涙の惑星 (5)

 第11話 涙の惑星 (5)


 その日の夜、時計が11時を過ぎて、伸がベッドに潜り込んだ時、寝室の扉が開いた。
「あれ、どうしたんだい、当麻。こんな時間に。」
 当麻はいつも、伸が寝入った後に寝室に帰って来て、眠っていた。この時間に寝室に戻ってきたのは、初めてだった。
「ん、いやあ。」
 言い止して、当麻は寝室の扉を後手で閉めて、そこで立ち止まったまま、布団から、上半身を起こした伸を見ていた。
 当麻の行動の理由に見当がつかない伸は、わずかに首を傾げる。
「どうかしたのかい? 疲れているなら、早めにゆっくり休んだ方がいいよ。」
「ん、そういう訳でもなくて、さ。」
 歯切れ悪く、当麻が言葉を詰まらせる。
 伸は、当麻が心を決めて話を切り出すまで待つ覚悟をした。
 わからないけれど、当麻にしては珍しく、何かに迷っているのだろう。
 やわらかな笑みを当麻に向け、じっと時間に身を任せる。
 どれくらい過ぎただろうか。
 ようやく、当麻が重い口を割った。
「伸、お願いがあるんだけど。」
「ん? 僕にできることなら。とりあえず、話してみてよ。」
「その。お前のこと、抱いて寝ていいか?」
 当麻の視線が、ふいと伸から逸らされる。その顔は、離れている伸にでも分かるように、真っ赤になっていた。
 寝室に、不自然な沈黙が訪れる。
「ええと。」
 伸が笑みを消して、ちょっと考えるように黙りこんだ。しかし、すぐに、言葉を続ける。
「それって、僕とSEXしたいっていう風にも聞こえるんだけど。」
「なんで、俺が男の伸とそんなことするんだよ!!」
 即座に、当麻の荒々しい返事が返ってくる。耳まで赤くしているその様子に、伸は耐えられなくなって、思わず、小さく吹き出して笑ってしまった。
「伸、今、お前、笑ったな?」
「ごめん、当麻の反応が面白かったから。」
 不貞腐れて、再び伸から目を逸らした当麻に、謝るように穏やかな声音で言葉をかける。
「ところで、突然どうしたんだい? SEXというのは冗談として、僕のこと、抱いて眠りたいというのは何だか唐突な気がするんだけど。」
 そういう伸自身も、かなり驚いている。
 当麻から積極的に、自分に触れてくることは、今の段階ではあり得ない、と思っていたからだ。
 ややあって、当麻が諦めたように白状した。
「俺さ、寝付きが悪いんだよな。眠る寸前までパソコンいじってるせいもあるんだけど。だから、入眠剤を飲んでるんだ。」
「知ってるよ。ハルシオンとマイスリーだね。毎朝、残骸がゴミ箱に入ってたから、気にはなってたんだけど。ちゃんと、病院へは行っているのかい?」
 伸は、その薬を良く知っていた。職場で、入眠困難な人に与えられる短期型の睡眠薬だ。市販の睡眠薬とは成分も全く違い、きちんとした処方箋がないと出されない種類のものである。当麻がそれを常飲している事に気付いてはいたが、その事について注意するまで彼のプライベートに踏み込んではいけないと思い、黙っていた。
「んー、病院はいろいろ面倒だから、まあ、病院に務めてる友人からもらってる。」
「あのね、それは薬事法違反だよ? 続けるなら、僕は君を無理にでも病院に連れて行くよ?」
 再び、奇妙な沈黙。
 当麻が、彼にしては珍しい、ひどく戸惑ったような色の瞳で伸を見て言った。
「昨日、伸を抱いて寝たらよく眠れたんだ。気付いたら、薬飲むのも忘れてた。だから、伸を抱いて寝たら、薬いらないなぁって思ったんだよ。」
 言い終えてまた、当麻は自分の感情のやり場に困ったような顔で、伸から目を逸らす。
 ようやく当麻の真意を理解した伸は、自分の心の中に湧いてくる豊かでやわらかいものに目を向けて答えた。
「薬付けになる友人、というのは見てられないね。僕が安眠剤になるんだったら、いつでも抱いてかまわないよ。」
 その言葉に、当麻は瞠目して伸を見つめる。
「お前、その、男の俺に抱かれて、気持ち悪いとか思わないのか?」
「智将にしては珍しく、矛盾した質問だね。それなら、君は、男の僕を抱いて気持ち悪いって思わないの?」
 的確な伸の指摘に、当麻は言葉を失う。
 伸は、肩を小さく震わせて、くすくす笑い始めた。
「僕は大丈夫だよ、当麻。気にしなくていい。さっさとシャワーを浴びてきなよ。」
 当麻の心に負担にならないように、軽い口調で言って、伸はふたたび布団に潜り込んだ。
 しばらくして、扉の前から当麻が動く気配が続き、シャワーの音が響く。
 それから、当麻が布団に潜り込んでくるのに、時間はかからなかった。
 布団の中で、そっと当麻が近づいてくる気配を感じ、伸はわずかに緊張をしたが、意識して呼吸を整える。
 ゆっくりと背後から、当麻の長い手が伸びて来て、背後から抱きしめられる。
 小柄な伸の体は、背中越しにすっぽりと当麻の中に収まった。
 刹那、伸の体は固くなり、その緊張はすぐに体ごしに、当麻に伝わった。
「伸、やっぱ、無理してるんじゃ。」
「違うよ。当麻は他人だからね。ちょっと、緊張しただけだよ。」
「……接触恐怖症、じゃないのか?」
 唐突な質問に、伸は軽く、疑問の声をかける。
「どうしてそう思うんだい?」
「昨日、田無神社の帰りのラッシュの電車の中で、伸、サラリーマンの隣で苦しい顔、してただろ。」
「ああ、あれね。」
 内心、苦笑して、どこから話すべきか迷う伸である。
「僕の一族は、というよりも、おそらく海や水に仕える人たちというのは、自然と他人の感情を自分の中に受け入れる力を持つみたいでね。イメージとしては、川の水が海に流れ込むような感じかな。姉もそういう力を持っていたけれど、ちゃんとコントロールできていたみたいだった。でも、僕はあまりコントロールができないみたいなんだ。強烈な感情を持つ人や物に触れると、それが勝手に自分の中に入って来てしまうんだよ。昨日のサラリーマンの人はね、派遣切りにあったその日だったんだ。ずいぶんと辛い感情を抱いていたから、それが流れ込んで来た。だから、ちょっと辛かっただけだよ。気にすることじゃない。」
「なんだか、ずいぶんと面倒なものを持ってるな。」
「生まれつきだからね。慣れると他人が思うほど、大変でもないんだよ。あ、このことは、遼たちには黙っててね。いろいろ、鬱陶しいから。」
「じゃあ、俺がこうして触れていたら、俺の感情は、伸に丸わかりという訳か?」
「さあ、どうだろう。それだけ強烈な感情を、君が持っているかどうかだね。」
 ふいに当麻は黙り込んで、伸を抱きしめる手を、わずかに緩めた。
 静かな沈黙が淡い照明の中に降りる。
「20億年。」
「え?」
「20億年前、解糖系生命体とミトコンドリア系生命体が合体して、今の人間の元がつくられた。」
 突然始まった、当麻の講義を、伸は不思議に思いながら耳を傾ける。
「解糖系生命体は分裂する細胞で、いわば不老不死だった。しかし、ミトコンドリア系生命体は、酸素が好きだった。酸素を取り入れるとはすなわち、酸化して死ぬということだ。合体した生命体は、真核細胞になって安定はしたが、同時に酸化して死ぬ運命を背負った。不老不死ではなくなった。そこで、命を次の世代に繋いでいくためのシステムを完成させた。それが生殖というシステムだ。精子とは解糖系生命体そのものであり、卵子とはミトコンドリア系生命体そのものだ。つまり、セックスとは20億年前に起きた合体を、再び行い、命を繋ぐ、ということだ。これが異性に惹かれる理由だ。」
「なんだか、壮大な話だねえ。」
 当麻の腕の中で伸は小さく笑った。
「ゆえに、20億年かけてつくられたこのシステムに依存している俺の体は、決してその運命から逃れられない。だから、間違えても俺がお前を襲う事はないから安心しろ。」
 当麻の言わんとしていることを理解して、伸は堪えきれず、声を漏らして笑い始めた。
「何がおかしい。本当のことだぞ。」
「いや、君の言いたい事は良く分かった。僕も安心したよ、いろいろ。」
 答えながら、伸は、当麻の体から伝わってくる感情の波を受け止める。
 それは、今、当麻が口に出して言った事とは裏腹な事ばかりだった。
 自分へ向けられるあざやかな恋情、母親を慕うような幼い想い、そしてそれらに隠れるようにひっそりとある、明らかな欲情。
 当麻自身は全く気付いていない無意識のことが、強烈な感情となって、自分へと流れ込む。
 自らが意識している世界を当麻は「自らの世界」として認識している。かつて智将と呼ばれた彼にとって、世界は膨大な知識と知恵と情報の世界なのだ。けれども、それ以外の世界が自らの内側にあることを、当麻は知らない。知ろうとしない。あえて、目を逸らす傾向にある。
 自分の意識している世界と、無意識の世界が、同じベクトルにあるなら、それはそれで問題はない。
 ただ、今の当麻は明らかに、そのベクトルは真逆であり、時にそれは当麻自身に強烈なストレスとなるだろう。
 本当ならば、こういう形での警鐘にはしたくないのだけれど、と伸は思いながら、話を始める。
「ねえ、当麻。」
「なんだ。」
「君の故郷は、どこにあるんだい?」
 突然、ひそやかに始められた会話に、当麻は奇妙な思いを抱きながら素直に答える。
「え、大阪だけど。伸だって知っているだろう。」
「そうじゃないよ。」
 わずかな沈黙が降りる。
「優雅に舞う蝶も、自分の好みの花を見つけてそこで羽を休める。自由に空を飛んでいるように見える鳥達も、飛び続けることはできない。ちゃんと、帰ってその翼を休める場所がある。本当に自由に生きているものたちは、ちゃんと心や体を休めるために還る場所があるから自由なんだと思う。そういう心の還る場所という意味での故郷、多分、英語では『home』というと思うんだけど、そういう場所が当麻にはあるのかい。」
 言われて当麻は、一瞬、伸を抱きしめる腕に力を込める。
 そして、身動きできなくなる。
 MIT時代の最初のパーティで、故郷はどこですかと聞かれ、大阪、という言葉が出ずに、日本、と答えてしまったことを思い出す。
 多国籍の研究室だったから、それは問題なかったのだが、日本では通じない答えだ。
 それでも、伸のいうような「心が還る場所」が大阪だとは思えない。なぜなら、そこには家族がいないからだ。
 心の奥底の、冷えた鉛のような重いものがぐらりと動く。
 心臓に、熱い鉄が押しつけられたような痛みを覚える。
 その理由が、当麻には分からない。
 けれども、当麻の体は素直にその言葉に反応した。
 涙が一筋、頬を伝って流れ落ちる。
 水の気配を感じ、伸は体をゆっくりと当麻の方に向けた。
 そして、涙の跡を右手でやさしく辿り、その瞼にそっとキスを落とした。
 当麻の体が、びくりと震える。
「ごめんね、当麻。君を困らせるつもりじゃないんだ。ただ、君は言わないと、気付かないだろう。誰でもいい、ちゃんと、心が還ることのできる場所をつくるんだ。そうすれば、君はもっと自由になれる。もし、見つからないなら、僕が当麻の心の還る場所になることもできるんだ。でもね、それは、君が決めないとどうしようもないことなんだ。」
 秘め事のように囁かれる言葉を、当麻は聞いていたのだろうか。
 伸を抱きしめる腕がわずかに力を失う。
 春の夜が静かに過ぎてゆく。
 伸は、当麻のわずかに早くなった心音が、再び、穏やかなものに戻るのを確認してから、ゆうるりと眠りの淵へ旅立った。

2010.01.22 脱稿

ええと、これはコメントそんなにいらないですね(汗 恋愛ターン(苦笑)一応、ここでワンクール終わりです。第1巻的な。次回の本編の更新はオンリーの準備が終わって、落ち着いてからということになります。余談ですが、タイトルは、はじめて、オリジナルではなく好きな歌からお借りしました。TM NETWORKの「LOVE TRAIN」のワンフレーズ。あまりにもぴったりだったので。その他、コメントはブログ にて。