硝子細工の迷境 (4)

 硝子細工の迷境(4)


 中央通りを京橋方面へ向って走っていた伸は、背後に追っ手の気配が感じられない場所まで来ると、一旦足を止めた。抱き上げていた千早を下ろして周囲を伺う。相変わらず街はきらびやかに美しく、硝子に反射して無限に繰り返される光が織り上げる回廊は、しん、と静かだった。
 追っ手から逃れたとはいえ、新手が現れないと断言はできない。マネキンが敵ならば、この街にいる限り油断はできないだろう。しかし、この街の外へ逃げられるかどうかは分からない。恐らく、結界のようなもので一時的に現実世界から切り離されているように思える。当麻たちとコンタクトをとるにしても、この光の牢獄を作っている元となるものを絶たなくてはならないだろう……そう思い、小さく伸が溜め息をついた時。
「裏通りの方が安全ではないでしょうか?」
 千早の静かな声に伸は我に返ってその白い面を見た。声と同様に、この尋常とは言い難い状況に驚きの欠片も見せない穏やかな顔だ。伸の脳裏にちかり、と危険信号のようなものが走ったが、意識に上ることはなかった。
「追ってくるのがマネキンでしたら、裏通りの、そういうものを置いてない雑居ビルの通りの方が安心できると思うのですが。」
「そう……なんですか?」
「ええ。」
 伸はこの街についてはほとんど知識を持ち合わせていない。首都の歴史ある有名な街、それくらいだ。画廊が集まっている場所だということもここ数日に知ったばかりだ。それに比べ、千早はここを活動の拠点としている節があるのだから、間違ったことは言わないだろう。
「僕はここの地理には疎いんです。案内をお願いできますか。」
「助けていただきましたから、それくらいは。」
 千早はそう言って、おっとりと笑んだ。硝子細工の街よりもはるかに幻想的で何かを隠匿しているような、そんな笑みだった。危うげな美しさに伸は一瞬怯んだが、それを表すことはせず、自分の心の中で握りつぶした。この秀麗な画家に裏があるとは思えない。危険に晒されている自分が錯覚をしているのだと言い聞かせる。
 千早に案内され、表通りを一つ横道に入る。そこにはもう、光の迷路はなくうすぼんやりとした街並が広がっていた。静寂に身体が押しつぶされそうな暗い裏通りは、光に溢れていた表通りとは別の意味の危険を伸は感じた。
 いくつかのビルを過ぎ、四つ角を右に曲がる。そこに続く細い路と両側に見える雑居ビル群は、表通りのきらびやかなデパートやブランドショップと同じ街にあるのかと思われるほど、古く色褪せていた。
 遺物のようなビルをいくつかやり過ごした時、伸は背後に寒気を覚え立ち止まる。
「千早さん。」
 静寂を破ることのないよう小さな声で囁く。千早も足を止めて伸の方を見た。
「どうかされました?」
 その問いに答える前に、伸は振り返り、寒気の原因を視界に捉え、大きく息を呑んだ。
 黒々とした人影があった。
 それは音もなくこちらに近付いてくる。
 一歩、また一歩。その歩幅が異常に広いのか、遠くに見えていたはずのその人影は、人並みではない早さでこちらに距離を縮めてくる。
 先程、通った四つ角にその影が差し掛かった時、伸は影の姿をつぶさに見て取り、声をなくした。
 影の頭からは、天を狙うがごとく二本の角が周囲を睥睨するようにそびえている。
 それ以外は全く人と同じ姿をしているが故に、余計に薄気味の悪いものを感じさせた。 
 伸がその姿に驚いている間にも、それはこちらに向ってやってくる。一歩、また一歩。街の静寂を乱さない悠然とした足取りで、にもかかわらず、尋常ではない早さで。人の仕業とは思えなかった。
 無条件にこみ上げて来る恐怖を押さえながら、伸は対応策を考えていた。
 千早は走ることができない。
 もし、千早を抱えて走ったとしても、あの奇妙な人影の方が早いとすれば、自分たちは逃げ切れない。
 自分が囮になることもできるが、もし、あの奇妙な影の狙いが千早の方であれば、無意味だ。
 伸が躊躇している間にも、それはまるで一気に空間を越えたかのように、いきなり目の前に現れた。
 他者を威嚇するような角を生やした、見上げるほどの大きな男だ。
 吊り気味の目には、生者の光ではなく闇に住む者の漆黒が宿り、同じ色の短めの髪、通った鼻梁と引き結ばれた唇はバランスよく、彼が人間であれば美男子と言える部類であろう。それを全く台無しにしているのは、見た者を圧する二本の角であった。焦燥に駆られていた伸は全く気付かなかったが、彼は、人に非ざる容貌をしているにも関わらず、ぬばたまの夜の闇で縫い上げたような細めのスーツをきっちりと着込み、人であろうと努力している片鱗を伺わせていた。
「千早さん! 後ろに下がってください!」
 引き絞るような声で言って、伸は千早を雑居ビルの一階にある少し広めの空間に押しやり、自分はその前に立ちはだかった。
 男は表情一つ変えずその成り行きを見守っていたが、何を思ったか不意に伸の眼前に勢い良く手を伸ばして来た。
 伸は咄嗟にそれを受け止め、逆にその体勢から肘で打撃を加えようと試みたが叶わない。男は伸を造作もなく振り払い、千早に近付いてゆく。
「やめろ!」
 向かい側のビルのまで飛ばされた伸は、間髪を入れず立ち上がって走り、男の背後に飛びかかる。
 男は動きを止めた。
 不気味な間をおいて、その身体が変化を始める。
 はじめはゆっくりと、黒々とした彼のシルエットが埋み火のように燃えはじめ、伸が驚いて手を離そうとした瞬間には、ごうという勢いで炎が立ち上った。
 勢いよく揺らめく変幻自在の火の帳が幾重にも重なり、周囲には緋色の粉が飛び散った。
 遺物ばかりが目立つうすぼんやりとした闇の中、それは一層美しく、燃え盛っている。
 伸は全身が焼け爛れるような痛みを伴う熱さを感じ慌てて飛び退いた。しかし、男はその大きな身体からは考え難い素早さで、がっしりと伸の腕を掴み引き寄せると、片方の手で喉元を捻り上げる。
「うっ……」
 苦しげに呻いて、伸は薄目を開ける。視界いっぱいに鮮やかな真緋が飛び込んでくる。ぱちぱちと爆ぜる音は、それが幻術ではなく本当の炎であることを知らせる。男の身体から燃え上がる炎の中で、伸は全身を焼かれた。炎はアンダーギアの防御能力をはるかに越えていた。
 業火に身体を蝕まれる痛みに、ぜいぜいと喘ぎ続け息もできず意識を手放しかけた時。
「千方、もう良いよ。降ろしてあげなさい。」
 この場に相応しくない、透き通った深みのある静かな音がした。
 伸の目元に冷たいものが押しあてられる。
 同時に伸は闇に堕ちた。

続き