第11話 涙の惑星 (3)
宴を終えた夜。
皆が、疲れを癒すために自室に戻った後も、当麻はダイニングルームで自前のノートパソコンを開き、仕事関係のメールチェックを行っていた。取引先は、主にMITメディアラボに居た頃の友人が立ち上げたベンチャー企業や、その頃の友人経由で紹介された世界各国のプログラム開発メーカーだ。フリーで仕事を引き受けている限り、こまめな対応が必要とされるため、疲れているから明日、という訳にはいかない。
膨大なメールの数を読み終え、必要案件に返信を終えたのは、11時を過ぎた頃だった。
さすがに疲れを感じ、就寝の準備のために部屋に戻る事にする。
ダイニングルームの照明を消し、廊下に出たその時、向かいのリビングの明かりが付いていることに気づき、当麻は軽く首を傾げた。
この時間、リビングに用事がある人間に心あたりがないのだ。
そっと扉を開ける。
視線の先には、リビングチェアに座ったまま、彫像のように動かない伸の姿があった。
伸は、当麻が入って来た事にも気付かず、ただじっと、リビングテーブルに置かれた、青空色の携帯電話を見つめている。
「伸?」
当麻は、はっきりと聞こえるように声をかけたが、反応はなかった。
伸の様子が、いつもと違うことに気付く。
しかし、何かが、伸のそばに近づくことに警告を鳴らしていた。
「おい、伸!」
わずかにトーンをあげて、その人の名を呼ぶ。
呼ばれた方は、今しがた、現世(うつしよ)に魂が戻って来たとでもいう様子で、ふるりと体を震わせ、ゆっくりと声のする方に顔を向けた。
「当麻。」
いつもと変わらない、柔らかに響く甘い声音。
しかし、その表情は対照的に、青白く色を失っており、当麻を見る瞳は、どこか焦点があわず、ぼんやりと霞んだような色を映していた。
一目で、具合が悪い事が分かる。
「どうした、伸。呑み過ぎてどこか悪いのか? なんだったら、近くに夜間の救急病院があるが。」
しばらく、間があった。
伸は、一度、瞬きをして、当麻から視線を外すと、再び、青空色の携帯電話に目を向けた。
「違うんだ、当麻。ちょっと、職場の問題で、考え事をしているだけだから。」
静かに答えて、伸は再び、彫像のように動かなくなった。
先程まで、桜の下で騒いでいたのである。
その夜に、職場の悩み事で落ち込む伸ではないことを、当麻はよく知っている。
何かがあった、とみるのが妥当だ。
「考え事というには、随分と顔色が悪いな。その、お前の職場は、俺にはよくわからないから相談に乗れるかどうか分からないが、話を聞く事ぐらいはできるぞ?」
「ありがとう。でも、当麻には関係のないことだから。」
即座に返された、伸にしては珍しい突き放すような返事。
『関係ない』という言葉が、当麻をひどく動揺させた。その心の動きの理由を、当麻は理解できない。ただ、怒りにも似た感情を覚え、声を荒げる。
「関係ないって、どういうことだよ。確かに俺は、伸みたいに大人じゃないさ。でもな、人の心配ぐらいはできるんだよ。」
何かに打たれたように、伸はひどく驚いた表情を浮かべ、当麻を見た。
その瞳は、今にも泣きそうに潤んでいる。
伸は、もう一度、携帯に目を遣って、小さく声を出した。
「ごめん。今、僕、当麻にひどい事、言っちゃったね。」
「そう思うんならさ、理由ぐらい聞かせてくれよ。」
部屋に入って、伸の正面の席に座って、話を聞きたい。
当麻はそう願うのだが、何かが邪魔をして、足が進まない。入り口で立ったまま、伸を見つめることしかできない。
「さっきね、職場からメールがあったんだ。」
携帯を見つめたまま、伸は静かに話はじめた。
「僕が、お世話させてもらってた、八千代さんっていう、おばあちゃんがね、さっき、息をひきとったって。」
一瞬、当麻の息が止まる。
人の死というものに、当麻は慣れていない。
「慌てて、施設長に電話して、話を聞いたんだ。僕も、おばあちゃんが長くない事は知っていたし、それは受け入れられることなんだ。施設長から遺言を聞いてね。おばちゃんが、僕に『ありがとう』って言ってたって。」
そこで伸は、一旦、言葉を置いて、携帯から目をあげ、真正面の宙空を見た。それはまるで、遠く離れた、伸自身の職場を眺めているようでもあった。
「でもね、僕はおばあちゃんから、そんな言葉をもらえるほど、良いことをしていた訳じゃないんだよ。ただ、話を聞いていただけなんだ。しかも、おばあちゃんを看取るって約束したその日に、僕は君たちと桜の下で浮かれ騒いでいたんだ。僕って、ひどい人間だろう。」
それは問いかけではなく、伸自身の確認の言葉だと当麻は気づき、言葉を失う。
こういう時、当麻は伸がわからなくなる。
否、自分と違う生き物ではないかと思うくらい、遠い存在に思えるのだ。
誰も人の死を左右することはできない。
だから、今日、その老人が亡くなる事を伸が前もって知る事は出来ない訳で、故に、先程までの花見とは無関係である。
なのに、それを自らの罪のように告白する伸が、過ぎるほど内罰的になる伸が、当麻には理解できない。
「それにね、こんなに悲しいのに、涙が出ないんだよ。」
付け足すように呟いて、伸は再び、携帯電話に目を落とした。その肩が、わずかに震えている。
「だから、考えていた。どうして涙が出ないのか、考えていた。八千代さんが死んだら、僕は八千代さんのために涙を流しますって、約束したのに、泣けない自分が分からなくて、考えていたんだ。」
肩の震えが大きくなり、声が上擦ったものになる。
まるで泣いているようだと、当麻は思った。
「僕は今、自分がわからない。だから、さっき、当麻を傷つけるような事を言ってしまった。……考えたいんだ。一人にしてもらえないかな。」
伸の声は、また、穏やかなものに戻っていた。それは、意識して穏やかさを装っていたのかもしれない。
こんな伸を、当麻は初めて見た、と思った。
かつて、輝煌帝を巡る事件の折に見せた、激情に流される姿でもない。
ただひたすら、自分の内側に入り込み、その深みで溺れながら、誰にも助けを求めない姿。
救いは、自ら助けを求めない者には与えられない事を知ってなお、一人で居たいという伸。
こういう人間にかけるべき言葉を、当麻は知らない。
しかし、言われるままに、立ち去る事はできない。
もし、この場から自分が立ち去れば、伸は消えてしまうと根拠もなく思ったからだ。
幾許か、音のない時間が過ぎた。
リビングの扉の前で、自分を見つめたまま立ち尽くす当麻を、伸は何も映していない瞳で見て、言った。
「本当に、一人になりたいんだ。君がそこにいるなら、僕が外に出るよ。」
当麻の返事を待たず、伸は立ち上がり、緩慢な動作で携帯を取り上げると、当麻の視線から逃れるように故意に目をそらしリビングの扉に近づいた。
距離を縮めてくる伸の背後に、当麻はなぜか、荒れる海の景色を見た。
時に、海を守る巫女は、その怒りを鎮めるために自らの身を差し出すと言う。
では、その巫女の悲しみは、誰が鎮めるのか。
伸が、自分の隣を通り過ぎようとしたその瞬間、当麻は無意識にその華奢なつくりの体を抱き寄せていた。
薄い背中を優しく包み込み、自分の体の方へ引き寄せる。
当麻の腕の中で、伸は、螺子(ねじ)が止まった人形のように固くなり、自らの時を止めた。
わずかに、頭を下げて、当麻は伸のうなじに自分の額を寄せる。
そして、痛みに満ちた低い声で呟いた。
「なんでこんな時に、一人になりたいなんて言うんだよ。」
一瞬、伸の体が緊張に溢れ、その呼吸すら止まった。
当麻は、何かを失うまいとするかのように、強く抱きしめる。
しばらくして、伸はその緊張の呪縛から自らを解放し、体を弛緩させ、当麻に体を預けた。
その腕の中で小さく嗚咽を漏らし始め、肩を揺らしながら当麻のジャケットにしがみつく。
静かな春の夜のリビングの入り口で、伸の小さな嗚咽は、時間を忘れたかのように続いた。
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