夕飯の片付けも終えて一段落したころ。
伸はダイニングの椅子に座り紅茶を煎れて一休みしながら考えていた。
……当麻の手袋って、見たことないんだよね。
本人がはめているところを見たことがない。寝室のどこかにしまっている形跡もなく、だとしたら持っていないのだろう。体温が低いくせに、寒くはないのだろうか。
そんな思索を破ったのは、当の本人の声だった。ノートパソコンを片手に、キッチンの入り口に立っている。
「伸、コーヒー欲しいんだけど。」
「あ、うん。」
言われてコーヒーメーカーにペーパーフィルターをセットする。珈琲粉を入れてから平らにならしてスイッチを入れる。お湯でマグを温めながら、背中越しに伸は尋ねた。
「当麻ってさ、手袋はどうしてるの?」
「手袋? そんなもん、持ってないな。」
「寒くないのかい?」
「そんな寒いところで生活してないしな。外出するときは結局、電車と建物の往復で外気に触れる時間の方が少ないだろ。」
「ああ、なるほど。都会っ子だねえ。」
ずっと萩で育った自分とはやはりずいぶんと感覚が違う、と伸は内心、驚く。
「あと、すぐになくすんだよな。あれだ、梅雨しか使わない傘みたいなもんだ。なくしてビニ傘を買うだろ?」
「傘は雨の日ならいつだって使うじゃないか。」
呆れたように応じた伸に、当麻が何か閃いたように「そうだ」と呟いた。
「ああ、そういや持ってるぞ。今持って来てやる。」
そう言ってキッチンを出て行った当麻が再び戻って来たとき、手には手袋らしきものが握られていた。
指先だけ出るタイプの手袋は焦げ茶色で、ちょうど手首にあたる部分から白く長いコードが出ている。手袋、というにはあまりにも奇妙な形をしていた。
「外で作業をするときに、どうしても寒い日はこれを使うんだよ。USB手袋。作業効率は落ちるけどあったかいぞ。発熱するからな。」
そう言って、実演のつもりなのか当麻は白いコードをパソコンのUSBポートに接続して手袋をはめた。
ノートパソコンから伸びる白いケーブルは、その先の手袋を介して当麻に繋がっている……ように見えて、伸は苦笑した。
「なんだか変な感じ。当麻がパソコンに操られてるロボットか何か、機械みたいだよ。」
そんなことはないぞ、と不満を鳴らす当麻の声を聞きながら、伸はそっと思った。
……クリスマスプレゼントは、手袋にしよう。
十二月二十五日、早朝。
前日はクリスマスパーティで遅くまで呑んだり食べたりと、五人は年甲斐もなく大騒ぎをした。東京に来てから、日常をじわじわと蝕む不安をその日だけは忘れたかのように、疲れるまで笑って語った。皆、心のどこかでそうやって息抜きをする理由を欲していたのかもしれない。
もちろん伸もおおいに食べて呑んだ。と言っても、翌日の後片付けができるだけの体力を温存しながらだったが。
当麻はまず起きて来ないのであてにしない。征士は片付けの役にはたたないし、遼はいれば手伝ってくれるのだろうけれど、教える方が大変そうで、一番頼りになる秀は楽しい時は目一杯楽しむ性なのでーー最初から覚悟していた通り、大量の食器の後片付けは伸一人だ。
いつもより三十分早く目を覚まして、伸は隣で眠る当麻の顔を覗き込んだ。冬至を過ぎてまだ日は浅い。冬の朝、外は未だ薄暗く、室内に射し込む光はない。だから、当麻の顔もあまりはっきりとは見えないのだけれども、いつもより、穏やかで幸せそうな顔をしている気がする。
……このIQ250の頭で、当麻はどんな夢を見るのだろう。いつも何かを考えるばかりの頭は、昨日、少しでも休めただろうか。
起こさないようにそっとベッドから降りる。
クローゼットの自分のスペースから両手のひらに乗るサイズの、青いリボンをかけられて綺麗に包装された箱を取り出す。
「……なくしたら許さないからね。」
いまだ眠りの中にいる声の届かない相手にそっと囁くと、伸は箱をその枕元に置いて寝室を出た。
五人が朝食の席に着いたとき、当麻は伸に何も言わなかった。いつものように眠たげな目でもくもくと朝食をすませると、さっさと寝室に戻った。それから伸が朝食の後片付けを終えて買い出しのメモを書き出しているときに、身繕いを整えてキッチンに姿を見せた。
「ああ、伸。今日、夕飯いらないから。」
「どうしたの?」
「国会図書館行ってくるわ。遅くなりそうだから、先にすましといてくれ。」
「あ、うん。」
「じゃあ、行ってくる。」
「いってらっしゃい。」
その背中を見送って、伸は頬を緩める。
当麻の手には、一昨日、半日かけて伸が選んだ、青みがかったグレーのスウェードの手袋がはめられていた。
結局、当麻が帰って来たのは夜も九時を過ぎたころだった。夕飯はすませてきた、と言いながら、伸が一応、用意してあったサンドウィッチはぺろりと平らげて、一段落ついてから、今はシャワーを浴びている。
先にシャワーを浴びて寝間着に着替えていた伸は、ベッドのサイドテーブルに置かれてある手袋をそっと手にとった。
……気に入ってくれただろうか。
とりあえず、忘れて来なかったということは、あの頭の膨大な知識と情報の中に埋もれずにいてくれたということだ。当麻が傘や手袋や、その他、おおよそ自分が忘れるはずのないものをIQ250にも関わらず失念してしまうということは、それに価値を見いだしていないからだと思う。当麻の頭脳は、時に世間の「当たり前の生活」からずれてしまっている。だからこその智将なのかもしれないが。
そんな彼は、どんな世界を見ているのだろうか。
伸は食い入るように手袋を見つめ、ごくり、と息を呑む。
……他の三人のような不思議が、この手袋にも起こるのだとしたら。
大さじ一杯分の躊躇いと、小さじ一杯分の罪悪感をさらさらと水に流して。
伸は手袋をはめた。
風が吹いた。
ふわり、ふわり、と泳ぐような不思議な風だ。
寝室は風に滲むように溶けて、いつの間にか、伸は果てしなく続く海と空の境界に立っていた。
目に飛び込んでくるのは、一面の輝く蒼。
視界を上に遣る。
夜空ではない。
かといって、まっ暗な宇宙でもない。
きらきらと言い交わすように輝く無数の星々。表面の模様が見えるほど近くに、緑や青の惑星がいくつも浮かんでいる。
オーロラなのだろうか。燃え立つような鮮明な光の帯が、赤から紫、そして青へと次々と色を変えて揺らめいていた。
まるで合成写真のようなーーコンピュータが見る夢のようなーー不思議な空。
空を映している海はさらに神秘的な様相を見せていた。
鏡面のように反射し、空の不思議を映し出している。その水面は時折、風に遊ばれてゆらりと揺れる。そこに映っている景色は輪郭を曖昧にして様々な色が溶け合い、絵の具箱の絵の具を全部まき散らして流したような鮮やかな色を浮かべて煌めいていた。
これだけ色鮮やかな空間に、音はなかった。
全くの無音。
風が水面を攫う音も聞こえない。
耳に痛いほど、しん、としていた。
広い、本当に広い果てしなく続く超越的な無音の空間。
……この世界に、僕は、いや「当麻は」ひとりぼっちなのか。
胸を掻きむしられるような痛みを感じて、伸はぎゅっと手を握りしめた。
……こんな孤独で完璧に美しくてゆるぎのない世界に僕はひとりで生きて行けない。なのに当麻はこんな世界で生きているのか。
まるで、伸のその思いに応じるように、頭の中に当麻の低く落ち着いた声が響いた。
「俺たちはビッグバンの塵の一粒から生まれた。」
言葉が合図のように、ゆっくりと世界が反転してゆく。
空は海に、海は空に。
世界が溶け合い、揺らぎ合い、交わり合う中で、伸はただ、その空間で立ちすくむことしかできない。
ふっと、体が軽くなった。自分を世界に繋ぎ止める重力から解放された、その瞬間。
足元からゆっくりと、空に落ち始めた。
……ああ、このままでは、空に溺れてしまう。
息を詰め、今は空となった海に思わず手を伸ばした。
その手が、力強く握りしめられた。
「伸?」
耳に慣れた声に、伸ははっと顔をあげた。
怪訝そうな顔付きの当麻の目にぶつかって、慌てて顔を逸らす。
「何やってんの?」
「ああ、ごめん。」
手袋をはずしながら上の空で返して、先程見た光景を思い出す。
「当麻って、とんでもないところにいるんだね。」
そこは現実のどこにもないところ。IQ250の頭脳が見る膨大な夢。
……決してあの世界には行けないと、なんとなく思ってしまった。どれだけ手を伸ばしても届かない、そういう世界。
それでも。
当麻は伸から手袋を受けとると、サイドテーブルに置いて、再び、その手を握りしめた。
驚いた伸は、数度、瞬きをしてそれからわずか俯いて握られた手を見つめる。
……当麻の住む世界はとんでもなく自分と違って、僕の手はきっと届かないけれど。
今、こうして握ってくれている手は、間違いなく現実のもので、それを証明するかのように、いつもは冷たい当麻の手は風呂上がりのせいで温かい。
……永遠に、この手を握っていられるならいいのに。
何かを考え込むかのように厳しかった当麻の瞳が、ふっとやわらぐ。
伸の右手を掴んだそのもう片方の手でくしゃり、とやわらかな亜麻色の髪をかき乱して。
「手袋、ありがとな。大切にする。」
ほんのわずか、息を詰める間があった。
「僕じゃないよ、きっとサンタさんからだよ?」
いたずら好きな子どもをからかうような口調で伸が応じると、当麻は口の端だけで笑いを浮かべた。
「ふうん、じゃあ、俺は世界中の子どもたちの敵だな。クリスマスのラスボスだ。」
「なにそれ。」
「俺は、そのサンタの手を絶対に離さない。世界がどれだけ悲しんでも、俺はサンタを独り占めするぞ。欲張りだからな。」
返された言葉の意味を心の内で反芻して、伸は唇を噛み締めた。
まだ握りしめられたままの右手を、そっと握り返す。じわじわと目頭が熱くなる。
……遼の手袋も、征士の手袋も、秀の手袋も、温かくて、ちょっとうらやましかったけど。今、一番、温かい手を握っているのは、そして握ってもらっているのはきっとこの僕だ。
そんな伸の様子に、一瞬、当麻は怪訝な色を紺藍の瞳に浮かべてから、何かに思い至ったように表情を引き締めた。
思いに耽っている伸の、その隙をついて、猫っ毛を弄んでいた手を薄い背中に回す。撫でるように抱き締めて、身体を引き寄せる。
伸はその仕種に驚いて、思わず声をあげた。
「当麻、ちょっ……」
返事はなかった。伸の上半身に覆い被さる形で、当麻はその背中を何度も撫でる。まるで泣き出しそうな子どもを宥めるような、そんなやわらかな抱擁だった。
風呂上がりの当麻の体温が伝わって来て、伸はドクンドクンと自分の心拍数が早くなるのを耳の奥で感じた。
……身体が、熱い。
当麻の体温のせいなのか、それとも自分の体温が上がってるのか。身体は微熱を持ったように火照っている。
その耳元に、低く響く声が降りた。
「絶対に離さない。だから、大丈夫だ。」
強い決意のこめられたその一言に、伸は刹那、おののき、それからすっと自分の中に受け入れた。
当麻に応じるように、握られた右手にぎゅっと力をこめる。その目元に、小さな露を浮かべて。
寝室の静寂に滲み入るような小さな声で呟いた。
……この手をとってくれて、ありがとう。
今年はいろいろ大変なことがあったので、最後くらいはあったかい話で終わりたい……、と思いながら書きました。続きはブログにて。

