ゆっくりとした動作で、伸は当麻の蒼みがかった髪に手を伸ばし、優しく梳き始める。
その動作は、当麻が目を覚ますまで止む事はなかった。
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