硝子細工の迷境(5)
いくつもの手が伸び出る黒い霧は、地面から途切れることなく溢れ続けた。
光輪剣で断てばぐにゃりと曲がる。翔破弓で散らせば再び集まって元の形に戻る。三節棍で飛ばせば一度は砕けるように見えても、やはり元の霧に戻り逆に三節棍に絡み付く。
足元にはねっとりと霧がまとわりつき、いつものように素早く動くことを封じられていた。一歩歩くにしても、黒い霧が重みを持って彼らの足を縛り付ける。
「ああ!! もう我慢できねえっ! 当麻、なんとかならないのかよっ!」
じめじめとした戦法の苦手な秀が爆発した。言いながら、三節棍を八つ当たりするようにぐいっと大きく振り回す。黒い霧が一時的に周囲から霧散した。
「考えている最中だ。ここは奴の結界の中だから、まずは結界を解く手順を見付けなければならんということだ。」
「結界、結界ってな! 俺があいつみたいに飛べりゃ、そんなもん、外から打ち砕いてやるのによ!」
その言葉に、当麻がぴたりと動きを止めた。
「飛んで……外から……?」
「おうよ! 俺ならやれるぜ!」
霧散した霧が、また地面から周囲から背後から忍び寄ってくる。それを翔破弓で薙ぎながら、当麻は少し離れた征士に声をかけた。
「おい、征士! 得物の交換だ!」
「なんだと?」
先程から無言で霧を断ち払い、やはり秀と同じく現状にもどかしさを感じていた征士が鎧ごと振り返って自分達の軍師を見た。
「何をするつもりだ?」
「今のままでは埒があかない。俺が飛んで奴を見付ける。もしくは結界をなんとかする。光輪剣なら今、俺たちの置かれている真実を映してくれるんだろう?」
「お前にできるのか?」
「やってみる価値はあるさ。」
さらりと言ってのけて、当麻は翔破弓を征士に投げ渡した。かわりに飛んで来た光輪剣を受け止め、その手に握りしめる。持ち慣れない刀の重みに当麻はすっと表情を引き締めた。
「私の大切なものだ、丁寧に扱え。」
征士の厳しく低い声を聞いてから仲間に後を託し、当麻はその鎧の力で黒い廃墟の街にふわりと舞い上がった。
天空の鎧は蒼い微光を放ちながら、その主である当麻を黒い空の高みへ連れてゆく。
高度が増し、街のビル群がやがて箱庭のおもちゃの一角のように見え始めた時。
「待っていました。こうでなければ、退屈です。」
言葉に続いてくっくっという哄笑が闇中に響いた。
声の方を見ると、先程の業火の赤の天狗面を付けた異形が、ふわりと事もなげに浮いている。その纏う衣は、黒い帳の中、しらじらと光って見えた。
「そりゃ、光栄なことだ。」
相手に聞こえないように当麻は吐き捨てるように呟くと、一飛び、その異形に切り掛かかった。
しかし、相手はぐにゃりと、まるで水に溶かした絵具のように象形を変える、その面の赤と衣の白がちりぢりになって虚空へ舞う……しばらくして、異形は何事もなかったように、元の姿に戻った。当然、光輪剣で斬ったという実感はともなわない。
……正攻法で敵うような奴じゃないな。
そう独り言ちて、当麻は一旦、相手と距離をとる。
「結界を解きたいなら、本気になってください。」
大気中に鮮やかとも聞こえる嘲りの声が響く。と、その声に交じって、当麻の肩元でつむじ風が吹いた。姿形は見えない。だがその気配それが何かすぐに分かった。クロだ。
「相手の名を暴け。そうすれば幻は消える。」
つむじ風はそう言い残して虚空に消えた。
「相手の名を暴く」、その意味の本質を理解できなかったが、天狗も狐も「あやしげなモノ」だ。伸に言えば怒られるかもしれないが同類には違いない。そのクロが言うのなら本当なのだろう。幸いにも、相手はこちらから攻撃しない限り、アクションを起こさない。ならば、わずかの時間、考えることも許されるはずだ。
そうして、先程の天狗面の異形の名乗りを思い起こす。
……月に常任にして取り分き申すに及ばず、さて花の字はと問えば、春は花、夏は瓜、秋は果(このみ)、冬は火、因果の果をば末期まで一句の為に残す。
先程、天狗面の異形が秀の名を使い、「鬼だ」と言ったときに使われた手法は漢字の読み方をすり替えてゆく方法だ。それに従えば、この名乗りも漢字の読み方にポイントがあるのではないか。
そこまで思い至り、当麻はあることに気付いた。
「花」「瓜」「果」「火」すべて「か」と読める。ついでに因果の「果」も同様だ。つまり「さて花の字はといえば」以降の文章はすべて『か』を導くことになる。花を「か」と音読みするならば、「月に常任にして取り分き申すに及ばず」の月も音読みして『げつ』と読むべきだろう。『か』と『げつ』、そこまで導いた時、当麻の記憶の引き出しから一つの予想が浮かんだ。
……謡曲花月。
実際の能舞台を見たことはないが、あらすじだけは知っている。天狗に攫われた少年花月が父と再会する話だ。
目の前の異形は少年には見えないが、一か八か、当麻は賭けてみることにした。
「花月少年とはお前のことか!」
その鋭い声に射られたように、朱塗りの面がパキリと音を立てて割れた。割れた赤は、光を放ちながら流星のごとく落ちてゆく。
割れた面の下に、一瞬、幼い顔を当麻が垣間見たとき、彼を守るかのようにおうおうと風が吹いてその姿を風の渦の中に隠した。鎧を纏った当麻でさえも飛ばされそうな強い風が去った後、目の前に現れたのは、幼い子供、であった。
「お見事。」
年の頃はまだ十歳くらいであろう。少年は日本人形のように美しかった。緑の黒髪は絹で出来ていると見紛うほど繊細で、闇に浮かぶ白い面は上品に、艶々しい。鈴を振るような声はあどけなさを含み、少年がまだ幼いことを証明していた。しかし、ただの少年ではなかった。その背には、背丈の二倍は軽く越える黒々とした羽が生えている。
「十年前には智将天空と呼ばれていたとか。どうです、天狗と知恵比べをして勝った気分は。」
「まだ勝っちゃいないさ。この結界を解かないとな。」
「ああ、そうでしたか。貴方は仲間を助けたいんでしたね。忘れていました。」
少年は、艶かしくも見える薄い唇に冷笑を浮かべて、真摯な当麻の態度を笑った。
「結界を作っているのは僕です。僕を殺せば、自然と解けます。どうですか、殺しますか、そのお仲間のよく斬れそうな剣で。きっと綺麗な生き血が溢れますよ。」
躊躇なく言う少年の言葉に、当麻は息を詰めてその顔を見た。愉快そうに、自分を殺せという少年の顔を。殺意を感じられない。ただただ、この場を楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。
「おかしいですね、十年前はたくさん殺めたのでは? 大人になるとできなくなりますか? 歳をとるというのは不自由になることですから。」
くっくっと楽しそうに少年が笑う。
当麻はその狂言じみた言動の意図するところを理解しかねて動くことができない。昏い愉悦に浸っている少年の声を聞きながら、心の奥でこれは罠だと自分に言い聞かせているが、少年の言葉が当麻の体を縛り付ける。
言い返す事もできず動きを止めた当麻の前で、少年の背の羽が一度、ばさりと宙をかき乱す。
「残念。決断のできない軍師は仲間を助けられませんでした。」
花月少年は、ひと際高い声音で笑ってから、ばさり、ばさりと羽を羽ばたかせて、さらに高みの虚空へと消えた。
闇の凝る空に一人残された当麻は、身動き一つできず少年の姿を視線だけで見送った。その異形の少年の姿が視界から消えた刹那、悪い夢から覚めたように、意識がクリアになる。
「何だ……、今の。」
少年の声を聞いた瞬間から、何か目に見えない力で意識と体が麻痺していた、そういう実感があった。だが、それについて詮索している余裕はない。少年が去った今、自力で結界を解く方法を考えなければならない。
手にした光輪剣に向けて独り言ちる。
「主人は違うが、力を貸してくれ。」
目を閉じ、息を整える。
光をイメージし、全身にそれを満たした後、握りしめた手から光輪剣に力を注ぐ。
剣はそれに応じるように、清冽な輝きを帯び始める。やがて光は目映いほどに広がり、闇を押しやった。
「光輪剣よ! この街の真実を見せてくれ!」
当麻は光輪剣を垂直に振り払い、闇を引き裂いた。鮮烈な帯状の光が大気を震わせる。
その刀身には、おぼろげに像が結ばれている。銀座と思われる街の様子だった。不思議なことにそれはゆっくりと姿を変えてゆくのだ。最初は人々が行き交う見慣れた銀座の街。次に、廃墟のように色褪せた街。その次に絢爛な光で彩られた街、それら三つの映像がくるくると順を追って紡ぎ出される。
当麻はしばし無言で考え、一つの答えを出した。
あり得ないことだが、現実の銀座の街から、次元の少しずれたところに、二つの銀座の街が作られている、恐らく、あの花月という少年の仕業だ。その一つ、廃墟のような銀座には征士と秀と自分が誘い込まれ、伸と遼はあの光に充ちた街にいる。何者かが、戦力を故意に分断させたと考えるのが妥当だろう。と、先程クロが来たことを思い出す。なぜクロが現れたのか。そこまで考えて、当麻は大きく息をのみ、流れるはずのない汗を背筋に感じた。
……クロが来たのは、伸が危機的な状況にあるからだ。
光輪剣を下ろし、当麻は再び意識を集中させる……伸に向って。
鎧を纏っているはずなら共鳴するであろうし、纏っていなければ同じ鎧パワーを持つものとして、その気の放たれる場所くらいはわかるのではないかという一縷の望みを抱きながら。
焦燥感が鼓動を早める。
……伸、どこにいる。
心の中で繰り返す。
しかし非情にも、反応らしきものは全くなかった。
さらに集中力を高めて、伸の、水滸の気を辿る……しかし、意識には闇しか訪れない。あの、やさしい淡い水色の気はどこにも見当たらない。応えない。
「くそっ。」
当麻は苛立たしげに手にしていた光輪剣に力を込めた。持ち主から丁重に扱えと言われたことはすっかり失念している。
結界を解くという難題よりも、伸の居場所が分からないという淵の見えない絶望と根源的な恐怖が、当麻を原始的な行動に突き動かした。
「伸! 俺の名前を呼べ!」
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