ゆるゆると長い髪を揺らしながら、薄い唇に朱色の笑みを浮かべ、千早は伸に向いて軽く会釈をする。
「池袋以来ですね。遠路、はるばる来て頂きありがとうございます。」
「いえ、こちらこそ……。」
伸は慌てて立ち上がり深く頭を下げる。下げながら、なぜ、自分のことなど覚えているのか疑問を抱く。
「あの、僕のこと覚えていらしてくださったんですか?」
一瞬、間があった。
千早はその整い過ぎて冷たくも見える顔に、やけに人間味のある驚きの表情を浮かべくつくつと小さく笑い出した。
「今までサインをした中で若い男性は毛利さん一人でしたから、とても印象に残っていまして。」
「あ……。」
伸は自分の頬が赤く火照っているのを感じた。思い返せば、確かにあの会場には女性しかいなかった。そしてよくよく周囲を観察すれば、今、この瞬間も、自分たちの遣り取りを好奇の眼差しで見ているのは、若い女性ばかりだ。
「先程、こちらの画廊につきまして入り口の記帳を見ましたら、毛利さんの名前がありましたので。まだいらっしゃるかと思ったところ、こちらにみえたので声をかけさせていただきました。」
「ありがとうございます。」
伸がその言葉に続けて、連れてきてくれた遼の紹介をしようとした時、体の奥深くで、例の、自らの裡に潜むもうひとつの大きな生命が蠢くのを察した。警戒しているわけでも歓迎しているわけでもなさそうだった。ただ、反応している。
言葉に詰まった伸に遼が助け舟を出した。
「俺、伸の友人の真田遼といいます。今日は素敵な作品を拝見させていただきありがとうございます。」
千早は小さく笑みを浮かべたまま遼を見て尋ねた。
「お父上は写真家の真田修さんでは?」
「え? おやじ……いや、父の事をご存知ですか?」
「『日本の霊虎』という写真集を出されていらっしゃいますね。拝見したとき、本物の霊虎がいるのかと驚きました。今でもお父様は霊虎に会われるんですか?」
返答に困り、遼は気取られないように考える。霊虎には間違いない。ただあの写真集のコンセプトはあくまでも『日本で野生にはいないはずのホワイトタイガーを発見した』という前提で出版されたものであり、本のタイトルの『日本の霊虎』はあくまでも、いるはずのない存在を比喩して使ったものだ。日本の有史以前から居た白炎という霊虎の存在を表沙汰にはできない。遼は丁寧に言葉を選んで答えた。
「ええ、本当に霊虎だったのかもしれません。あの写真集が出版された後、父は一度も見ていないそうです。その筋の専門家の人が捜索しているそうですが、未だ発見されていないと聞きました。多分、父の強い願いを聞き届けて現れたんだと思います。」
「そうでしたか。」
納得したように千早は小さく頷き、それから二人の前の椅子に優雅な動きで座った。ただそれだけの動作なのに、まるで舞っているようだと伸は思い目を瞠る。それから慌てて、自分の想いを告げた。
「あの、絵、とても素敵でした。こんな言葉でしか言い表せないのが残念ですが。」
伸の言葉に、千早が端麗な笑みを浮かべる。しかし、その鳶色の瞳には一瞬、鋭く相手を探るような苛烈な光が浮かんだ。
「それはありがとうございます。何かお気に召したものはありましたか?」
「どれも引き込まれる絵で、本当に神様がいらっしゃるようだと思いました。あ、でも一つ気になる絵が……」
一瞬、伸は言葉を続けるのを躊躇ったが、千早の視線に促されるように続けた。
「一番奥の、『双子エビス』という絵が、その、なんだか不思議な感じがして。エビス神が双子っていう話は聞いたことがなかったものですから。でも、僕はこう、無条件に納得してしまって。」
言いながら、伸は千早の背中の向こうに展示されている絵を見た。黒髪を角髪(みずら)に結い上げた男児と女児が白い衣服を纏い、向かい合っている。男児は微笑んでいるように見えるが、女児は無表情だ。それを目にした瞬間、伸の脳裏にはあの唐紅の衣が過ったのだ。
「そうですね。私もエビス神が双子だとは知りませんでした。」
意外な言葉に伸と遼は返す言葉もなく、ぽかんと目の前の秀麗な日本画家を見た。
「文書でいうところの、自動書記とでもいうのでしょうか。突然、私に何かが降りてきて絵を描かせてくださるんです。描いている間は私に意識はありません。描き終えてはじめて、私は自分が何を描いたか知るのです。こういう話をすると気持ち良く思われない方も多いですから、あまり口外しないので、いろいろな噂もたつのかと思いますが。」
その言葉に、遼がバツが悪そうに肩を竦めた。
「それに、私の生家は少々訳ありでしてね。諏訪の方なのですが。そういうわけで世話係の者がいろいろ五月蝿いんですよ。たまたま今日は来ていませんが、そのうちお目にかかる日もあるかと思います。」
そこまで言ってから、千早は人智を越えた透明で触れ難い表情を浮かべた。得体の知れない闇を抱えた美貌とでもいうべきか。自然の理を破り、永遠の時を手にした月下美人のような、禁忌を背負う者のみが体現しえる表情だった。
伸は千早から目が離せず、まるでその鳶色の瞳に射られたように身動きがとれない。それでも、ようやく小さく震える声を紡いだ。
「どうして、僕たちにそんな大切なことを話してくださるんですか?」
「そうですね。あなたを見ていると話したくなるんですよ。不思議ですね。」
おっとりと言って、千早は左手で口元を隠す。また、くつくつと楽しげに笑っているようだった。
伸が緊張のあまり乾いた喉を潤そうと茶の入った湯呑みを手にしたところに、白いものが目立つ年嵩の男性がやってきて千早に軽く一礼をした。この画廊のオーナーだった。
「千早さん、そろそろ……。」
オーナーは言いよどんで、伸と遼の二人を見る。何か言いたげだが、千早の前では言い出せない、という様子だった。
「坂田さん、すみません。もう帰らせていただきます。」
「いえ、千早さんのお客さんでしたら構わないですよ。」
「そんな、場所を提供していただいているだけでも有り難いのに、申し訳ありませんから。」
千早の言葉を了解したようにオーナーは再度、千早に一礼をすると踵を返して事務所の方に戻って行った。
「すみませんね、楽しいお話をさせて頂いていたのに、画廊が閉まる時間になってしまいました。八時までなんですよ。」
言われて遼が腕時計を見る。八時を半時も過ぎていた。
遼は慌てて立ち上がった。画廊やギャラリーというのは基本的に個人経営だ。オーナーの意志一つで開ける時間を長くしたり短くしたりすることができる。作家と客に気を遣い、開けておく時間を延長するのが暗黙の了解で、だからこそ、作家は画廊に迷惑をかけないよう時間に注意しなければならないということを父から教わった。
「伸、帰ろうぜ。」
頷いて伸も立ち上がる。二人に合わせるように千早も立ち上がった。
「今日はどうもありがとうございました。絵を拝見できて本当に嬉しかったです。」
「こちらこそありがとうございました。入り口までお送りしますよ。」
「そんな……。」
伸が驚いたように胸の前で両手を振る。その仕種の意味に気付いて遼が耳元でそっと言った。
「こういう時は、作家が見送るのが流儀なんだよ。」
そうなの? と伸は遼に目で尋ねた。遼は力強く頷く。
千早に先導され画廊の入り口についた。ありがとうございましたと二人は千早に深く礼をして外に出た。数歩足をすすめ、伸は異変に気付いて立ち止まる。
「どうした? 伸。」
「なんだか今、変な感じがしたんだ。」
言いながら、伸は辺りを見回す。来た時はまだ明るかった街並も今はとっぷりと日が暮れて、夜の闇の中、色とりどりの人工の電飾とそれを映し込んだ硝子が街中に光り、真夜中の遊園地のように煌めいていた。
「誰も人がいない。」
「ここは裏通りだからじゃないのか?」
「そうじゃない、人の気配が全くしないんだ。」
焦りを隠せない伸の声に、遼もまた緊張して周囲を見遣る。
「何か起きたのか?」
「分からない。分からないけど、ここは何だか様子が変だ。」
「どうかされましたか?」
立ち止まった二人の背後で声がした。千早が、静かな佇まいでそこにいた。
二人は多少驚いたが、頭の中の優先事項は彼ではなく周囲の異変に向けられていたため、あまり気にとめず言葉を滑らせる。
「どうも、周囲の様子がおかしいと思って。」
伸の言葉に、千早がゆっくりとした口調で答える。
「そうですね。私も……何だかいつもの街並と違う気がします。迷路に迷い込んだ感じとでもいうのでしょうか。」
二人は息を詰めて千早を見る。
おっとりと笑みを見せた若い画家の白い面と銀鼠の髪が、夜の闇の中、夢の残像のように浮かび上がった。
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