青梅哀歌


「怒られなくて良かったね。」
 伸がいつもの穏やかな表情でそう言うと、当麻は「コイツのせいだな。」とクロの耳を引っ張ろうとした。しかし、その手は空を掴み、黒い獣は伸の反対側の肩に移動して当麻をじっと睨んでいる。
 そんな遣り取りをよそ目に、伸は貰ったチラシを熱心に読んでいた。
 フルカラーの鮮やかなチラシには大小六点の日本画が掲載されており、秀麗な草書体で「千早樹〜絵本くにうみ〜発売記念サイン会」と書かれてある。
「なんだ、興味あんのか?」
 クロの相手を諦めた当麻が、チラシを覗き込む。
「当麻はこの人、知ってるかい?」
 そう言って、伸が指差した名前に当麻は小さく首を傾げた。
「美術は全くの門外漢だからなあ。ああ、でもコイツなら俺が東京に帰って来てからよく電車の中吊りとか雑誌で見かけるな。なんだったっけ。日本画壇の新星現れる、とかいうキャッチコピーだったかな。」
 ふうん、と頷いて、伸は改めてチラシを見た。
「サイン会、この後すぐだね。僕、サイン貰ってくるよ。」
「そんなに気に入ったのか?」
 俺には理解できないと言いたげな当麻に伸が答えた。
「田舎じゃ画家さんに会える機会なんて滅多にないんだ。」
 言ってから、伸は絵本を当麻の手から取り戻すと、レジへと向かった。



 書籍館に設けられたサイン会特設会場は、ほぼ女性で埋まっていた。
 学生服姿の女子高生から華やかな着物で飾った随分と年配の女性まで、その年齢層は幅広い。
 故に、二十代の青年二人組という伸と当麻は場に不似合いで、時折、好奇の眼差しを向けられていたが本人たちは全く気付かなかった。
 サイン会が始まる十五時少し前になると、スタッフが整列の案内を始めた。
 伸がレジでもらった整理券は幸運にも八番という早い順番だった。キャンセルが出たのだと言う。
「じゃあ、行ってくるから少し待ってて。」
 そう言い残し、伸は女性の列へと紛れ込んで行った。それを遠目で見た当麻は、あまりの違和感のなさに壁にもたれて苦笑する。
 やがて十五時を過ぎると、サイン会の主役がスタッフ専用入り口から現れた。
 墨茶緑の着物を優雅に纏った千早樹(みき)だった。
 流れるような銀鼠色の髪は顔の左側をゆるりと流れ落ち、その美貌を隠してはいるが、逆に秘された物の美しさを想像させてより一層、艶やかな雰囲気を醸し出している。
 会場内が波のようにさざめいて、あちこちで高揚した女性達の会話に花が咲く。
 その場所で、当麻だけが息を飲んでその着物姿を凝視していた。
 今を花ともてはやされる若き日本画家の姿を目にしたその瞬間、不可解な恐怖を覚えたのだ。それは、妖邪とまみえた時に感じた邪悪なものでもなく、渡井に感じる名状しがたい不審感でもない。自分の中に近い感覚を探すとすれば、生まれて初めて望遠鏡で宇宙を見た時の興奮と同時にあった遠い世界への畏怖、広い海を見た時に感じる深海への畏敬、そういう類の恐怖だ。
 この感覚を感じ取っているのは自分だけなのかと思い伸の方を見ると、全く気付いていないらしく、絵本を手に、隣に並んだ若い女性と話をしている。
 嫌な予感がする。
 それも、最大級のヤツだ。
 当麻は現実と対峙すべく、その日本画家を観察することにした。

 自分の順番が訪れて、伸は美貌の日本画家と対面して座った。
 やわらかさと端麗さを備えた面差しと、うっすら輝いて見える銀鼠の長い髪の毛に伸は思わず見とれてしまう。美貌と言えば征士も十分に綺麗な顔立ちで見慣れているし、片目を髪で隠しているという共通点もあるのだが、征士とはまた別の幽玄ともいえる雰囲気に同性にも関わらず思わず息を飲む。
 画家はそんな伸を見て、一瞬、ふと笑みを浮かべた。
「今日は私の本を買って頂き、どうもありがとうございます。」
 すっと朱を刷いた唇から零れた言葉は、描く絵に似つかわしく透明で深い響きの音だった。
「いえ、僕の方こそ偶然、こんな素敵な本に出会えて良かったです。」
 スタッフの合図を受けて伸は絵本を千早の前に出した。
 画家は整った細い指で絵本の表紙を捲り、中表紙にさらさらと慣れた手つきでサインを記す。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「え?」
 言われて思わず千早の顔を直視した伸は、すぐにその意味を悟った。自分の名前まで記してもらえるとは思わなかったのだ。嬉しくなり、頬を緩めて応じる。
「毛利伸といいます。毛利の字は……。」
「良いお名前ですね。水のご加護があるでしょう。」
 伸の説明を聞く前に千早はさらりと『毛利伸様へ』と書いて、日付を記すと伸に渡した。呆然としてそれを受け取った伸はその瞬間、自らの体の内側に息づくもう一つの大きな命が鈍く蠢く奇妙な感覚を覚え、体を強ばらせる。そして、縛られたようにその場から動けなくなった。
 ……蛇神が反応している? 
 席を立てず、表情を固くしたまま動かない伸に、困惑したスタッフが声をかける。
「お客様、次の方がお待ちですので。」
 まるで、その声が解放の呪文のように、伸は体の自由を取り戻しほっと溜め息をついた。体の中の蛇神はもう、気配を奥に潜め出てくる様子はない。
 立ち上がった際、伸がありがとうございましたと軽く一礼すると、若い画家が囁く様に言った。
「雪に攫われぬようお気をつけて。」
「え?」
 その瞬間、建物の中に吹くはずのない風がふわりと吹いた。
 風に煽られ、画家の顔の左側を隠していた銀鼠の髪がそよと流れる。 
 伸はそこにあるもの、いやあるはずのものが無い事に瞠目して言葉を失った。
 眉目秀麗な画家の顔に左目はなかった。

青梅編、はじまりました。前回の更新からずいぶんと時間が経っているので、設定など忘れられていないかしらとちょっと不安です(笑)渡井さんに続き、オリジナルキャラクターとか出してしまいましたが、果して受け入れてもらえるかな。どうぞ、よろしくお願いします。その他呟きはブログにて。