青梅哀歌

 青梅哀歌 (1)



 穏やかに凪いだ青い海が目の前に広がっていた。
 うらうらと明るい日差しは、果して春のものか秋のものか。
 染みひとつない真珠色に輝く浜辺には鮮やかな唐紅の衣を纏った童女が佇んでいた。
 そのあどけない面差しには似合わない憂いの表情を湛えて、飽くことなくじっと海の向こうを眺めている。
 何かを待つ様に。
 水平線に恋い焦がれるかの様に。
 やがて日が暮れ始める頃、白い袍に身をくるんだやわらかな面差しの少年が軽やかに駈けて来た。白い砂浜に、点々と足跡をつけながら。
 緑の黒髪をなびかせて童女が振り返る。亜麻色の髪の少年は童女ににこりと笑いかけた。
「今日もまたひとりなの?」
 こくり、と頷いて、童女は少年の顔を見た。その目には僅かに驚きの色が宿っている。
「ぼくもひとりなんだ。」
 そう言って、少年は色を失い始めている海に目を遣った。童女もゆっくりと、眺め飽きたであろう海の方へ視線を向ける。
「海が好きなの?」
 少年の問いに、やはり童女は頷くだけだ。
「ぼくも好きなんだ。だってぼくは、」
 少年は一旦言葉を切って、それから満面の笑みを浮かべて、橙の夕日が今まさに黄金に染め上げんとしている水平線を見て指差した。
「向こうから来たから。」
 嬉しそうな少年の隣で童女は薄く笑みを浮かべ、黄金の水平線を愛おしそうに見つめた。
「君はどこから?」
 黄金に輝く海に目を向けたまま、少年が尋ねる。その瞬間、童女の存在感がふわりと薄くなった。

「私は生まれ損ないだから。」

「許されない存在だから。」

「皆の心から忘れられなくてはならないから。」

「故郷など在りはしないの。」



 言いようの無い胸の苦しさを覚え、伸は目を覚ました。
 抱いているクロと自分を抱えている当麻を起こさない様にゆっくりと頭だけで枕元の時計を確認する。午前二時。草木も眠る丑三つ時だ。
 またあの夢だ、と思う。
 唐紅の衣を纏った童女と、幼いころの自分が邂逅する夢。
 内容までは覚えていないが、あどけない顔と、鮮やかな唐紅の色だけが脳裏に焼き付いている。
 あの童女は一体誰なのか。
 思いを馳せたいが健康的な体はやはり睡魔に抗えないようだ。
 伸は知らず、再び深い眠りの淵に落ちた。



 東京タワーを一望におさめる高級住宅街の一角にひときわ広い敷地を持つ邸宅があった。その敷地の半分以上は檜や杉といった常緑樹が邸宅への侵入者を阻むように生い茂っている。
 敷地のやや東寄りにある瀟酒な邸宅は純日本家屋で、目にした者がいるなら一瞬、時間の魔法にでもかけられたような不思議な錯覚を覚えるに違いない。その比喩が過言ではない程、古く立派で、手入れも行き届いており、時間の重みと歴史を感じさせる家屋だ。
 その邸宅の書斎に、家主の姿があった。
 年の頃はまだ二十代後半であろうか。
 色白の細身の面に柔和な鳶色の瞳。整った鼻梁とすっと紅を引いたような薄い唇。それだけでも十分、人の目を惹くに値するが、その風貌を一層際立たせているのがうっすらと輝きを帯びて見える銀鼠の髪だった。それはやわらかな流れを描きながら肩の下のあたりまで伸びている。そして、神々しいまでの美貌を秘するかのように、ゆるりと顔の左側を隠している。生粋の日本人とは程遠い風貌ではあったが、浅い二藍の浴衣がその容姿をさらに情緒豊かなものにしていた。
 彼が書斎の椅子から立ち上がって、右奥の本棚から和綴じの本を取り出して再び座に付き、机の上のパソコンに向かった時、扉が規則正しく三回ノックされ続いて声がした。
「千早(ちはや)様、入ります。」
「どうぞ。」
 返事を確認して入って来た男は日本人男性としては随分長身だった。細身の黒いスーツを纏い、ややつり気味の目には闇の奥よりも黒い瞳を宿しており、短めの髪もまた黒い。どこか威圧的な雰囲気を差し引けば、彼もまた、二十代後半の青年に相応しい容貌だ。
「遅かったね、千方(ちかた)。」
 千早と呼ばれた青年がパソコンから目を上げて、柔和な笑みを湛えた。
「申し訳ありません。首都高で事故があったようで渋滞に巻き込まれました。」
「仕方ないね、都会は。」 
 銀鼠の髪の青年がくつくつと笑う。
「それで、件の資料が揃ったと昼の電話で言っていたようだけれど。」
「はい。まだ完全ではありませんが現在手に入る資料は全て揃いました。」
 言いながら、長身の青年は感情に乏しい表情で机の向こうの主にファイルを渡す。受け取った千早は、背もたれに体を委ね、パラパラとファイルを捲り始めた。
「……南方火気、真田遼、火の力の顕現。市立ひまわり保育園保育士。……西方金気、伊達征士、光の力の顕現。青葉台白百合女子高非常勤講師。……中央土気、秀麗黄、大地の力の顕現。中華料理店副支店長。……北方水気、毛利伸、水の力の顕現。若水園介護福祉士。……東方木気、羽柴当麻、プログラマー兼予備校生、風の力の顕現。予備校生?」
 厚さ5センチの資料には、年齢や家柄、現住所など個々の情報が詳細に記されており、千早はその中から拾い読みしていたのだが、そこで吃驚した様に手を止めた。
「確か、十年前、天津美禍星(あまつみかぼし)の力でここの結界を解いた際には彼らは十代半ばだったはずだけれど。」
「はい。」
 千方が顔色一つ変えず頷く。
「ということは、この東方木気を預かる羽柴というのはどうして二十代半ばで予備校生なんだい?」
「そこまでは調査の手が届きませんでした。IQは高く先の天津美禍星が呼んだ鬼との戦いでは司令塔の働きをしていたようですが……。」
「そう。」
 また、くつくつと千早は笑って資料を机の上に置いた。
「それで、彼らがその鬼退治の際に使った呪具については相変わらず分からずってことかな。」
 言外に渡された資料の中身の不足を指摘する。やわらかな物腰に隠れてはいるが、その瞳に触れれば切れるような冷たい光が宿っていた。
「寺社及び教派神道関係者、民間の呪術関係者に当たってみましたが、これといった情報は得られませんでした。」
「石上(いそのかみ)は?」
「それは……。」
 それまで全く表情を崩さなかった千方の黒い目が僅かに見開かれる。
「冗談だよ。お前があそこに近付くことすら叶わないことは分かってる。」
 くつろいだ姿勢のまま千早は腕を組み、何かを考えるような表情を浮かべた後、思い出した様に千方に尋ねた。
「そういえば、お前の鬼に返事を持たせたあの神主……。」
「はい。彼の調べはついています。渡井慶一、四十五歳。田無神社の職員を務める傍ら気象庁管轄の『大規模災害予知対策研究室』に所属。秋田県の病院の嫡子ですが幼い頃から見鬼の能力を備えていたらしく、国学院大学卒業後、二十二歳で神職に就いています。」
「なるほど、この時代に見鬼とは珍しい。それで陰陽寮に配属された訳だ。隠形の術を使えるということはそこそこ呪力もあると見ていいね。」
 田無神社と総持寺の強固な結界を破り百鬼夜行を呼び寄せた張本人が、値踏みするような口調で呟く。
「報告は以上です。」
「お疲れさま。」
 主の声を聞いて一礼をした後、書斎を出ようとした千方に、千早がどこか妖艶とも言える笑顔をすっと浮かべて呼び止めた。
「千早様?」
「今晩は自室に居るように。」
 千方は何も答えず、音もなく書斎を退出した。



 千方が書斎から去った後、千早は再びファイルを手に取り、「羽柴当麻」の項目をじっと見つめ、それから誰に言うともなく密やかに呟いた。
「羽柴当麻。風の力。当麻。……大魔。時代が時代なら、僕の故郷で奉職して欲しいものだね。」

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