異変に最初に気付いたのは、征士だった。
住吉神社を出て五分と経たないうちに、止んでいた雪がしんしんと降り出した。そのひとひらの中に、雪にあらざるものを見付けて征士は立ち止まり、それを掌に受け止めたがすぐに雪のように溶けて消えた。
「どうしたんだい、征士。」
後ろを歩いていた伸が、差し出された掌を覗き込む。そこには何もない。
「様子がおかしい。」
征士はゆっくりと天を仰ぐ。鈍い灰色の雲が垂れ込めており、雪雲からは後から後から純白の雪が舞い落ちてくるはずなのだが。
「雪が……紅い。」
純白の雪にわずかに混じる紅い色に気付いて、伸も頭上を振り仰ぐ。
立ち止まった二人の元に、先を歩いていた宮司達も歩みを戻して状況を確認し、同じく鈍く暗い色の空を見上げた。
その間にも、紅い雪は勢いを得たかのように次々と舞い降り、ついに、純白の雪は紅い雪へと変わった。
周囲の雪景色も、今は暗い赤を散らした禍々しい町並みへと変わり、五人が青梅に到着した時の美しい鄙びた町の面影はすっかり失われていた。
「住吉の境はまだ生きてますね?」
渡井が佐野に、部外者に聞こえない様にそっと尋ねる。
「ええ、青梅地区に斎庭を作る四本の忌竹の傍にはうちの者が待機しております。」
「ではこの怪異は、住吉さんの作った霊域の中で起こっていると判断して良い訳でしょうか。」
「そうとしか……。」
口ごもる佐野に渡井が苦笑する。
「いえ、これで二度目なので確かめたかっただけです。お気になさらないで下さい。急ぎましょう、何かが起こったとみて間違いないありません。」
そう言ってから、渡井は征士の周囲に集まるナスティ達に声をかけた。
「異変の本体が動き始めたようです。先を急ぎましょう。」
旧青梅街道沿いに青梅駅の方へ戻り、市民会館前からなだらかに下ってゆく坂を下りる。坂を下り始めた頃から風が吹き始め、柳淵橋を見上げる多摩川の河原に着く頃には激しい雪の嵐が八人を拒む様に吹き荒れていた。
河原であるはずの場所は昏い赤で染まり、その向こうに流れる幅3メートルほどの川は赤く濁っている。川の向こうには雑木林が広がっていたが、日が射さない為か得体の知れない闇を抱える森になっていた。
その黒い森の中に、いくつもの赤く光るものを見付けたのは遼だった。
「おい、征士、あれ。」
隣の征士に声をかけたのと、いくつもの地を這うような咆哮が鳴り響いたのは同時だった。
白い犬のような、いや、犬よりも逞しい体躯の狼が目を赤く光らせて数十匹の群れを作り、森の中から明らかに遼たちを狙う明確な意図を持って駆け出して来たのだ。
「ナスティ達は元の道を戻るんだ!」
すかさず当麻が叫ぶ。
その意味するところを察したナスティは佐野と渡井を安全な場所まで誘導しようとしたが、渡井が河原の見える場所で「私はここで大丈夫ですから」と言って立ち止まったので、仕方なくナスティと佐野も河原から少し離れた場所で成り行きを見守ることになった。
三人が河原から離れた瞬間、遼達五人は鎧玉を手に念を込める。
アンダーギアを身に纏ったのと、白い狼達が五人を襲撃したのはほぼ同時だった。
「こんのぉ!」
自分に喰らいついて来た狼を、秀が全力で叩き潰す。手応えは十分あり、それは粉々に砕け散ったはずなのだが。
「なにぃ?」
秀は驚いて、狼の群れから一歩離れて叫んだ。
「当麻! こいつら、何なんだ! 生き返りやがるぜ!」
秀が砕いたはずの白い狼は、一度雪に戻った後、音もなく元の姿に戻って秀に攻撃を加えようとしたのだ。
「ああ、こっちもだ。どうやらただの狼ではなさそうだな。」
「何呑気なこと言ってんだよ! 何とかしろよ! 軍師だろうがっ!」
言いながら、秀はまた一匹、襲いかかってくる狼を叩き潰すが、やはりその身を再生して秀に反撃を加えようとする。
攻撃力は弱いが、不死の相手に苦労しているのは秀だけではなかった。少し離れた所から征士の声がする。
「おい当麻、こいつらの弱点くらい分からないのか!」
いつも冷静な征士の声ではなかった。低い声に苛立ちが含まれている。
「こういう場合のセオリーはな、大体、雑魚は操られて、敵の本体は別にいるもんだがな。」
当麻自身も襲いかかってくる狼を一匹一匹潰しながら、必死に状況を読んで対策を考えようとするが、尋常でない相手に良い策が浮かばず、再生する相手をまた潰すという無為な時間だけが過ぎる。
五人が何回、白い獣を潰した時だろうか。
大地を裂くような地響きがして地面が揺れた。常人なら立っても居られない大きな振動に、五人は足に力を入れ辛うじて倒れることを免れた。
今まで、勢い良く五人に喰らいついてた狼の群れがすっと黒い森の中に消える。
「どうしたんだ、一体……。」
一瞬、気を緩めて遼がそう呟いた瞬間。
「みんな、上を見ろ!」
当麻の引き絞ったような声に皆が上空を見上げる。
「白蛇……。」
呆然とした表情で零したのは征士だった。
優に10メートルはあるであろう場所から、白く輝く鱗に覆われた蛇が優雅に鎌首をもたげ、五人を見下ろしていた。その姿は見る者に恐怖よりも壮絶な美しさを印象付ける。血色に輝く双眸は確実に獲物である五人を捉え、まるで楽しむかのように好機を見計らっていた。
「でかいな。」
誰に言うともなしに当麻が呟く。狼の襲撃から解放された残り四人も当麻の元へ集まって来ていた。
「あれが本体か。」
征士の言葉に当麻が白蛇を見上げたまま答える。
「そう考えるのが自然だな。」
ごうと風が強くなり、視界が紅い雪で覆われたその時、世界の全てを圧する気が五人を襲う。
白蛇の血色に燃える双眸を間近に見た五人は、寸秒の差で飛び退り、その攻撃を避けた。
再び離ればなれになった仲間に、当麻が声をかける。
「大丈夫か!」
その返事を待たずに、遼の悲痛な呻き声が上がった。
視界の悪い中、四人は遼を目で探す。すんでのところで白蛇の二度目の攻撃から逃れ、遼は赤黒い雪の上で荒い息をあげて膝をついていた。
征士たちの脳裏に、そして身体に十年間前の緊張感が蘇る。
……遼が狙いか。
「皆、遼のところへ集まるんだ!」
当麻の声を待たず、皆が遼の元へ駆けつけようとしたその時。
伸は耳元に囁くようなかすかな声を聞いて足を止めた。
『……助けて。』
か細い女性の声だった。今にも消えてしまいそうな、弱々しく生気のない声。
一般人がこの場所にいたのか。
思わず唇を噛み締め、伸は取るべき行動に迷う。しかし、決断は早かった。
「当麻、遼の事は任せる。女の人がこのどこかで巻き込まれているようだから僕はそっちを助けてくる!」
「待て、伸! この状況で一人離れるのは危険だ。帰って来い!」
渦巻く紅い吹雪の向こうに、伸の姿がまるで雪に攫われるかのように消えてゆくのを見て、当麻は再び「行くな!」と叫んだが、伸からの返事はなかった。戦いの最中だというのに、当麻はいつもの「失ってしまうような予感」に襲われ、伸が消えて行った方を見たまま立ち尽くす。
「当麻、避けろ!」
伸に気を取られていた当麻に征士が厳しい声をあげる。
反射的に当麻が地を蹴り上げ飛び退くと、白蛇は当麻の体すれすれの所を過って行った。
四人はすぐ、遼を真ん中にして集まり死角を作らない体勢を作る。
白蛇は一旦、攻撃を止め、その紅い双眸を揺らめかせ再び獲物を楽しそうに見下ろしている。
「どうする、当麻。あんなデカブツ、このままじゃ俺たちの方がやられちまうぜ。武装した方がいいんじゃねえか?」
「いや、武装はできないだろう。」
秀の提案に当麻ではなく征士が即答した。
「先日の田無神社と同じだ。今、ここは祭りの前で霊域になっているとさっき渡井さんが話していただろう。故に、鬼の鎧を呼び出すことはできない。」
「じゃあ、どうしろってんだ?」
秀の嘆きにも似た言葉に当麻が静かに答える。
「落ち着け、秀。何か策はあるはずだ。」
言いながら、当麻は紅い吹雪の中の妖しいまでに美しい白蛇を見上げる。
その紅い双眸は、狂気を宿したまま、今にも四人を目指して襲いかかろうとしていた。
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