十月零日

 十月零日




 夜は日ごと長くなり、そよぐ秋風をうっすらと肌に寒く感じられるころ。
 丁度、日付が十月に変わるその瞬間を、当麻はリビングで過ごしていた。壁に掛けられたアナログ時計の針が、長月から神無月へ季節が移ったのを知らせた。目の端で、それをちらと確認してから、再び手元に視線を戻す。
 読み始めた本が面白くて止められず、夜更かしをしていたわけだが。 
 その耳に、密かな音を聞いて、当麻は顔を上げた。一瞬、空耳かと思ったが、再び、コンコン、と玄関の扉を控えめに叩く音が聞こえて、当麻は首を傾げた。
「こんな時間に、誰だ?」
 呟くように零して、当麻は玄関へ向かった。
 夜の廊下を渡り、玄関にたどり着く。扉の前で稼働しているはずのセキュリティシステムのモニター画面には、何も映ってはいなかった。
 再び、コンコン、と扉が慎み深く叩かれる。
 当麻はうーんと唸ってから手を組み、しばらく考えこんだ。住人を呼び出したいなら、なぜ、インターフォンを鳴らさないんだ? 扉のすぐ脇に取り付けてあるのだから、入り口の照明に照らされて、すぐに分かるだろうに。
 迷いに迷った挙げ句、当麻はスピーカー越しに声をかけた。これで声は外に届くはずだ。
「どちらさまですか?」
 しばらく、間があってから、ゆったりとした声が帰って来た。
「真田遼の、兄です。」
「は!?」
 遼が一人っ子なのは思い出さなくても分かっている。十年前、出会ったあのときから、自分と同じ一人っ子という強い認識があった。その遼に、兄などいるはずない。
 これは、新手のいたずらか……もしくは、あって欲しくないが、誰かが自分たちを陥れようとしている罠ではないか。
 ともかく、一人では対処できない、と判断し、当麻は伸の眠る寝室へと足を向けた。


「な、誰かいるだろ?」 
「うーん、誰なんだろうね?」
 パジャマ姿の伸は、眠そうな目をこすりながら、小首を傾げた。ちょうど、寝入ってすぐの深い睡眠のときに起こされたせいか、欠伸をしながらそう曖昧に応じて、冷え込み始めた秋の寒さにわずか、体を震わせた。
「こんな深夜に活動するなんて、当麻くらいじゃないの。」
 ぼそぼそと言って、伸はもう一度、無防備にふわぁっと欠伸をした。まだ半分眠りの海に浸っているのか、瞳の焦点は合わず、ぼんやりとしている。ねむ……と呟き、こくり、と頭を下げて、よろりと足元が覚束なくなった。
「お、おい、伸!」
 崩おれそうになった伸の体を、当麻は慌てて抱きとめる。
「……あ、ごめん。大丈夫。」
 やはりもごもごと口の中で言って、伸は当麻に一度、体を預けたあと、なんとか自力で立ち上がった。しかし、大丈夫、とはいいながらも、やはり小さな欠伸をして何度も目をこすっている。
 ……寝起きはいいはずの伸が、途中覚醒するとこんなに隙だらけだとは、思いもよらなかった。
 あまりにも危なっかしい伸の様子に、当麻は何度も頭を横に振り、「いかんいかん。これは他人に見せられないな」と思った直後、またコンコン、と扉をノックする音が響いた。
 仕方なく当麻がスピーカー越しに、もう一度、外の相手に声をかけようとした、そのとき。
 ドタドタと背後で音がした。
 同じくパジャマ姿の遼が、階段を駆け下りて来る。夜中だというのに、目は輝き、生き生きとした顔に、最上級の笑顔を綻ばせていた。
「当麻! 伸!」
「遼! 一体、こんな時間にどうしたんだい?」
 遼の声で一気に覚醒したらしい伸の質問に応えたのは、本人ではなく、彼を追って来た征士だった。
「さっき、突然、遼が起き出して、なにやら叫んで部屋を飛び出したのだ。」
 そんな征士におかまいなしに、遼は子どものようにはしゃいで、扉の向こうを指した。
「今、誰か来てるんだろう?」
「ああ、それがモニターにも映らないし、開けていいものかと迷っている。……というか、遼の知りあいか? 相手はお前の兄だと言っているが……」
「知り合いも何も……」
「おい、こんな夜中にどうしたんだよ。」
 遼の言葉を遮るように、後ろから声がした。
「秀!」
「遼、お前の声、俺の寝室まで響いたぞ。一体、何があったんだ。」
 やはり、こちらも寝入りを起こされて、やや不機嫌な秀だ。
「起こして悪かったな。でも、兄貴じゃないけど、兄貴以上に大切な人だ。みんなも知ってるはずなんだけどな?」
 いたずらっ子のように明るく笑って、遼は四人を見渡した。
「だから、入ってもらっても大丈夫だ。俺たちの大事な兄貴だから。」


 リビングの、お誕生日席に通された彼は。
 身長は2mはあるだろう長身、しなやかで引き締まった体躯は、猫科の動物を思わせる。目を惹くのは透明に近い白銀の髪。仄かに光を放っているようにも見える。背中の半ばまで伸びたその髪を、濃い紫の紐ですっきりと結んでいる。前髪に一房、深い灰色の髪の混じっているのが、妙にしっくりとくる。
 褐色の瞳は、野生動物に似た鋭い光を宿していたが、五人を見るその表情は、親が子を見守るように温かい。
 ラベンダーのハーブティの入ったティーカップが全員の席の前に揃い、伸が自分の席につくと、遼が立ち上がった。
 誕生日席の彼の横の遼は、もう、それは、人生で一番、華やかで嬉しい瞬間であるかのように、満面の笑みを浮かべて、言った。
「改めて紹介する。白炎だ。」
 皆が心の中で十ばかり、数える沈黙があって。
 それぞれが声をあげた。
「白炎って、あの?」
「虎だろ?」
「十年前、俺たちと一緒にいた、あの白炎なのか?」
 皆の声に遼が、笑みを深めて「そうだ」と頷いて、白炎だと紹介した男を見た。それを受けて、彼は初めて、言葉を発した。
「この姿では初めてお目にかかります。私は、十年前、迦雄須とともにあなた達を見守って来た白炎です。」
 広やかな大地の響きを感じさせる、伸びのある深い声だった。
「白炎はさ、」と、彼の言葉に遼が続けた。
「皆には言わなかったけど、時折、何かの拍子でこうして人の形をとれるらしいんだ。」
「どうして彼が白炎だと、お前は分かるんだ?」
 白炎と遼を交互に見て、当麻が質問を挟む。
「ずっと昔の話だけどな。俺がまだ小学二年生のとき、授業参観があってさ。でも、ちょうど親父は写真を撮りに旅に出てしまっていて。もちろん、俺も子どもなりに親父の事情は分かっていたつもりだったんだけどな。やっぱ、寂しくて。そのとき、俺の隣にいた白炎にさ、こう言ったんだ。『白炎がもし人間なら、来てもらえるのにな』って。そしたら……」
「そしたら?」
「この格好で、白炎が授業参観に来てくれたんだよ。俺の、兄として。」
「あの頃の遼は、まだ、この形の私が抱えられるくらいに幼くて、可愛かったのです。まるで、小さなリスのようにくるくると動き回って、山を駈けていました。」
 隣で白炎は、静かに笑った。穏やかな笑みに、母性とも父性ともとれない温もりが滲む。

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