桜の季節も終わり、勢い良く若葉が色付き始める四月の終わりの日曜日。伸と当麻はリブロ池袋本店に来ていた。駅直結の西部百貨店内に店舗を構えるこの書店は、別館地下一階から書籍館四階まで多岐に渡る品揃えと、若者向けのお洒落な内装で書店激戦区池袋で独特の地位を築いている。
きっかけは伸の些細な一言だった。
「絵本を探したいんだけれど。」
職場のホスピスで皆が集まる憩いの間の本棚の管理をしている伸は、前々から絵本を増やしたいと思っていたという。しかし、地元の本屋では絵本を専門的に取り扱う店が少なく、それならば東京にいる間に買っておこうと思うんだけど、と朝食の席で言い出したところ、専門フロアのある店に連れて行ってやるよ、と当麻が返したのだが、そこで一悶着起きた。
「大体さ、当麻、こっちにきてからお前、伸にべったりだぜ? 伸だって子供じゃないんだから本屋ぐらい一人で行かせてやれよ。」
言い出したのは秀である。それに尤もだと言う風に征士が続けた。
「今のお前は、伸のSPか、一歩間違えればストーカーだな。」
事実、東京で再会してからこの二週間と少し、当麻は理由をつけて伸の傍にいた。ところが、当麻本人はその自覚がないので言われて初めて気付いたのだ。故に、その口から反論の言葉は出なかった。
「まあみんな、落ち着いて。当麻も悪気がある訳じゃないんだ。それに、僕も田舎者で街は歩き慣れていないから一緒に居てくれる方が安心なんだよ。」
伸には当麻の行動の意味が分かっていたので、そういう形で弁護するしかなかった。本音を言えば、それが当麻の自分への甘えであり彼が必要としている体験なのだから、仲間とはいえ他人の意見に影響されることなく当麻には欲するままに甘えて欲しかった。しかし、それを口にしてしまえば彼の矜持を傷つけてしまう。それは決して出来ないことだった。
故に、自分から案内を願う形でその場を治め、当麻と一緒に池袋に出向く事になった。
当麻が伸を案内したのは、リブロ地下一階の絵本と童話のコーナーだった。
平積みにされた色鮮やかな絵本たち。子供が喜びそうな動物やキャラクターを使った店内装飾。可愛らしい手作りのPOP。
伸にとっては初めて見るものばかりで、つい、顔が綻んでしまう。
「凄いね。こんな広い売り場全部が絵本と童話だなんて。」
「だろ?」
自慢気に言う当麻を横目に、伸は早速、店内の絵本を手にとってお気に入りの一冊を探し始める。
平積みになっている絵本の多くは、聞いた事のないタイトルばかりで新作だということはすぐに分かったが、その中でひときわ目立つ一冊があった。
「くにうみ」と流れるような草書体で本のタイトルが描かれている。その表紙を彩るのは、古代の男女の姿を描いた色鮮やかな日本画。伸は自然と手を伸ばし、頁を捲り始める。
『これは、ふることぶみにつたわる、にほんのくにができるまでのおはなしです。』
その一文から始まる絵本は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が別天神(ことあまつかみ)から命を受け、天の浮き橋から天の沼矛(ぬぼこ)を下界にさし下ろしてオノコロ嶋を作り天下り、互いに誘い合って交わり、大倭豊秋津嶋(おおやまととよあきつしま)を生んで日本の国ができあがったという日本神話の一節の物語だった。子どもにも分かりやすい平易な言葉と、見る者の心にすっと染み入る透明感とやさしい色使いの日本画が調和され独特の世界を醸し出している。
最後まで読んだ伸は、取り憑かれた様に再び最初の頁に戻り、再び読み始める。
二度目を読み終えた後、伸は我に返り、自分が二〇〇九年の東京に居る事に気付いた。
「随分熱心に読んでたな。」
伸が気付かない内に当麻は隣で一緒に絵本を覗き込んでいた。
「あ、うん。」
曖昧な返事を返し、伸は何か腑に落ちないものを感じる。
絵本に書かれてある内容は、伸の知っている日本神話をきちんと踏襲していて特に問題はない。ないが、心のどこかで得体の知れない不安のような、自分の世界の一部が欠けてしまったような感触を覚えるのだ。
そんな伸の様子に気付いた当麻が、伸の手の中から絵本を取り上げ頁を捲る。
「何だ、この絵本がそんなに気になるのか?」
一瞬、躊躇いを見せて伸が答える。
「僕の知っている神話通りなんだけれど、何か、足りないような気がして。……思い違いかもしれない。」
「ああ、イザナギとイザナミの最初の子どもが骨のないヒルコだから海に流したっていう一節は、さすがに子ども向けの絵本に載せられないよな。生まれ損ないの神様なんて、子どもにとっちゃトラウマだろ。」
その言葉に弾かれた様に、伸は当麻を見上げた。
「当麻、今なんて……。」
「え、だからヒルコの話だろ?」
「違う、その後。」
「ああ、生まれ損ないの神様か?」
ドクンと心臓が跳ねたのを伸は全身で感じた。
そして、脳裏に唐紅の衣の端がふわりと過る。
先程覚えた不安よりもさらに奥深く、自分の世界が壊れてゆくような焦燥感を覚え、無意識に左手を額のあたりに押し当て必死にその根源を探ろうとする。
…………私は生まれ損ないだから。
それは『誰』の言葉だったか。
混乱する意識の中ではっきりと分かるのは、その言葉を言ったのは『ヒルコ』ではないということだ。むしろ、ヒルコは生まれ損ないではないという確信さえあった。その根拠は全く分からなかったが。
「伸、大丈夫か。具合でも悪くなったのか。」
先程まで陽気な笑みを見せていた伸が突然苦しそうな表情を浮かべているのに驚いた当麻が、その顔を覗き込む。
伸は押し黙ったまま動く気配を見せない。ただ、虚ろな瞳で空を見ている。
「おい、伸!」
見かねた当麻が伸の顎に手を伸ばして、自分の方を向かせようとした時。
二人の間を黒い風が走った。
それは一度、伸の首元をくるりと回ると、その肩に姿を現した。
艶やかな黒い被毛。長い耳とふさふさの尻尾。
茶褐色の鋭い瞳は当麻を睨み、低く唸り声をあげている。そして、伸に差し出された当麻の手の指をかぷり、と噛んだ。
「貴様っ!!」
「クロ!!」
我に返った伸がその名を呼ぶ。すると、黒い霊獣はぴたりと唸り声を止め、小さな顔を伸の頬に擦り寄せて甘え始めた。
「家でお留守番って約束したじゃないか。」
正気を取り戻し甘い声でクロを撫でる伸とは裏腹に、当麻は今にも怒鳴りそうな勢いで霊獣に向けて拳を差し出して言った。
「お前、今度きっちりとTPOってものをだな……。」
「あの、お客様。」
うら若い女性の声に、二人は同時に振り返る。
声を掛けられた理由をすぐに察し、顔を見合わせて気まずい雰囲気になる。仮にも本屋で五月蝿くしていれば注意されても当然だろう。
しかし、女性店員の思惑は違っていたようだ。絵本を手に盛り上がっている二人を「絵本を気に入ってくれた人」と勘違いしたらしい。
「その絵本がお気に召したようでしたら、今日、その作家さんのサイン会がありますので、よろしければ是非。」
「あ、ありがとうございます。」
気の抜けたお礼の返事をして伸がチラシを受け取ると、女性店員は軽く一礼をして奥のフロアに戻って行った。
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