硝子細工の迷境 (2)

 硝子細工の迷境(2)


 静かでゆったりとした空気が、やわらかな人口照明に照らし出された白く広い空間を包んでいた。密やかな人々の歓談も、神懸かった静寂に飲み込まれ、その場所の本来の目的を邪魔することはない。
 銀座二丁目にある老舗の画廊に伸と遼は来ていた。
 昨日、遼は父親の知人の写真家の個展を見に同じく銀座二丁目の別の画廊に来て、「千早樹展〜神々のふるさと〜」と記された展示案内を見つけた。そこで先日、伸が「サインを貰ってきたんだ」とその作家の絵本を見せて喜んでいたのを思い出した。その折に「萩じゃ、原画は見られないね」とちょっと残念そうに苦笑いしていたのだ。だから遼は帰ってすぐ、伸に展示案内を見せ、行かないかと誘うと、伸は声を弾ませて喜んだ。当麻も誘ったが「興味がないから二人で行って来い」と珍しく伸との行動を避けた。遼はその当麻の反応に違和感を覚えたが、それ以上、追求することはしなかった。彼には彼なりの理由があるのだと自身を納得させた。                
 画廊に入って記帳するとすぐ、一幅の絵の前で伸は立ち止って、吸い込まれるようにじっと見ていた。その隣には「はじまりの神様」とタイトルがつけられている。1メートル程度の掛け軸に一枚の透明感のあるやわらかな色づかいの絵が表装されていた。絵の中では、古代の衣装らしき白い布を纏った男が両目を閉じ、やや上向きに顔をあげて立っている。
 どれくらい時間が経っただろうか。
「おい、伸?」
「え?」
 声をかけられ、伸は驚いたように声をあげ、それから慌てて口元に手をやり自らの失敗を恥じた。時間も場所も忘れ、絵の時間の中で伸は過ごしていたのだ。だから、ここが銀座の画廊であると思い出すまでわずかな時間が必要だった。
「ああ、ごめん。すっかり見入っちゃったみたいだね。」
「いや、いいんだけどさ。」
 言いながら、遼は奥に広がる白く広い空間を見遣る。
「ざっと見ても、作品は二十くらいあるぜ。一つの作品を見るのに三十分もかかってたら、全部見られないかなと思ってさ。」
 言われて、伸も遼と同じく画廊の奥まで見渡す。作品一つ一つに十分な余裕を持って配置されているとはいえ、画廊そのものが広い。遼の言う通り、一幅を鑑賞するのに半時もかけていたら、作品すべてを見るのに丸一日かかるだろう。すでに時は夕方なのだから、のんびりとしたペースで見ることはできない。
「そんなにこの絵が気になったのか? 俺、あまり日本の神様とか知らないからさ。」
 遼に覗き込まれ、伸は困ったように答えた。
「気になったというかね。多分、この『はじまりの神様』という名前から察するに、ここに描かれている神様は、古事記において高天原に最初に現れた『天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)』なんだと思うけど、こんな悲しそうな表情をしている絵は初めて見るんだ。」
「ふうん。そんなもんか?」
 それ以上の返事はできず、遼は首を傾げた。日本画の知識ならともかく、神様の知識は全くない。だから、伸の言いたいところがいまいち掴めずにいた。
「まあ、あと三時間くらいあるからさ。慌てることもないか。」
 伸と遼は、一幅一幅を丁寧に鑑賞しながらギャラリー内を静かに歩く。
 全ての絵を鑑賞し終えたのは夕方七時を少し過ぎた頃だった。金曜の夜ということもあってか、会社帰りの若いOLの姿が目につく。彼女たちは一様に、絵を見ると表情を失い魂を抜かれたような様子をみせた。
 二人はローテーブルのまわりに置かれた椅子に座り一息ついた。二時間と少し集中して絵を鑑賞するとさすがに頭も足も疲れてしまう。
 形式的にギャラリーから出された茶を飲みながら、遼は嬉しそうに話しはじめた。
「余程面白かったみたいだな。」
「え?」
「伸が料理している時以外で、あんな熱心な表情を見たのは初めてだなあと思ってさ。」
「そうだった?」
 言われて伸は肩をすくめてみせた。全くそんなつもりはなかったが、隣に遼がいることを忘れて見入っていたのは確かだ。それだけ、惹き付けられる絵ばかりだった。
「気になっていたんだけど、ギャラリーの入り口の千早さんのプロフィール欄のところにほとんど経歴が書かれていなかったね。絵本の作者紹介のところにも『日本画家』としか書かれていなかったから。何故かなって思って……」
 伸の呑気な言葉を、遼は慌てて自分の口元に手を一本あてて立て止めた。それから周囲を見回し、誰も見ていないことを確認すると小声で話しはじめる。
「この作家さんってさ、業界じゃ謎の多い人物として有名なんだよ。五年前に院展で入選したのがきっかけで名前が知られるようになったんだけれど、その後が凄いんだ。日本の画廊は作家が一週間単位でお金を払って画廊を借りて自分たちの作品を展示する『貸し画廊』というのが基本なんだけれど、千早さんに限っては画廊から呼ばれて展示しているみたいなんだ。そんなの、世界的に名が知られてる作家じゃないとあり得ない。それに、見たと思うけど絵に値段がついてなかっただろう? 普通は画廊で展示する時は作品を売ってそのうちいくらかは画廊に入る仕組みなんだけど、何故か千早さんの絵は『売らない』らしい。もちろん、画廊としての収益はゼロだ。それでもあちこちの画廊から声がかかってる。美大や出版関連での講演会をする時もノーギャラという話も聞いたから、一体、どこの御曹司なんだと関係者は不思議がってる。」
「出身地や年齢なんかも出ていなかったね。」
「それも、みんな奇妙に思ってる。どこかの美大を出た経歴もないようなんだ。」
「出身は長野です。絵は恥ずかしながら独学でしてね。」
 熱心に話し込んでいる二人の上から、透き通った深い響きを含んだ声が降りた。
 伸と遼は慌てて声の方を仰ぎ見る。
 そこには、伸の髪の色と良く似た丁字色の、薄い三角紋の透かしが入った着物を纏った千早樹の姿があった。
 淡く光を放つ銀鼠のゆるやかな長い髪は、暖色系の照明の下で浅い黄金色にも見える。その黄金がゆるりと流れ落ちて鼻筋の通った、細面の顔の左側を隠している。現れている右目の鳶色の瞳は貴石のように光を宿し、隠れている左目の見えない宝石の美しさを連想させた。霞は花を隠すというが、彼の場合は秘密が美を隠しているようだった。


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