硝子細工の迷境 (6)

 硝子細工の迷境(6)


 松屋銀座の裏通りに面した老舗の居酒屋に五人が腰を落ち着けたのは、午後十時を過ぎた頃だった。
 千早を見送った当麻と伸は、夜になってもなお人の行き来の絶えない街で遼たちとどのように落ち合おうかと思案していた。携帯で連絡を取るにしても、互いが共通に分かる場所がないことに今更ながら気付いたのだ。ランドマークの多過ぎる街の弊害だ。どうする、と二人で話しながら中央通りに出たところ、シャネルとルイ・ヴィトンが中央通りを挟んで華やかなブランド合戦を繰り広げている交差点で五人はばったりと出会った。マネキンと戦っていた遼も、黒い霧に悩まされていた征士と秀も、それぞれ歩いて五分の界隈にいたのだ。ただ異界であったがゆえに、互いの存在に気づかなかった。
 帰ろうぜ、と秀が言い出したその時、伸の携帯に着信があった。渡井からだった。
 銀座で何かあったのでは、と尋ねられ、簡単にこれまでの経緯を話すと、伝えたいことがあるので会えないかと打診された。五人にそれを断る理由もなく、田無神社の崇敬会の一人が経営するという指定された店に足を運ぶことになった。

「そうでしたか……。」
 五人の話を聞き終えると、渡井は何かを深く案じるような色を目に浮かべて頷いた。
 沈黙が降りる。ややあって、当麻が抑揚の少ない声で渡井に尋ねる。
「俺が一番気になるのは、あの『花月』と名乗った少年が、秀のことを『鬼』と断じたその方法だ。こういうのは門外漢だから、あんたの方が詳しいんじゃないかと思う。秀の名とその力の性質で彼を『大きな力を持つ鬼』と奴は言ったが……専門家としての意見を聞きたい。」
 静かに刺を含んだその声音を、隣に座る伸が目で注意を促す。
 だが、今の渡井には当麻のその態度が逆に有り難くさえ思えた。
 ここに来る前に、幸頭井、斎部、日知と別の料亭で打ち合わせをした時、最後に厳しく言い渡された言葉が脳裏を過る。
『毒は薬となり、逆もまたしかり。彼らも使い様によっては我ら、しいてはこの国土に災いをなすもの。ゆめゆめ、個人的感情で肩入れすることなきよう……』
 はっきりと、彼ら五人は北辰結界のための駒でしかない、と言った。
 黙ってしまった渡井に気を遣った伸が、声をかける。
「あの、渡井さん、すみません。こんな事件があったものですから、彼は今、ちょっと気が荒れていて……」
「そんなことはない。俺は冷静だぞ。」
「冷静なら、もう少し言い方ってもんがあるだろう?」
 二人の仲の良いとも見える遣り取りに、渡井はこころなしかささくれ立っていた気持ちが和らいだ。その表情に、彼独特の年齢を曖昧にさせる笑みが戻る。
「申し訳ありません、少し、考え事をしておりました。……羽柴さんの言う、その麗黄さんが天狗、花月少年から『鬼』と言われたという件について、私なりの考えを述べさせて頂きます。まず『麗黄』の解し方ですが、確かに『麗』は美称であり、『黄』は『キ』と通じ『鬼』に通じます。」
「なんだと! じゃあ、俺が本当に鬼だってのかよ!」
 渡井から一番遠くの席に座っていた秀が、机に手を置いてガタリと立ち上がった。しかし、その声の勢いとは裏腹に、瞳は不安に揺れ、顔からは血の色が失せている。いつもは見る者を安心させる力強さは欠けていた。
 例の天狗から自らのことを『大きな力を持つ鬼』だと指摘されて、秀はある記憶を思いおこし、何度もぬぐい去ろうとして失敗していた。
 十年前の戦いの折、螺呪羅の幻術の中で言われた言葉、それは金剛の鎧が全ての鎧の中で最も血塗られていたというものだった。今となっては真実かどうか分からないその幻術を打ち破ろうと目一杯、岩鉄砕を放ったあと、眼前に広がったのは妖邪空間であったとはいえ、破壊し尽くされた新宿の一角だった。自分は街を一つ、瓦礫の山にする力を持っている。幼い頃はその力を、自分が正しいと信じることのためなら躊躇うことなく使うことができた。しかし、歳を重ねるにつれ、誰かにとっての正義は他の誰かにとって悪になり得るのだと学んだ。だからこそ、今は、正義という立場で己の力を振りかざすことはできない。仲間を守ることが唯一、その力を使う時だ。ゆえに、秀にとって、『鬼』と言われたことは、心のどこかでいつも恐れていた、自分の力の本当の姿を暴かれたように思えた。だからこそ、『鬼』の言葉に過度に敏感に反応してしまう。
「麗黄さん、落ち着いて私の話を聞いてください。『キ』には別の意味があります。神道では穢れのことを『気涸れ』ともいいます。神社に詣でるということは、涸れた気を神様から頂くことです。そう、神様が人にお与えになる『気』もまた『キ』です。科学技術の発達した現代ではこのように考えることはありませんが、人の『気』というのは、増えたり減ったりするのです。増えたり減ったりする人の『気』とは、人である証の心そのものです。よって麗黄とは、『美しい心』とも言えます。そして、大地の『チ』は、確かに、エネルギーを指します。古来、大きなエネルギーを持つものには『チ』という言葉が使われてきました。『血』『乳』『雷』、『大地』も同じです。これらをまとめると、言霊的には麗黄さんは鬼ではなく、『大きな力を持つ心美しい人』ということになります。」
 柔らかな声音だが潔く言い切った渡井を見て、五人は沈黙した。その中で秀ひとりがぽつり、と呟く。
「じゃあ、俺は『鬼』じゃないんだな。奴の言ったことは嘘なんだな?」
「はい……そうです。」
 渡井の言葉に、当麻以外はふっと肩の力を抜いた。秀の気持ちを察してのことだった。同時に彼ら自身も安心した。秀が鬼であるならば、同じ鎧を纏う自分たちも鬼である、と言える。かつては武器を手に戦っていた、その事実だけ取り出せば、自分たちが戦鬼であったと言われてもおかしくはないと、皆、どこかで思っていた。だから、渡井の言葉に安堵を覚えたのだ。
 そんな四人を他所に、当麻は目を眇めて渡井の一瞬の表情の翳りを見てとった。何かを隠している、と看破した。秀が鬼ではない、というのは秀が鬼である、ということと同じ割合で側面的事実の一つではないのか……。
「それで、今日、皆様にお会いしたかったのは、例の、金烏玉兎集の再生の儀の日取りが決まったので、詳細をお伝えしたかったのです。」
「決まったんですか?」
 目を丸くして驚く遼の言葉に、渡井が笑みを深める。
「これは先程、寮から発表された正式なものです。来る五月二十四日、子の刻、田無神社境内において執り行うことが決定しました。どうぞ、皆様の力をお貸し頂きたく思います。」
 軽く一礼をする渡井に、五人は視線を交わし合う。その結論を口にしたのはやはり遼だった。
「そのつもりで俺たち、こっちに残っているんです。俺たちの力で何かが守れるなら、協力を拒む理由はありません。」
 それからしばらくの間、渡井から礼だともてなされた、魚料理を中心とする豪華な品々に舌鼓打ち腹を満たしてから、終電間際の電車で五人は帰路についた。

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