青梅哀歌 (2)

 青梅哀歌 (2)

 翌朝、伸はあまりの寒さに目が覚めた。
 腕の中のクロは冬の獣のようにくるりと丸くなって低い外温から身を守っている。
 クロを抱いたまま、当麻を起こさない様にそっとベッドから降りてカーテンを開けて窓の外を見た。
 そこには、粉砂糖をまぶしたような淡く白い景色が広がっている。
 桜の季節はもう終わったと言うのに、粉雪が舞っていた。

 朝食の席では当然のことながら雪の話で持ち切りだった。
 食事の時はいつもは消したままのテレビも、降雪のニュースを得る為につけたままで、画面からは次々と舞い込んでくる気象情報や、交通機関の乱れの様子が流れてくる。
「東京ってもっと温暖な気候だと思ってたからびっくりだよ。俺の地方だってこの時期に雪が降るのは山間部ぐらいだもんな。」
 そう言って遼は、無意識に羽織っている長袖のジャケットの裾に触れる。朝、起きて開口一番、寒いと零した時、征士がそっと自分の持って来ていた予備の長袖のジャケットを遼に羽織らせたのだ。
「俺だってびっくりだぜ。ここ数年は温暖化で雪も降らなかった年もあったんだ。小ちゃい頃は弟や妹と一緒に雪だるま作って店の前に飾ったりしてよ。それがいつ頃からかな。積もるほど降らなくなって。」
 言いながら秀はテレビ画面に食いついている。テレビを食事の際に消すというのは征士の主張で行われているため、テレビを見ながらの食事に慣れている秀は、この状況に安堵感を覚えるのだ。
「私の地方もあまりこの時期には降らないが。ただ、七歳の時に五月になって降った記憶があるからそういうこともあるのだろう。」
 テレビを見ながらの食事に慣れない征士は、箸を置いてテレビを見て、それからまた箸を取って食事、という動作の繰り返しだ。
 そんな呑気な会話をよそ目に、当麻はさっさと食事を済ませパソコン画面に向かっていた。いつもそのような集中力を必要とする作業の時は別室に移るのだが、テレビの情報も欲しいらしく、その目はテレビとパソコンの画面を往復している。そして、突然、ガタっと立ち上がり、テレビのリモコンを取り上げると民放から国営放送に切り替えた。
「おい、どうした当麻。」
「いや、確認したいことがあってな。」
 秀の問いに短く答えた当麻は、テレビを睨みつける様に見ている。その視線の先では丁度、気象予報士の男性が都内の街の様子の映像を背景に臨時のニュースを伝えていた。
「今朝未明から降り出した雪は、多摩地区を中心に奥多摩で10センチ、練馬で4センチ、また二十三区内でも路面が凍結するなどの……」
 淡々と伝える予報士の姿を、当麻につられて四人はじっと見ている。
 季節外れの雪のについての予報士の説明が終わり、画面は気象衛星ひまわりからの映像に切り替わる。不思議なことに、関東地区の東京上空にだけ厚い雲がかかっていた。
「こんな珍しいこともあるんだね。」
「そんな訳ないだろう。」
 伸ののんびりした声に、当麻の厳しい声が応じる。
「これを見ろ。」
 そう言って当麻は、自分のノートパソコンを皆の方に向けた。そこにはテレビに映し出されている気象衛星からの映像と同じ画面があった。いや、正確には、東京上空にある不思議な雲だけがない映像だ。
「どういうことだ、一体。」
 訝しむ様に征士が当麻に尋ねる。
「テレビの情報なんてアテにならんから、直接、気象衛星にアクセスしたんだよ。結果がこれだ。」
「じゃあ、テレビで流れている映像は一体……。」
「あんなものはいくらでも加工できる。理由は分からんが、この雪は異常だ。降らせる雲がないのに雪が降るなんてことはあり得ん。」
 遼の問いに簡潔に答えて、当麻は椅子の背もたれにもたれ掛かり腕を組んで呟く。
「何かの予兆か、それとも既に始まっていると見るべきか……。」
 その言葉を隣で聞いていた伸の脳裏に、昨日、初めて逢った美しい画家の姿と言葉が過った。
『雪に攫われぬようお気をつけて。』
 まさかね、と伸は自分に言い聞かせる。
 確かに神秘的な人だったが、恐らくそういう事に関わる仕事に就いているからだ、と。

 五人の不安を無視するかの様に、雪は翌日も翌々日も降り続いた。
 ナスティから電話があったのは、降り始めて四日目の朝だった。



 東京都青梅市。東京都下はこの街でベッドタウンである多摩地区と山深い奥多摩地区に分かれる。地図上でその位置を確認すると二十三区からは随分と離れている様に見えるが、うまく青梅行き特別快速に乗る事ができれば新宿から一時間で着く。
 青梅駅周辺は青梅街道の宿場である青梅宿から発達した古くからの市街だ。今はもう、都内に住む人さえ訪れる機会の少ないこの街は、その昔は石灰の特産地で、生産された石灰は江戸城、日光東照宮、名古屋城の白壁に使用されている。織物も盛んで、「青梅織物」は江戸時代には西国までその名声が伝わっていたという。戦後は工場生産に変わり、織り機がガチャンと一回まわれば萬金が儲かる、略して「ガチャ萬」という言葉が使われていたほど栄えていた。映画館が三件あり、映画の製作所があり、遊郭があり、人が集まっていたのだ。今、その面影を残すのは、街のあちこちに点在する映画の看板だけではあるけれども。
 五人が青梅駅改札を出た所でナスティ達と合流したのは午後一時過ぎ、遅い昼食の時間だ。雪に弱い東京の電車は運行してはいたものの、ダイヤは乱れ、本数も平日の三分の二程度に減らされていたため予定より一時間遅れての到着になった。
「遠い所、お疲れさま。大変だったでしょ。」
 ナスティがねぎらいの言葉をかけると、その少し後ろで渡井ともう一人、壮年の男性が五人の方に一礼をした。
「いや、大丈夫だった。当麻が事前にいろいろ調べておいてくれたから、ちょっとした小旅行気分って感じかな。……それより。」
 遼が答えてちらりとナスティの後ろの恰幅の良い男性を見た。その仕種で無意識に誰なのかと尋ねている。察したナスティが手短かに答えた。
「後ろの方は、青梅の総鎮守社の住吉神社の宮司さんよ。詳しくは後でね。今は非常事態だから。」
「非常事態?」
「電話で当麻から聞いた事、当たってるのよ。この雪は本来なら降るはずのない雪なの。」
 そう言って、さあ行きましょうと歩み始めたナスティに五人が続く。
「しっかし、この町すごい雪だな。山に近いといっても、東京でこんなに積もるなんてあり得ないぜ? 住民の方は大変だろうな、これじゃ車も出せないしよ。」
 雪に覆われた白い風景を見回しながら溜め息にも近い台詞を吐く秀に、当麻が呆れた様に答えた。
「お前な。どうして俺たちがこんな遠くまで来たか分かってんのか? ここが異変の中心だから来たんだよ。だから、雪がたくさん降って当たり前だろう。あの顔ぶれ見りゃ分かりそうだけどな、普通は。」
「しかし、怪異の中心に来たとは思えないな。」
 二人の話に割り込んで来た征士に、当麻が驚きの表情を浮かべてそちらを見た。
「どういうことだ?」
「怪異の中心というのであれば、それなりの悪い気を感じてもおかしくはないと思うのだが、私はこの駅に降りた瞬間から非常に澄み切った清浄な気を感じる。何故だ?」
「僕も。なんだか神社の境内に入ったような荘厳な感じがするよ。」
 征士と伸の意外な台詞に当麻は眉をひそめて黙り込んだ。当麻自身に二人のような鋭い「気」を感じる能力がないので、その言葉は全く予想外だったのだ。いわゆる「悪い気」というものが蔓延した結果、この町は大雪にみまわれていると思っていただけに、疑問は深まるばかりだ。
 釈然としない当麻に五人の後ろを歩いていた渡井が答えを出した。
「伊達さんと毛利さんの言っていらっしゃる事は尤もです。今週の二十八日に住吉神社で大切な神事が行われ、五月二日から三日にかけては盛大な青梅祭りが行われるのです。それにあたり、この一帯は斎戒中ですからね。一種の霊域になっています。」
「そうでしたか。」
 征士が納得したように小さく頷く。
 その一方で当麻が腑に落ちないという表情で周囲の雪景色を見渡している。そんな霊域で何故、このような怪異が起こるのか辻褄が合わないのだ。
 運良く、雪は止んでいた。
 八人は深く積もった雪に足跡を残しながら住吉神社へと向かった。

 住吉神社は駅から徒歩十分のところ、旧青梅街道沿いにある。
 南北朝時代に同地区の延命寺を開山した季竜が、寺門守護の為に故郷の堺から住吉大社を勧請奉祀したのが始まりとされているが、実際にはそれよりも古くこの場所には稲荷信仰が根付いており、故に本殿の西北の一段高いところに稲荷神社が祀られている。由緒を知っている人は本殿よりもまず、稲荷神社を祀るという。
 神社を参拝した後、五人は参集殿に通されようやく腰を落ち着ける事ができた。季節外れの雪と寒さに慣れない体に、出された温かいお茶は何よりもの恵みだった。
「遠路はるばる来て頂き有り難うございます。宮司の佐野と言います。」
 神棚を背に、上座でゆったり笑った宮司からはあまり危機感は感じられない。
 佐野は、神社の由来を簡単に説明した後、本題に切り込んだ。
「この雪が降り始めてから、町のあちこちで雪女郎や雪座頭を見たと言うお年寄りが、この神社や近くの寺に相談に来ましてね。寺社に奉仕する者の間でちょっとした騒ぎになっているのです。」
 どこか日本昔話を彷彿とさせるその牧歌的な言葉に、ナスティと五人は互いに顔を見合わせて返答に迷う。同時に張り詰めていた神経を緩めて肩の力を抜いた。何しろ、この雪の異変の中心に来てからどんな『モノ』が出てくるのかと構えていて、それなりの覚悟をしてきたのだ。
「そういう雪の化け物の正体は、大体は木に積もった雪を錯覚したり、雪崩による恐怖から産み出された産物だと読んだ事があるのですが。」
 当麻が丁寧に答えると、佐野はいかにもと頷いて大きく首を前後させた。
「おっしゃる通りです。私もそう思いたい所ですが、単純にそう言えないところもありまして。」
「何か雪の怪異が起こる理由でも?」
「ラフカディオ・ハーンはご存知ですか。」
「ええ。小泉八雲ですね。」
「彼の著書『怪談』に収録されている『雪女』のエピソードのモデルはこの青梅なんですよ。彼の使用人がこの町の出身で、ハーンに青梅の雪の化のエピソードを伝えていたようです。二〇〇一年にそれが判明しましてね。その時、雪おんな探偵団というものを地元の商店街の有志で結成して、青梅に住むお年寄りの方に話を伺った所、雪女郎や雪座頭といった言葉が日常的に使われていたようです。それを考慮すると単なる錯覚とは言えない所もありまして。」
「火のない所に煙は立たぬという訳ですか。」
 考えて黙り込んでしまった当麻の代わりに征士が相槌をうった。
「天地自然の気が凝って万物が生じるという理に則れば、陰である雪から陰である女性が生まれるのもまた自然の原理です。ただの錯覚と片付けるのは危険でしょう。」
 渡井がやんわりと、その場にいる者に警告する。ただの昔話ではないのだと。
「それで、その雪の化による実害などは報告されているのですか?」
「直接的な害というのはありませんが、見て驚いたお年寄りの方が数名、転んで足や腰を痛めております。それと神社側としましては、この二十八日の神事を怪異の中で行う訳にはいかないので、こちらの方も深刻です。住民が不安がっている所に神様をお迎えできませんから。」
 当麻の現実的な問いに、佐野は神社に奉職する者らしい答えをしてから提案した。
「目撃情報は、ハーンの『雪女』に有る通り、多摩川周辺に多発しています。その中でも一番多いのが柳淵橋周辺です。ここで話をしていても埒が明きませんし、ご案内いたしましょう。」
 恰幅の良い宮司が立ち上がると、続いて渡井も立ち上がる。ナスティからの目配せの合図を受けて五人も立ち上がり、その後に続いた。

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