硝子細工の迷境(1)


 同時刻、当麻の居座っていたスターバックスの目と鼻の先のモスバーガーで、ナスティと伸はひとときのティータイムを楽しんでいた。
 このモスバーガーの正面には、バウスシアターという小さな映画館がある。小さいがマニアックな映画を上映することで、吉祥寺住民と映画ファンの間には有名だ。特にレイトショーには誰が見るのか分からないようなプログラムを上映している。今日も「東京の古墳を調査して三十年」という大学教授が監督を務めた「ノンフィクション古墳ムービー」つまり、古墳調査ドキュメンタリーが上演されていた。これを見逃すナスティではなかった。夫が仕事で不在ということで、近くに滞在している伸を誘い、彼女にとってはスペクタクルな古墳調査ムービーを見た後、ファーストフード店に入り今に至る。
 映画を見た後の昂奮が覚めやらず、一通り自分の感想や疑問点を話し終えた後、ナスティはようやく年相応の一人の女性に戻った。そして、やや困惑気味に苦笑を浮かべている目の前の綺麗な青年に気付く。
「ごめんね、一人エキサイティングしちゃったわ。伸にはつまらなかったでしょ。」
「そんなことないよ。僕も面白かった。東京にこんなにたくさん古墳があるなんて初めて知ったよ。」
 レモンティを片手に、ふわり、と笑った。何気ない微笑だったが、春のぬくもりが立ちのぼるような艶のある笑顔だ。
 ナスティは、その表情に見入って、つい本音を漏らしてしまった。それは今日、吉祥寺駅で出会った時から感じていたが尋ねることをためらっていたものだ。
「ねえ、伸。会った時から気になってたんだけど、何かあった?」
「え、何が?」
 意味が分からない、とでもいう風に伸は小首を傾げた。さりげない仕種までもが可愛らしく見え、ナスティにあらぬ疑惑を抱かせてしまう。
 今日、待ち合わせの吉祥寺駅中央口で伸と顔を合わせた時、奇妙な違和感を覚えたのだ。
 ナスティの知る伸というのは、両極端な二面性を持つ。
 彼が纏う水滸の鎧が司る海のように、全てを受け入れてもなお笑顔でいられる強い存在。
 その反面、全てを受け入れるがために自我を霧散させ、自らを現実から置いてきぼりにするような儚い玉響の如き存在。
 そのどちらも伸の持つ性質の裏表であり、同時に彼らしさそのものだ。
 ところが、今、目の前の伸は、危なげな儚さがわずかに薄れ、肩の力を抜いて何かに安堵しているように見えるのだ。
 人が変わる時、そこには決定的な理由がある。
 その多くは、特別な人との関係が変化した時だ。
 四季の変化がさなぎから蝶への変身を促すように、今の伸は、さなぎの殻を破って外に出ようとする蝶のようだとナスティは感じた。そして、その変化を促す相手を探すと、ある一人の人物に特定される。こういう時の女性の勘は、男性の想像力を遥かに上回る。
「当麻と……何かあったの?」
「え……。」 
 笑顔のまま、伸は硬直して数度瞬きをした。浅い呼吸を何度か繰り返し、静かにレモンティの入ったマグをテーブルの上に置きながら、ナスティの視線から逃れるように俯いた。 
「別に……何もないよ。当麻も僕も何も変らない。いつも通り……だよ。」
 弱々しい声が小刻みに震えている。
 ナスティは可哀想なことをしたなと反省する一方、「語るに落ちる」とはまさにこのことだな、と納得した。
 何もなければ、伸がこんな不自然な返答をするわけがないのだ。むしろ、なぜそこで当麻の名前を出すんだい、というくらいの疑問を投げかけるのが普通だろう。
「そうなの。私の勘違いだったみたいね。」
 ナスティは勤めて明るく笑った。相槌を打つように伸も笑ったが、表情はぎこちなく笑顔からは程遠かった。
「そう、勘違いだよ。」 
 言ってから伸は、心の中で大きく溜め息をついた。
 こんな言葉でナスティは納得していないだろう。女性とは本当に騙せないものだな、と肩を竦めたい気持ちになる。
 あれから、つまり当麻が、一時的な感情に流されたとはいえ、自分を抱き締め、口付けを交わしてから一週間が経った。
 以来、特に彼の態度に大きな変化があったわけではない。ただ、以前に比べ遼たちの前で自分に甘えることをしなくなった。その替わりに、とでもいうように、夜眠る時、必ず自分の手を握って眠るようになった。そして二日前の夕方、誰もいないキッチンで唐突に背後から抱きすくめられた。痛いまでの当麻の激しい想いが伝わって来たが、どうすることもできず黙っていると、すっと潮がひいてゆくように当麻の感情も穏やかになり、それに従うように当麻の体も離れていった。ただ、それだけだ。
 不自然な沈黙を破ったのはナスティの携帯の着信音だった。
 ナスティは伸に、ごめんね、と前置きして携帯に出る。相手は夫の須ヶ崎啓介からだった。何言か交わしてからすぐに携帯を切る。
「会議が長引いてるって。こっちに迎えに来てもらえるのがずいぶん遅くなるみたい。ごめんね、伸。もう少し付き合ってもらえないかしら?」
「ああ、もちろん。こんな夜遅くに綺麗な人を一人にしておけないよ。」
「……伸に言われると、素直に喜べないのよね。」
 どうして?、と伸が口に出そうとしたその時、制服姿の小柄な女性が二人が座るテーブルにやってきた。そして、営業用スマイルを浮かべ、遠慮がちに言った。
「お客様、大変申し訳ありません。営業時間は二十三時までになっておりますので……。」
 伸は慌てて腕時計を見る。二十三時をきっかり五分過ぎていた。

 バウスシアターのあるサンロード商店街は、昼間の喧騒とはうってかわり、不気味な静けさに包まれていた。店という店はすべて灰色のシャッターを下し、いつもなら人と肩がぶつかりそうな人混みは嘘のように消え、ナスティと伸の二人だけが商店街を歩いている。
 見たことのない商店街の表情に伸は驚き、周囲を物珍しそうに見回しながら歩いていると、ナスティが突然、足を止めた。
「どうしたんだい? ナスティ。」
「ほら見て。」
 ナスティに促され、伸は視線をそちらに転じる。ほんの5メートルくらい先のところに、小さな人だかりができていた。
 興味をそそられた二人はその人だかりに歩み寄り、少し遠巻きに様子を伺う。
 灰色のシャッターの前で男が椅子に座っていた。その前に箱のような奇妙な形の机を出し、机上には「見通占」と筆書きの小さな看板が出されている。
 机の前の椅子に丁度、女性が座るところだった。後ろ姿ではっきりと分からないが流行の春コートを身につけているところをみるとまだ若いOLだろう。その女性は、座って五分もしないうちに立ち上がり、お辞儀をして逃げるように去って行った。
 ナスティが思い出したように言った。
「思い出したわ。多分、あの人、今、噂になってる占い師よ。何度か雑誌やテレビで見た事あるの。本人が相談をする前に、すぐに答えを出してくれるって……。名前は確か、洞真法人(どうまのりと)だったかしら。」
「へえ、そうなんだ。」
 そう二人が言葉を交わすうちにも、一人のサラリーマン風の男性が占い師の前に座り、そして去って行った。
 一人、そしてまた一人去り、いつの間にか占い師の男は一人になっていた。やや離れた所から見ていたナスティと伸には気付かないらしく、じっと座ったまま動かない。
「見てもらわない?」
「え、何を?」
 突然のナスティの言葉に呆気にとられ、伸はいささか間抜けな返事をしてしまった。
「伸の恋愛運。」
 ふふ、と笑い、ナスティは伸の細い腕を取る。
 逆らう事もできずに、伸はナスティに連れられて占い師の男の前に座った。
「あの、よろしくお願いします。」
 小声で言いながら、伸は無意識に男を観察する。
 全く霊感のありそうな占い師には見えない風貌だった。濃い茶色のジャケットの上から薄手のコートを纏った中肉中背の普通の男だ。サラリーマンとは言い難いが、かといって異界のものと交流したり、特殊な能力を持っている気配は全くしない。顔付きもいたって平凡で、これといった特徴もないごくありふれた四十代のそれだった。
「またこれは、ずいぶんと波乱の相をお持ちでいらっしゃる。」
 伸の顔を見て男が言った。その声は全く抑揚がなく感情も伺えないほど静かなものだったが、何かの呪文のように不可思議な力を持って伸の耳に届いた。
 言われた内容に首を傾げ、伸は男の目を伺う。
 瞬間、伸はそこに理解し難いものを見た。先程まではごく普通の男の顔だったものが、今は何かに取り憑かれたような人に非ざる者の顔つきをしているのだ。その瞳は闇路に誘うかのように昏く、光のある方へ逃れるものを絡めとろうとするような陰湿な力があった。
 男の双眸に広がる深淵な闇に見据えられ、伸は身動きすることも瞬きすることもできない。
 それを承知の上か、低い声で男は続けて言った。
「命を大切にされることです。……可能ならのことですが。」
 それから側に立っているナスティにも続けて言った。
「貴女も波乱の相がでていらっしゃいます。奸計などにご注意ください。」
 言われたナスティは返答に迷い、整った顔を曇らせて伸の方を見た。伸も同様に当惑したような顔でナスティを見ている。二人は視線を交わした後、ナスティが占い師の男に言葉を選びながら尋ねた。
「あの、私たちは何も尋ねていませんが……。」
「それが見通占(みおしせん)というものです。」
 男は言って、ちらと笑った。そこにはもう、伸が見た人間離れした相貌はなかった。雑踏の中に紛れてもごくごく普通の四十代の男性としか見えないだろう。
 それから男は、ジャケットの内側から珍しい懐中時計を取り出し、どこか芝居がかったような驚きの表情を浮かべた。
「ああ、もうこんな時間だ。終電に乗り遅れてしまう。」
 言ってから申し訳なさそうに、ナスティと伸を見た。
「そういうわけで、これでお開きとさせていただいてよろしいでしょうか。」
「あの、少し待って下さい。」
 ナスティは慌ててバッグから財布を取り出した。どんな奇妙な回答を言われたとしても、こういう時には相場の金額を渡すというのが常識だ。
 それを見て取った男は、右手を軽くあげてそれをやんわりと拒否した。
「私の名前は洞真と言います。『真』とはすなわち『シン』に通じ『神』に通じます。ゆえに私の名は神の隠れあそばす洞にてございます。神は穢れを嫌います。よって死穢を纏われいらっしゃる方からの物は遠慮させていただいております。」
「死穢?」
 ナスティが疑問口調でその言葉を反復した隣で、伸はすぐにその意味するところを察し、わずかに眉根を寄せる。
 自分たちに纏わりつく死穢とはつまり、青梅の遊女のことを指しているのだろう。
 神が死の穢れを嫌うというのは、人間の死後の世界を定めた仏教ではなく、死後を定めなかった日本の古代宗教に近い考え方だ。
 初めて顔を合わせてこちらからは一言も情報を発していないのに、そこまで見抜くこの男は一体何者か。
 伸が深い疑念の思いを持って見ている目の前で、男は椅子やら机やらを片付けてカートにまとめると、二人に一礼して立ち去ろうとした。数歩歩いてから、ゆっくりと振り向く。
「皇居の鬼門には、本物の鬼がいますよ。」
 男はそう言い残して、人気のないサンロードを吉祥寺駅に向って歩いて行った。

銀座編です。まだ銀座は出て来てませんが(苦笑)冒頭でここ一ヶ月の〜という台詞があったので、実際にどんな一ヶ月だったかまとめてみました。こちら。あと、いつもの呟きはブログにて。