青梅哀歌 (4)

 青梅哀歌(4)


 翌朝、当麻が目覚めると伸は腕の中にいなかった。

 四月の朝の清々しい陽光がリビングの大きな窓から差し込み、テーブルの上の硝子の花瓶を金緑石のように煌めかせていた。吹き込んでくるやさしい風は緑の香りを含み、芽吹き始めた命の息吹を運んでくる。それら全てが、昨日までの悪夢のような出来事を消し去ろうとしていた。
「やっぱ、朝食は伸だよな。」
 綺麗な焦げ目のフレンチトーストを片手に、秀がしみじみと言う。
「何言ってんだよ。秀だって作れるだろ?」
「俺、食パンはトースターで焼く以外、思いつかないからなぁ。」
 二人の軽い遣り取りに、遼と征士は顔を見合わせ小さく笑う。
 朝、いつも一番早く起きる征士がリビングに顔を出した時、伸はそこでお茶を飲んでいた。そしていつものように、人の心にすっと染み込むやさしい笑顔で「おはよう」と言って征士を驚かせたのだ。
 後から起きて来た遼や秀にも同じ様に「おはよう」と言って、事の仔細はあまり語らなかった。ただ一言、「当麻が助けに来てくれたから大丈夫だったよ」と言い残して、キッチンに向かったのだ。
 詳しい事を言わないのはそれなりの理由があるからだろう、と三人は判断してそれ以上は尋ねなかった。ただ無事だったことに安堵した。それが全てだったからだ。
 四人がたわいもない話題で、いつもよりほんの少し豪華な朝食を囲んで会話を弾ませていると、何かが階段を駆け下りてくる音がして、次いで当麻がリビングに駆け込んで来た。
「伸!」
「おはよう。君にしては随分早いじゃないか。」
 その返答を聞いた時の当麻の表情は、驚いているというには怒りの成分もかなり含まれていたし、かといって怒っている表情かといえば、どこか泣きそうな顔でもあった。様々な感情が交錯して取り乱していることだけは見ている者にはっきりと分かった。
「何……やってるんだ?」
「ああ、ごめん。ちゃんと君の分も今から作るから、座って待ってて。」
「そうじゃない、お前、昨日の夜……」
 あんなに凍えそうになって命も危なかったんだぞ、と続けようとした当麻を、伸は軽く視線だけで牽制する。
 そして、彼の分のフレンチトーストを作るためにキッチンへ向かおうとしたが、当麻はその細い腕を力をこめて掴んだ。
「何?」
「話がある。」
「……昨日、君に助けてもらった事はちゃんと皆に話してるよ。」
「そういう事じゃない。」
 苛立たしげな声と、いつになく真剣な面差しに伸は僅かな抵抗をやめ、当麻に引きずられる様に寝室へと向かった。

 寝室に入った瞬間、当麻はもう怒りを隠そうともせず、全身を震わせて伸を怒鳴りつけた。
「ほんの数時間前まで死にそうだったヤツが、何やってるんだ!!」
 見た事のないその形相の激しさに伸は面食らって、思わず体ごと当麻から逃げようと後ずさった。しかし、壁に阻まれそれ以上距離を置く事はできない。
「君が助けてくれたことには感謝してる。でも、皆にあまり心配かける訳にもいかないだろう?」
「そういう問題じゃない!」
 憔悴しきった声で当麻が声を荒げて、右手を壁に叩き付ける。
「自分で何をやったか、自覚はあるのか?」
 それは伸への非難というよりも、当麻自身の心の奥深くから湧いてくる恐怖にも似た感情から出た言葉だった。
「どうしてそうやって、いつも限界の淵まで一人で抱え込むんだ? もっと早く俺や仲間を呼んでくれないんだ? 命をかけてまで、お前があれを浄化しなければ収拾がつかなかったのか?」
 伸がいつものように笑って朝食を作っていた事を素直に喜べない感情と、重くのしかかっていた不安から解放された安堵感と、名状しがたいもどかしさがない交ぜになった感情が、当麻に矢継ぎ早に喋らせる。そうしていないとまた不安に襲われるとでもいうように。
 伸はそんな当麻の様子を眼前に見て、僅かに顔を引き俯いて呟く様に言った。
「……迷惑をかけるつもりはなかったんだ。ただ、あの時は他に方法が見つからなかったんだよ。」
 静かな言葉。
 しかし、その伸の落ち着き払った態度にさえも当麻は理由のない苛立ちを覚えて声を荒げる。
「俺や皆がどれだけ心配したと思ってるんだ! 俺はあの時、行くなと言ったはずだぞ?」
 その言葉を聞いた瞬間、伸はまるで怯えきった仔猫のようにぴくりと肩を震わせた。小さく項垂れてようやく言葉を結ぶ。
「……ごめん。」
「そんな言葉が聞きたいんじゃない! 俺が言いたいのは……。」
 そこまで荒い言葉を続けて、当麻は言い止した。
 伸の纏う雰囲気が透明な犯し難いものに変わったからだ。
 息を飲み、改めて間近にある伸の顔を覗き込む。
 閉じられた睫は四月の日射しを浴びて濃い影を作っており、その細面の顔はいつもの健康的な血色を失い丁寧な細工の人形のように壊れやすい美しさを湛えていた。引き結ばれた唇はほんのりとさくら色で、やわらかな琥珀色の髪は陽光を反射してその一筋一筋に光を宿しているようだった。
 初めてこれほど間近で見る伸の、あどけなくもありどこか神さびたその面差しに、当麻は言葉を失う。
 同時に、いつかの夜に見た、その艶やかで滑らかな白い肢体が思考を占領する。
 当麻の身体を先程までの怒りと苛立ちに滾っていた熱とは別の熱さが支配し始める。全身の細胞が目の前の佳人を求めている。
 そして最後に、抗えない欲望が当麻を突き動かす。名状しがたいと苦しんできた感情に名前をつけることも忘れて。
「伸……?」
 その声に反応はなかった。
 当麻はそっと左手で伸の顎に手を伸べて自分の方に向かせる。伸は僅かに目を見開いて感情の伺えない瞳で当麻を見た。その瞳に一瞬、許しを乞うような色を浮かべたがそれはすぐに閉じられ、あとは当麻の求める動きに応じただけだった。
 瞼を閉じた伸の唇は花が咲く寸前のように薄く綻んでいる。
 そのさくら色に吸い寄せられるように、当麻は自分のそれを軽く重ねた。
 伸は小さくみじろぎしただけで、何の意志も示さずに当麻の行動に全てを委ねている。
 蜜をついばむように軽く何度も唇を重ねると、伸の睫が震え、時折、聞いた事のない甘い吐息が漏れた。
 体を支配する雄としての熱い情欲と、佳人への純粋な想いが当麻を真っ二つに引き裂く。
 離れ離れの体と心の二つの間で、当麻は先に進む事が出来ずにそっと顔を離し再び伸の顔を間近に見た。
 神への殉教者のように静謐で、捕まえていなければすぐにでも消えそうな程、儚げだった。
 当麻は思う。
 こんなに近くにいるのに、伸はいつでもすぐにでも消えてしまいそうだ。
 俺を置いて。
 どうしようもない自分が悔しくて、当麻は壁に付いていた右手で伸の腰を抱き寄せ、左手で琥珀色の頭をかき抱き、再びそのやわらかな唇に口付ける。
 腕の中の伸は、一瞬、緊張したように体を強ばらせただけで、やはり当麻の全てを受け入れる様に力を抜いて抗うことはしなかった。
 ゆっくりと舌で唇を割り、伸の中に侵入する。
 確かめる様に湛然に歯列に舌を這わせると、伸の華奢な背中が小さく反らされて小刻みに震えが走る。喉が小さく鳴る音が聞こえた。それを無視して今度は味わう様に濡れた口腔を犯し、舌を絡める。一旦は逃げようとしたそれを、逃がしはしなかった。
 深い口付けに伸は全身が溶けていくような感覚に耐えきれず、足下も覚束なくなって空いている両手を当麻の背中に回し、その身を預ける。
 どれくらいそうしていただろうか。
 背中に回された伸の腕が、ほんのささやかな抵抗を示したのに気付き、当麻は我に返って伸の身体から我が身を引く。
 視線の先で、伸は空気を求める様に浅い息を繰り返した後、うっすらと潤んだ瞳のまま、露を光らせて咲き崩れようとする花のようなあでやかな笑顔を浮かべて言った。
「九年ぶりだね。」
「え?」
 伸の言葉を当麻が理解する前に、事態は急変した。 
 腕の中で、伸はまるで本物の人形のようにかくりと力を失い、そのまま全体重を当麻にかけてきたのだ。
 そのまま床に倒れ込みそうになる伸を、当麻は慌ててその身で守り、受け止める。
「おい、伸、どうしたんだ!」
 返事はなかった。
 まるで、生きた死体を抱いているようだと思い、そんな己の夢想に当麻は恐怖に覚えその反応を待つ。
「伸、返事をしろ!」
 やはり返事はなかった。
 しかし、今度は反応があった。
 当麻に抱きとめられていた伸の身体は徐々に力を取り戻し始め、呆然としている当麻の体からふわりと離れると壁際に危なげなく立った。
 伏せられていた面が、ゆうるりと上げられる。
「伸!?」
 そこに当麻が見た者は、確かに伸の形をしてはいたが明らかに伸ではなかった。
 全身から立ち上る気配は、善悪問わず全てを圧するような人智を越えた圧倒的な存在感があり、それは黄金色の妖しい炎のように揺らめいて伸を包んでいた。
 いつもは凪いだ海の様に穏やかな瞳はいまや跡形もなく、そこにあるのは瞬くことを知らない炯々とした黄金の光を宿した目で、瞳孔が線のように黒く金を裂いている。
 異形だった。
 そして、それは口からではなく、地響きにも似た声で当麻の頭に直接語りかけてきた。
『汝は誰そ。我が器を侵す者は誰そ。』
 黄金の双眸に射すくめられ、当麻は身動きがとれない。絶対的な力の前に、意志すら押さえ込まれる。
『これは我が器。何者も侵すことはならぬ。』
 その言葉を最後に、瞳は閉じられ、先程まで伸から揺らぎ出ていた全てを喰らい尽くすかのような威圧感は嘘のように消えた。
 ばたり、と音がして当麻は呼吸を許される。
 足下には、壊れた人形のように伸が倒れ伏せていた。

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