『過度の疲労とストレスです。目を覚ましても具合が悪いというのであれば総合病院で検査をしてもらって下さい。』
ナスティの口添えで往診してもらった町医者はそう言って、伸の細い腕に注射を打った。
それから、最低でも一週間は静養してくださいと念を押してからゲストハウスを去った。
寝室には重い沈黙だけが残った。
四人の視線の先では、伸が規則正しい寝息をたてている。
カーテンを通して射し込んでくるやわらかな陽光の中で眠りに落ちている伸は、まるで童話の主人公のように現実味のない存在に見えた。
さらさらと音のない静かな時間だけが過ぎてゆく。
静けさの中、話の糸口を作ったのは遼だった。部屋の一番奥で壁にもたれ、顔を伏せている仲間に声をかける。
「当麻。何があったかお前から説明してくれないか。きっと伸は、俺達に心配をかけたくなくて今朝は何も言わなかったんだ。でも、こんな状態を見たら知らないままでいられる訳がないじゃないか。多分、伸は、起きても何も言わない。そういう性格だ。だから、お前から話して欲しい。」
征士と秀もその言葉に同意したかの様に、真っ直ぐに当麻を見た。
三人の視線に晒された当麻は、その声が届いていないかのように腕を組んだまま動かない。
「おい当麻。今の状況じゃ、お前の知っていることしか頼りにならないんだぜ。それとも、知られちゃいけない伸とお前だけの秘密でもあるのか。」
秀の言葉に、当麻がゆっくりと顔をあげる。先程リビングで見せた余る程の感情の影は消え失せ、心をどこかに置き忘れたかのような虚ろな瞳だけが三人を見た。
「もし、事実を知っても、伸には黙っておいてくれるか? 目を覚ました伸を責めないでくれるか?」
聞く者にもはっきりと分かる、後悔の滲む声だった。
三人は互いに顔を見合わせて、小さく頷いた。
「分かった。約束する。」
遼の潔く簡潔な言葉に当麻は僅かに安堵して、それから三人を見据えて話を始めた。
昨日、伸を助ける為に家を出たところで少年の姿をしたクロと出会った事、彼に連れられ七井橋を渡った所で伸を見付けた事、そこで伸が何をしたかをクロが教えてくれた通りに、つまり伸が一人で雪の化を浄化したことについて話をなぞり、その為に力尽きて倒れていたその伸を連れ帰った事。
けれども、その先を当麻は言わなかった、いや、言えなかった。
過度のストレスの原因はそちらの方にあると思ったからだ。伸を追い詰めてしまったのは、そして異形の姿を顕現させてしまったのは自分のせいだと激しく自責していたからだ。
「伸らしいな。」
当麻の話を聞き終えて、遼が温かい眼差しをベッドの上の伸に向ける。
「全く。同じ抱え込むにしても遼みたく爆発してくれりゃ俺達も安心できるのによ。表に出さない分、タチが悪いぜ。」
事実を把握して少し安心した秀が、聞こえない相手に向かってやさしい軽口を叩く。
ただ征士だけが、何か腑に落ちないとでも言いたげに当麻を一瞥しただけだった。
「伸が目を覚ました時、一人じゃ心細いだろうから交代で傍に誰かついていた方がいいと思うんだけどどうかな。」
遼の提案に、当麻を除く二人はそうだなと頷く。
「じゃあ、俺が見てるよ。」
「いや、俺が付いてる。……そうさせてくれないか。」
遼の言葉を懇願するかのような当麻の声が遮った。
「頼む。」
「……分かった。でも、今度は当麻が無理するなよ。」
「ああ。」
短いが、少し前よりも随分と力強い光を取り戻した当麻の瞳に遼は安心し、じゃあ任せるよと一言言い残して、秀と征士と一緒に寝室を出た。
伸が静かな眠りについているベッドの隣に当麻は椅子を持って来て座った。
最初の数時間はもう起きてくるんじゃないかという期待を胸に何度も伸の寝顔を覗き込んでは、それが自分勝手な願望が見せる儚い夢に過ぎないと思い知らされ頭を深く垂れるという動作を繰り返していた。
深く溜め息をつき、椅子に座り直す。
長期戦を覚悟した当麻は、まず、伸が起きてくる前に自分の中で処理しなければならない問題を抱えていることに気付いた。
異形に変貌した伸。
自分の行為がきっかけだったのかその他の要因が有ったのかは分からない。雪女の件や田無神社の件など様々な要因が今の彼の周りを取り囲んでいる。
けれども間違いなく、圧倒的な力を持つ人ではない何かに目の前で変わったのは事実だ。
それは、最初から伸の中にいたものなのか、それとも十年前の戦いの後に何かの機会に伸がその身に宿したものなのか。そして、伸自身は知っているのか。
推測だけならいくらでも出来る。しかし、結論に辿り着くには決定的な証拠があまりにも少な過ぎた。
『汝は誰そ。』
頭に直接響いてくる言葉を思い出し、当麻は小さく身震いする。
意志すらも自由にできない程の威圧感。その場の存在すべてを消し去る事さえできそうな壮絶な力。
当麻の脳裏を昏い想像が襲う。
……もし、自分が伸にいつも感じて来た、未だ解明されない深海の神秘への畏怖感がこの異形のせいなのだとしたら。
違う、と自分に言いきかせ、当麻は小さく首を振った。
あの、透明で犯し難い神々しさすら感じさせる伸の裡にある神秘とあの異形には決定的な違いがある。
それは、人を受け入れるか否か、だ。
伸はいつもやわらかく他人を受け入れて来た。負の感情も抱える痛みも人の死も、そして化け物の念すらその身に受け入れ溶かしてしまう。海があらゆる毒や汚物を受け入れその力で浄化してしまうように。
けれども伸は、海ではない。人間だ。限界がある。その上、そういう自分の性質に無自覚で無抵抗だ。
そう、無抵抗。
そこまで思索を巡らせ、当麻ははっと気付く。
自分の欲情に身を任せて口付けた時も、やはり伸は無抵抗だった。
はあ、と思いっきり息を吐いて項垂れる。
大切だと自覚したのに、その本人の体調が良くない事も分かっていたのに、一番、負担になることをしてしまった。
思い返せば、あの時、皆の前で伸を冷静に説得して大人しく寝ている様に指示すれば、こんな事態にならなかったのだ。
けれども不思議と、謝る気持ちは起こらない。謝ればあの口付けが嘘になってしまうようで。
「伸に……なんて言えばいいんだ?」
自問するように当麻は呟く。
伸に抱く複雑で不可解で、その想いを前に身動きできないこの感情を説明する単語が思いつかない。
夕方七時。
半ば呆れられる様に遼から「いい加減に交代しろよ」と追い出され、当麻は椅子を譲りリビングへと向かった。
秀は遅めの買い出しに出かけており、リビングでは征士が一人、新聞を読んでいた。
遼からの言伝通り、キッチンに用意されたあった軽食を食べて珈琲を手にリビングに帰ってくる。
「征士、テレビつけていいか。」
「ああ。」
一応、パソコンは持って来ていたが仕事をする気が起きず、手持ち無沙汰のあまり滅多に見ないテレビをつけた。どこかで見た事のあるような芸人達が張りぼての舞台で賑やかに喋っている。遠い、虚飾の世界。
テレビ画面を見てはいたが、当麻の意識はそこになかった。
伸は本当に起きてくるのか、そして起きて来たら、自分はどう彼と接すればよいのか、その現実がいつもなら物事を俯瞰できるはずの視野を狭く矮小なものにしていた。
半時も過ぎた頃だろうか。
征士がばさりと新聞を閉じてテーブルの上に置いた。
「当麻、見ないテレビなら消して欲しいのだが。」
はっと我に返り、当麻は声の主を見た。征士の紫水晶の瞳が厳しいまでに輝いて自分を見つめている。
「あ、ああ。すまない。」
リモコンを取り上げ、慌ててオフにする。
「当麻、何をそんなに怯えている。伸の事がそんなに不安か?」
「……怯えてなんかないさ。伸の事を心配してるのは皆も同じだろう。」
「私にはどうも、それ以外の事でお前が何かを不安がっているように見えるのだが。」
征士のあまりにも真実を得た言葉に、当麻は瞠目し息を飲む。同時に、彼の性格を思い出す。真実を照らす、光輪の戦士。
「お前に何が分かる。」
「私は当事者ではないからな。分かると言う訳ではない。ただ、お前の顔にはっきりと『何かあった』と書かれてあるのを見ると気にしない訳にもいかないだろう。」
飄然と言ってのける征士に、当麻は一瞬、度し難い怒りを覚えて立ち上がろうとした。しかし、ある事に気付いてその怒気は流れる様に消えた。
征士はこういう性格だが、物事に対して公平で自分とは違う意味で客観的に事実を把握することができる。余計な偏見や常識よりも、事象の本質を見極める力を持っている。ならば感情に流されやすい秀や遼よりも、話が分かるのではないか。
そんないくつかの思考を経て、当麻は一つの質問を投げかけた。
「なあ、征士。もし、可能性の話としてだ。お前が同性からいきなりキスされたらどう思う?」
二人の間を奇妙な沈黙が包む。
征士が何度か驚いた様に瞬きをして、それからゆっくりと言った。
「あくまでも私の話だが。余程、心を許した者でない限り、その相手は光輪剣の錆になるだろうな。」
「……やっぱ、お前に聞いた俺が間違いだった。」
長い溜め息をついて、当麻はソファに深く座り直す。
その反対側で、征士が他人から見れば冷ややかにも見える意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「あの後、思い余って伸に口付けでもしたか。」
「なっ……。」
いきなり図星を指された当麻は無意識に立ち上がり、征士を見下ろす体勢を取った。あくまでも、物理的な高さの話であるが。しかし、真実であるが故に、真っ向から否定もできないし、そういう物言いをする征士を責めることもできない。
「なるほど。それで我らが智将殿が、らしくもなく取り乱している理由も分かるというものだ。伸が倒れた理由の一因が自分にあると負い目を感じているのだな。」
全くの正論に反論の余地はなく、当麻は立ち上がったまま両手を強く握りしめて征士を睨みつける。
そんな当麻を征士は横目で牽制するように一瞥し言葉を続けた。
「それなら心配あるまい。お前が伸に負い目を感じる事はない。」
「どういうことだ。」
意外な言葉に当麻は眉を顰める。
「伸ならそういう事は大丈夫だと言う事だ。」
「だから、そうやって伸を過信しすぎて、あいつに負担をかけてきたんだろうが!」
当麻の癇癪にも似た声に、征士が意外な事を聞いたとでも言うような、不可解な表情を浮かべた。
「こういう事を聞くのは気がひけるが……。当麻、お前、『あれ』に気付いてなかったのか?」
「……『あれ』? 何だ、それ。」
「じゃあ、伸から……まだ聞いてないのか。」
今度は当麻が不審な表情を浮かべる番だった。話が噛み合っていない。
「征士、何のことを言ってるんだ?」
全く純粋な当麻の質問に今度は征士が悩み腕を組む。小さく嘆息してから半ば諦めるような声で言った。
「私にだって人の心の機微くらい分かる。だからそういう大事な事は本人から聞いてくれ。」
そう答えると、征士はそれ以上の会話を拒否するかのように新聞を取り上げた。
そして、またやってくる居心地の悪い沈黙。
いたたまれなくなった当麻はコーヒーを飲み干すと、「外に出てくる」とだけ言い残してリビングを去った。
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