青梅哀歌 (3)

 青梅哀歌(3)


 翌日の昼過ぎに雪は止んだ。
 しかし、伸は戻ってこなかった。
 朝食を食べている時にナスティから電話があり、まだ見つからないという件が告げられただけだった。

「大丈夫、だよな。」
 ぽつり、と遼が言う。
 午後三時、秀の入れたお茶を飲みながら遼達はリビングで伸が帰ってくるのを待っていた。
 当麻は昨日、帰ってきてから、寝室に籠って一度も三人の前に顔を出していない。寝室には鍵が掛けられて仲間の侵入を拒んでいた。
 一昨日までの賑やかなリビングがまるで夢のように、苦い静けさに包まれている。
「伸のことだ、今頃どこかの家の台所で、助けてもらったお礼にとか言っておやつでも作ってるんじゃねえのか。」
 自分に言い聞かせる様に秀が言う。しかし、楽観的な言葉とは裏腹に、その表情は彼にしては珍しく酷く青ざめていた。
 二人の話を聞きながら、征士は黙ったまま腕を組んで考え事をしている。
「征士も何とか言えよ。」
 秀の苛立ちを含んだ声に、あまり気乗りしない風に征士は答える。
「これは仮に、の話なんだが。もし、伸が雪女とやらに着いて行って異界に迷い込んだのだとしたら、どうして一人で帰って来られないのかと気になってな。」
「意味わかんねーよ。」
「輝煌帝の事件の時に伸が一人でアフリカに来た事があっただろう。恐らく、鎧玉の力を使えば自力で異界からこちらに戻ってこられるはずなんだが。」
 帰ってこないということは、伸に何かあったのではないか、と征士は言外に示唆する。その意味に気付いて、秀が征士を睨んだ。
「じゃあ、伸が帰ってこられないような状況にあるってことかよ!」
「あくまでも可能性、の話だ。そうだとは言っておらんだろう。」
 遼も征士も秀も、かけがえのない大切なものを無くしてしまうことの恐ろしさを少年時代に体験している。
 祈っても怒鳴っても嘆いても、自分にとって一番大切なものがむなしく手のひらから零れ落ちてしまう恐怖を、あがいても逆らう事のできない宿業の中にあって慟哭していた自分達の姿を知っている。
 少年の頃はそれを真っ直ぐに表現することができた。だからこそ、皆、正面からぶつかりもしたし、笑い合うこともできた。
 しかし今は違う。
 自らの裡にある不安を互いに共有し、涙を流すには年を重ね過ぎていた。
「当麻はもう……気付いているんだろうな。」
「特に伸のことだ。吹雪の中に消えた時点から気付いていたのかもしれない。」
 征士の言葉に、遼が唇を噛み締めて目を伏せる。
 大切な者を失うことの痛みを、一番身を以て理解しているのは仁将である遼だった。
「俺、もう一回、当麻のところ行ってくるよ。あいつ、昨日から何も食べてないだろう。体が保たない。」
 そう言って遼は立ち上がり、キッチンへ向かった。

 灯りを消して真っ暗な寝室で、当麻はベッドに腰掛けたまま虚空を眺めていた。
 無音の時を無明の中で過ごしていた。
 久しぶりにアンダーギアを纏い戦ったせいか、体が随分と疲弊して重い。
 回復の為に睡眠を取ろうとベッドに横たわっても、眠くならないばかりか、あの光景が幾度も幾度も繰り返され、その度に体中を無茶苦茶に引き裂かれるような激痛が走り、呼吸すらままならなくなるのだ。
『当麻、遼の事は任せるから……』
 そう言って彼は紅い吹雪に攫われて消えた。
 再会してから何度も襲われた「失う予感」。
 それを感じていたにも関わらず、何故、あの時、手を掴んで引き止めなかったのか。殴ってすがりついてでも、伸を制止しなかったのか。
「くそっ。」
 右手に作った握り拳をベッドに叩き付ける。
 何が智将だ。何が軍師だ。
 望まない未来を予感しながら、それをただ見過ごすことしかできないのは無能以外の何者でもない。
 それこそがこの俺だ。
 智の鎧を継ぐ俺が、一番大切な時に大切な事を見誤るとは滑稽じゃないか。
 そうした己への罵倒を繰り返してからもう何時間も過ぎていた。
 自らを罵るのにさえも疲れ、ぐったりと横になる。
 掛け布団からはふわりとやさしい香りがした。いつも腕の中に抱いて安らぎを得られる香り。
「……伸。」
 小さく呟いて、当麻は顔を伏せた。
 暗闇の中、必至に堪えていた熱いものが目尻を伝わって布団を濡らす。

「当麻、開けてくれ。」
 聞き慣れた声に、当麻は目を覚ました。気付かないうちに眠り込んでいたようだった。時計を見ると午後四時。いつもなら伸が夕食の支度を始める頃だ。
 当麻はのろのろと起きだして、迷いながらも鍵を開けた。いつまでも寝室に篭城している訳にもいかない。無様な格好を仲間に見せるのは気がひけたが、皆の前に出るきっかけを作って貰えたのは有り難いともいえた。
 寝室の照明を点けて、遼を招き入れる。
 遼はちょっと困ったような照れ笑いをして中に入ると、テーブルにサンドウィッチとコーヒーの入ったマグを乗せたトレイを置いた。
「昨日の夜から何も食ってないだろ。体に悪い。食欲がなくても、一口ぐらいは食べた方がいい。」
「……ああ、すまない。」
 いつもなら素直に感謝の言葉も出ただろうが、今の当麻にはその余裕もなかった。
 サンドウィッチに手を伸ばしかけて、遼がきまり悪そうに立っているのに気付く。
「隣、座れよ。」
 その言葉に遼は安堵の笑みを浮かべて、当麻の隣に腰を下ろした。
 なるべく遼の目を見ない様にして、当麻はサンドウィッチを口に運ぶ。
 すべて食べ終え、当麻がコーヒーに手を伸ばした頃を見計らって、遼が声をかけた。
「当麻ってさ。」
「何だ。」
「伸のこと、どう思ってんの?」
「は?」
 唐突な言葉に、当麻はカップを片手に固まったまま、顔だけで遼の方を向いた。
「いきなり何を言い出すんだ?」
「だってさ、こんなのって当麻らしくないぜ?」
「俺……らしくない?」 
 当麻が自らに問うように反芻する。
「十年前の当麻は、俺達の軍師でいてくれたよな。俺に『落ち着け』『慌てるな』って何度も言ってくれた。でも今の当麻は、自分の感情に流されてる。まるで十年前の俺みたいだ。それは、いなくなったのが伸だからじゃないのか?」
 言われて当麻は、遼の言葉の裏にある事実に気付き、瞠目する。
 そうだ。
 昨日、自分は青梅に着いてからは冷静な軍師であろうとどこかで意識していた。けれども、伸が紅い吹雪の向こうに消えてしまってからは、そんな自分を見失い、目の前の戦いや状況よりもいなくなった伸の事を常に考えていた。大人げなく喧嘩もした。それは、遼の言う通り、全体を見渡す軍師とは言えない。伸を失ったこと、それにより取り乱した事、二重の意味で軍師たりえなかった。
「征士が言ってた。当麻にとって伸は特別なんだって。ここに来てから二週間くらい一緒に過ごしたけど、俺もそう思う。当麻って本当に伸の事、大切にしてるよな。」
 てらいもなく遼が言う。その言葉には当然、皮肉も揶揄も含まれていない。真っ直ぐな気質な彼の、真っ直ぐな感想だ。
 だから当麻は、否定もせず、遼から視線を外し俯くしか無かった。
「そんな当麻は、俺、嫌いじゃないぜ。大切な人が居なくなって心配して落ち込むのは当たり前だろ? そういう所、前より人間らしくなった気がするよ。」
「人間らしく?」
 当麻は再び顔を上げて遼を見る。
 そこには、記憶にある表情よりも随分と大人びた遼の静かな黒い瞳があった。
「いくらIQが高いからって、智の鎧を受け継いでいるからって、感情までコントロールできるなんて、昔ならともかく今はもう皆思ってないぜ。だから、こうやって落ち込んでいる当麻を誰も責めないし、まして伸がいなくなったのが当麻のせいだとも思わない。だから、あまり自分を追い詰めるな。」
 そう言い切ると、遼はベッドの端から立ち上がり、空になった皿の乗ったトレイを取り上げて寝室から退出しようとした。
 当麻はその様子を眺めながら、何も言う事ができない。
 部屋を出る間際、遼は振り返って、小さく漏らした。
「俺もさ、あの時、征士一人が武装してあんなデカブツと戦うことになって、凄い怖かったんだ。自分が無力だって思ったよ。」


続き