買い物から帰って来た伸は、リビングのテーブルに征士の手袋を見つけた。一目でそうと分かる、黒の皮の手袋。高級感溢れるそれは、気品ある征士の風貌にとても似合ってるな、と初めて見たとき、そう思った。
しかし、生真面目な征士にしては珍しい。いつもなら、征士は外した手袋をきっちりと寝室に持ち帰ってしまうはずだ。
何か理由があるんだろうか。
興味をひかれて黒い皮の手袋を手にとる。
すると、それをつけてみたいという抗い難い欲求が生まれた。
耐えられずに、それを手にはめる。
瞬間、視界に光が弾けた。
強烈に輝く白い紗幕に思わず目を閉じる。
光がおさまり、呼吸をいくつか数えて目を開ける。
そこは、板張りの道場だった。人の気配はない。まだ早朝なのだろうか。ひんやりとした空気と痛いほどの張り詰めた緊張感が体に漲っているのが分かる。
手には、堅く慣れない竹刀の感触。
静かだった。
静謐で、まっすぐで、迷いのない世界だった。
ただ前だけを見て。躊躇うことなど許されないとでもいうかのような。
冬の朝に似た透徹とした清冽な征士の意識が、手袋越しに伝わって来る。
……僕には少し、息苦しいかもしれない。
そう思ったとき、ふと手が温かくなった。
誰かの手を握っている。その手を握る征士の心が焦りに乱れているのが分かる。
……ああ、これは遼の手だ。征士は遼をこの手で守ろうとしているんだ。
周囲には見慣れない街の風景が広がっていた。人影も活気もない。廃墟のようにしんと静まり返っている。息絶えた街に命の色は見当たらない。
その廃墟を、征士が遼の手を引っ張って歩いているようだった。
「必ずここから連れ出してみせる。」
頭の中に沁みる征士の言葉に、遼が応じるように手を握り返す。その温もりが手袋を通じて伝わってきた。
「伸?」
「征士!」
頭の上から声が降って来て、伸は思わず声をあげた。1オクターブ高い声で返事をする。
自分の手袋をはめている伸の姿がよほど不似合いだったのだろう。征士は、わずか笑いを噛み締めて尋ねた。
「私の手袋は温かいか?」
「あ、ごめん。勝手に借りちゃって。」
「いや、構わんが。」
伸は慌てて手袋をはずして、征士に返す。まだ何かおかしいらしく、彼は目元だけで笑って受けとり、大事そうにその表面を撫でた。
「いい手袋使ってるよね。征士らしいなと思って。」
少しバツが悪そうに伸は言うと、征士はすっといつもの静かで端正な面差しに戻って答えた。
「成人式の際、コートやら靴やらと一緒に一式仕立ててもらったのだ。家には専属の皮職人がいて、その方が丁寧に作ってくれた。なかなか自分の手にあう手袋というのはなくてな、これがちょうど心地よい。」
「征士の手、大きいもんね。既製品じゃ、なかなか見つからないだろう?」
言ってからふと、伸は気付いた。
征士の手が常人のそれよりもずいぶん大きいとはっきり気付いたのは、遼の手袋をはめたせいだ。だから本当なら、それは征士の家族と遼しか知らないことのはずで。
「やはりそうか、遼も昔、同じようなことを言っていたな。」
遼、という名前を口に乗せたほんのコンマ数秒だけ、征士の表情が緩んだ。そして、自分の手のひらをまじまじと見つめる。
「そんなに大きいと思ったつもりはないんだがな。」
そんなことはない、征士の手は大きいよ。
伊達の家も遼も守ると決意している君の支えるものはあまりにも大きいから、きっとそんな大きな手になったんだ。
ーー大切なものを守ることのできる君の大きな手が、今の僕にはほんの少し、うらやましい。
夕食の準備を始めようとキッチンに立ったとき、伸はダイニングテーブルの上に鮮やかな橙の手袋を見つけた。今ではあまり見かけない四本の指が繋がっているミトンのそれは間違いなく秀のものだ。秀は度々、自分のものを家のあちこちに置き去りにする癖がある。このゲストルームにすっかり馴染んでしまって自分の家のように思っている証拠だ。おそらく、外から帰って来て喉が渇いたか小腹が空いたかで冷蔵庫を開けるその前に、置き忘れたものだろう。
遼と征士の手袋の件がある。
本来なら人の心の中など覗き見てはいけないのかもしれないが……十年ぶりに再会したあの秀がーー皆の中で一番最初に結婚してしまった彼がーー何を見てきたのかとても興味がある。
キッチンに人の来る気配がないことを確認して、そっと手袋をはめた。
途端、ぐっと体に圧力がかかって、骨が軋むような感覚に思わず目を閉じた。
次に瞼を開けたとき、目の前に台所が見えた。
手には慣れた包丁の感覚。トントントン、と小気味良い音を立ててキャベツを切っている。
隣には女性がいた。ショートカットの、元気な黒い瞳の女性だ。傍らで、ニコニコと包丁の動きを追っている。
「料理をしているときの麗黄の手、とても好きよ。」
朗らかで心地の良い声だった。縋るわけでも媚びるわけでもなく、相手の深い内側で安堵しきっている者の声だ。
「なんだ?」
しっかりとした意志とともに声は頭に響く。
「だって綺麗なんだもん。」
「こんなごつい手だぜ?」
「そう? でもやさしい手だわ。」
包丁の動きが止まって、コトリ、とそれをまな板の上に置いた。
水道の蛇口をひねり、手を洗ってタオルで丁寧に拭いてから。
その両手を女性の頬に伸ばした。やわらかさとなめらかさと温もりが手のひらごしに伝わって来る。
「お前を守る手なんだから、やさしくて当たり前だろ?」
空間がキンと音を立てて鳴った。再び押し寄せる強い圧力に体を強ばらせ、思わず目を閉じる。
時間がずれた、そんな感じがした。
目を開けると、白い部屋にいた。薬の匂いがツンと鼻をつく。女性はベッドに横たわって、こちらを見て微笑んでいる。
腕には、生まれ落ちたばかりの、あたたかなやわらかい小さな小さな命があった。猿に似たまんまるでしわくちゃの顔には、どことなく秀の面影がある。
……ああ、これは秀の未来。
「おーい、伸、今日の夕飯、なんだー?」
自分を呼ぶ声に、現実に引き戻された。キッチンの入り口から覗き込んでいた秀は、伸が自分の手袋をはめているのをみると、面白くてたまらないというような満面の笑顔で伸の側にやってきた。
「なあにやってんだよ。」
「あ、ごめん。勝手に借りちゃった。」
おどけるような仕種で手袋をはずして秀に返す。ニカっと笑って受けとった秀は続けた。
「これさ、里菜の手編みなんだよ。今どき、この歳でミトンの手袋ってないだろ? 里菜は料理は出来るけど裁縫はからっきしダメなんだよな。でも、付き合って最初のクリスマスプレゼントに作ってくれた。嬉しいよな。」
「愛されてるね。」
「当然だろ? 俺は里菜以上に里菜のこと愛してっからな。」
そのあまりにも自然で自信に満ちた言葉に、伸はつきり、と胸の痛むを思い覚えてーーなぜなら、もしかするとそれは永遠に自分は手に入れられないものかもしれないからーーそれを悟られないように軽い口調で返した。
「秀は、いいなぁ。」
「なんだあ?」
秀の未来を見た。
その、奥さんに守られた手で家族を守るんだね。
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