硝子細工の迷境 (6)


 遠い世界で起こっている出来事のように、微かなシャワーの音が響いている。
 伸は、その音を子守唄がわりに聞きながら、ベッドの中で今日起きた出来事を頭の中で反芻していた。
 寂しそうな天御中主神、双子エビス、硝子細工で出来たような光の迷宮とそこに現れたマネキンたち。走ることができないという千早、燃え盛る鬼、焼け爛れる自分の体、味わったことのない戦慄……。
 そして、当麻の、声。
 何かが引っかかっている。それさえ分かれば、パズルのピースが全て揃い、一枚の風景が完成するとでもいうような。とても頼りない勘ではあるが、その何かの中心に、千早がいる気がする。いつもなよやかに笑っている美しいあの人の姿が、瞼の裏から離れない。現世に突如、生身の神様が生まれ落ちたような、幽玄を纏う浮き世離れした容姿にも関わらず、妖しいまでの存在感を漂わせる存在。そんな彼に惹かれてやまない自分がいる。遠い遠い昔に、何か言い交わしたことでもあるのではないかと錯覚するような既視感。そんなはずはないのだけれど。
 シャワーの音はいつの間にか止んでいた。
 もぞもぞと布団が動き、背後からふわり、と抱き締められる。
 瞬間、身体をわずかに強ばらせた伸だが、すぐに緊張を解いてシャワーで温もった当麻の胸に自らを預けた。
「大丈夫、なのか?」
 慌ただしい一日の終わり、ようやく二人だけの時間が訪れる。見ているのはだた、枕元の時計だけ。
 当麻の目に焼き付いて離れないのは、酷いダメージを受けて焦げていたアンダーギアと、柔らかな頬を汚す黒い煤と、意識を失い、ぐったりと動かない伸の姿だった。己の心を染め上げる昏い怒りと同じだけの分量で、何度も予感した大切な人を失う恐怖をまた体験してしまった。 
 抱き締めた腕を動かして、伸の手に重ねる。
 先にシャワーを浴びたはずなのに、伸の方が温かい。そのぬくもりに命を感じて、当麻は大きく安堵の息をついた。
「特にひどい怪我はないから大丈夫だよ。それよりも、今日のことをいろいろ考えてしまってね……」
「今日のこと?」
 確かにめまぐるしい一日ではあった。銀座の街は二つの世界に写し取られ、異形のモノが二つも現れ、秀に至っては、鬼、とさえ言われた。伸はどの件を考え込んでいるのだろうか。
「はっきりとは分からないんだけどね。僕が出会った鬼、当麻たちが会ったという天狗、異世界。何か、どこか大きな力で繋がっているような気がするんだ。頼りにならない勘だけどね。それと、僕は千早さん、という人が気になって仕方がない。運命、という言葉は好きじゃないけれど、当麻たちとは違う意味で、逢うべくして逢ったという気がするんだ。」
「そんな訳ないだろう!」
 先程のやさしげな声音とは真逆の、怒気を目一杯はらんだ声で当麻は言うと、伸の体をやや乱暴に自分の方へ向かせる。
 自分の一番聞きたくない不安材料である人物の名を伸の口から聞いて、わずかの間、我を忘れて、その小さな肩を掴むように力を込めた。低く、唸るように言う。
「あいつには近付くな。」
「当麻、痛いよ。」
「あいつは危険なんだ。何か、何かを隠している……」
 そこまで言って、当麻はその肩が小刻みに震えているのに気づき、はっと理性を取り戻した。
 伸の柳眉がくっと何かを我慢するように寄せられている。いつものやわらかな面差しが、冬の寒さに凍えるように固まっていた。
 それが自分の仕業だと気付くまで数秒あった。
「すまない。」
 慌てて、伸の薄い肩から手を離す。すっと、伸の表情に、おだやかな春の一日のような静けさが戻る。
「当麻には、心配かけてばかりだね。今日も……名前を呼んでくれたから僕は助かった。」
 伸は肩を竦めて、くすりと笑う。
 あの時、暗闇に閉ざされた意識の中、蒼い光が見えた。だから無意識にその名前を口にした。不器用に自分を守ろうとしてくれるやさしい人の名前を。
「ありがとう。」
 その言葉に促されるように、当麻の手が伸のやわらかな琥珀色の髪に伸びる。くしゃり、とまだ湿り気を残した髪を弄ぶと、今度は大きな両の手でその滑らかな頬を包み込んで、小さな頭を抱き寄せた。気のせいか、淡い花の薫りがする。手にほんの少し力をいれて、自分へと向かせた。
 二人の視線が、カチリと合う。
 互いの瞳の中に自分の姿を見て。
 夜の女神の纏う艶めかしく甘やかな雰囲気が、二人の間を柔らかく包み込んだ。伸は思わず目を閉じ、当麻がその睫の蔭の濃さにどくん、と自分の鼓動を耳元で聞いた時。
 あと少しで触れ合う二人の身体の間に気配が生じた。ふわりふわりと蛍火が集まり、形を成して霧散する。
「しーん、つかれたー!」
 化生した者は、がしっと伸の体に抱きついた。
 少年姿の、しかも伸とお揃いのパジャマを着ているクロだ。
「き、さま……!」
 茫然とその成り行きを見守っている当麻を、クロは一度振り返ると、いたずらっ子がするように小さく舌を出した。
「俺が助けてやったんだからな!」
 一言、突きつけるように言い渡して、今度は伸を見上げて猫撫で声になる。
「いくら霊獣だからって言っても、異界を行き来するのは楽じゃないんだ。だから、今日は伸からたくさん気をもらって寝る。いいだろ?」
「う、うん……」
 肯定はしてみたものの、こちらもいまだ、状況がうまく掴めていない伸である。
「ええとね、クロ……」
 伸が続けようとしたその時。
「俺、今日は離れて寝る。」
 ぽつり、と一言、寂しさを漂わせて、伸の目の前で当麻が背を向けて横になった。
「と、当麻!? ねえ、当麻!」
 背後で、伸が慌てふためいている声を聞きながら、当麻は強く思った。
 俺たちは、強大で目に見えない何かと対峙しているのだろう。十年前の事件すらも組み込まれている可能性のある、そういう壮大な仕掛けの、罠。
 が、目下の敵、いや、ライバルは……鬼でも天狗でもなく。
 この化け狐。
 コレに認めさせない限り、俺に明日はない。
 深く決意して、当麻は寝たフリを決め込んだ。 

 あと十五分で日付が変わる頃。
 吉祥寺発渋谷行き、京王井の頭線の終電を降りた人々が下北沢駅南口に溢れ出ていた。金曜の夜ということもあり、普段の数割増しで騒がしい。
 その一群の最後から少し離れたところに、一人の男がいた。
 洞真法人であった。
 喧騒の影に潜むようにひっそりとカートを引いて歩いている。
 駅前の広場から数歩出た所で、彼は足を止めた。外見は平凡な四十代にしか見えないありきたりの風貌、しかし目だけが一瞬、ぎらりと異様な光を宿す。
 その脇に、一台の車が止まった。下北沢の街の色に似合わない黒い高級車だ。後部座席の窓がゆっくりと開き、顔を見せたのは、悠然と構えている幸頭井友泰である。よく通る太い声が響いた。
「はじめてお目にかかる。夕刻はいい仕事を見せてもらった。あれほどの式神操縦が出来る人材はそうそういないだろうと感心した。」
「これはこれは、陰陽頭(おんみょうのかみ)自らがこんな下々のところへいらっしゃるとは。呼んでいただければ、こちらから参じたものを。私など所詮、下野の術者。上に仕えていらっしゃる方々とは比べ物になりますまい。」
 洞真は幸頭井の顔は見ず、ちらと笑った。幸頭井もまた、口許だけで楽しげに笑っている。
「洞真法人……魔を宿す洞とは、また大袈裟な、名前だけが勝つ人物かと思うたら、そうでもなさそうで安心した。出は播磨だと聞いたがあながち嘘でもなさそうだ。少し君に話がある。何、悪いようにはせん。」
「大勢の有能な術者を抱えていらっしゃる陰陽頭が、下野の術者に用事とは、これまた奇異なことを仰る。」
「君の遊ばせた式神を見たのは私と、もう一人だけだった。今の陰陽寮には決定的に不足しているものがある。わかるかね、君のような……力と野心のある者だ。風向きが変ることは止められない。変った後、我々が生き残るために必要なのは、信念でも正義でもなく、力そのものだ。」

迷境、終わりました。読んでくださった方、お疲れさまでした! ありがとうございます。続きはブログにて。