青梅哀歌 (3)

 遼が寝室を出てから、当麻は冷えたコーヒーを飲みながら考えていた。
『伸のこと、どう思ってんの?』
 率直な遼の問い。
 それを当麻に面と向かって言えるのは、ある意味において、彼のみに許された特権だった。
 伸の事をどう思っているか。
 当麻はその問いに真っ向から対峙したことはなかった。意識的に避けて来た。
 けれど失う予感が当たってしまった今、一つだけはっきりと分かった事が有る。
 伸を失くしてしまう事は自分自身をも失くしてしまう事だと。
 遼は「大切な人」と言ったが、やはりそれだけでは説明のつかない存在であると。
 そういった一連の伸への想いと、想うたびに味わう鈍い痛みを両方併せ持つ言葉を自分はまだ知らない、と。
 遼も秀も征士も、こんな取り乱している自分を責めないという。人間らしいという。
 何をすべきか、どうあるべきか、軍師として求められない今はもうそんなことは構わない。
 その中でただ一つ、自分がどうしたいかだけは分かる。
 ……一刻も早く伸を助けたい。
 思考の螺旋階段を随分と長い間、行きつ戻りつして一つの結論に至る。
 何ができるかは分からない。それでも青梅に行こう、と。
 ベッドサイドの時計を見ると、午後八時を過ぎた頃だった。

 家を出てから、当麻は奇妙な感覚を覚えていた。
 何かの視線を感じるのだ。
 人の気配ではない。かといって、妖しい気配でもない。
 街灯の下で足を止めて周囲を伺ったが、猫の仔一匹いる様子もない。
 気のせいかと思い、足を進める。
 駅へと向かう私道の、ひときわ暗い曲がり角で当麻は足を止めた。
「誰だ? 誰かいるのか?」
 駅への近道ゆえに街灯のない小道に、当麻にでもはっきりと分かる何かの気配がするのだ。
 全身に緊張を漲らせ、数歩先の暗がりに目を凝らし、モノの姿を捉えようとする。
 しばらくすると、暗闇の中にゆっくりと、それは淡い蛍火が集まる様に形を取り始める。当麻が息を殺して見守るその先で、やわらかな光の集まりは音もなく少年の姿に化生した。
 少年を形成した蛍火は、ふわりと闇に溶けた。ただ、その姿だけがほんの僅かに輝きを帯びている。
 当麻の前に姿を現したのは、長袖に半ズボンの姿の十歳くらいの線の細い少年だった。
 暗がりでもそれと分かる艶のある短い黒髪と両の耳に煌めく紅玉色のピアス。
 しかし、当麻の目を奪ったのは、それだけではなかった。
 勝ち気な印象を見る者に与えるつり気味の目の瞳孔は、太陽の下で見る猫の目のように虹彩の部分を縦に過っていたのだ。明らかに、人のものではなかった。
「何だ、お前……。」
 立ち止まった当麻が、声を絞り出す。当麻自身も信じられないことだったが、ひょろりとした少年からは姿に似合わない不思議な威圧感が醸し出されていた。
「相変わらず無礼な奴だ。」
 僅かに幼さを感じさせるが、落ち着き払った悠然とした声音だった。 
「毎日、伸と一緒に寝起きしているだろう。それでもお前は気付かないのか?」
「……まさか、クロだとでも……。」
 少年に小さく睨まれ、当麻は無意識に半歩後ろに足を引いていた。
「クロは狐だぞ? 狐が子供に化けたとでもいうのか?」
「どこまでも失礼な奴だな。化けたんじゃない。必要だからこの姿を取っているだけだ。」
 少年は当麻を小馬鹿にしたように言うと続けた。
「伸がお前に助けを求めている。だから来た。」
「……俺はまだ、お前がクロだと認めた訳じゃないぞ。」
 突然の出来事に、当麻は警戒心を丸出しにして言い放つ。相手が子供の姿だからといって異形のものには変わりない。今の状況下では、夜道を一人で歩くという無防備な自分の方が何者かに狙われる可能性だってあるのだ。
「全く、なんで伸もよりによってこんな奴を選んだんだか……。」
 少年は小さく呟くと、右手をすっと前方に差し出して手のひらを上に向ける。その手のひらの上に淡い碧の光が夜の闇の中から密やかに現れると、球状の形を成して少年の手に収まった。
 透き通った繊細な硝子細工のような珠は、水色の輝きをうっすらと放っている。
「それは……伸の鎧玉。」
 呆然として当麻はそれに見入った。そして迷わずポケットから自分の鎧玉を取り出す。驚くべき事に、なのか、それとも当然の帰結なのか、共鳴して蒼い輝きを放っていた。
 そうして漸く当麻は事態を理解する。
 この少年は間違いなくクロである、と。
「分かった。だがどうしてお前がそれを持っているんだ?」
「詳しい事情は向こうで話す。今、伸は顕界と幽冥界の狭間の異界に捕われて自力で出てくることができない。だから、これを俺に渡して、伸の代理としてお前に助けを求める様に言われた。これで納得したか。」
 当麻はしばらく俯いてその言葉の意味する所を考えていたが、心を決めた様に少年の瞳を見た。異形の瞳だが、そこに悪意は感じられない。
「それでは、俺をその『向こう』に連れて行ってくれるんだな。」
「ああ、着いて来い。」
 短く答えた少年は、ほんの僅か当麻を見た後、くるりと踵を返し暗い小道を歩き始めた。当麻もそれに着いて闇夜の中に消えて行った。

 クロが当麻を案内したのは意外な場所だった。
「ここは七井橋じゃないか。どうやって伸のいる異界に行くんだ?」
 井の頭池に架かる橋のたもとで、当麻は訝しげにクロに尋ねた。
 そんな当麻を、見下すような口調でクロは説明する。
「橋とは古来より異界への出入り口だと知らないのか? 伸はお前の事を切れ者だと言っていたがどうやら勘違いのようだな。」
「な……。」
 冷笑された事に怒りを覚えたが、返す言葉も見つからず当麻はそれを認めるしかなかった。
 そんな当麻の様子を気にする風でもなく、クロは続ける。
「橋を渡り終える頃には、伸の所に着いているだろう。ただし、橋の上では絶対に振り向くな。」
「分かった。」
 その言葉を聞くと同時にクロは橋を渡り始めた。当麻も後に続く。

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