白日夢
買い物の帰り道、伸はふらりと井の頭公園に寄った。
この、春の盛りの直前の時期は、いつも何かに呼ばれているような気がして、常よりぼんやりと、そう、無意識といっていいくらい自分の知らないうちに、外へ、外へと出てしまう。
落葉樹はまだ寒そうに木肌を晒したまま、よくよく見れば、新芽が蕾のように膨らんで、触れればぱちりと目覚めそうだ。桜の蕾に至っては、もう淡い紅を浮かべて、今か今かと春の呼び声を待っている。暖かな風のひとつでも吹けば、ざわざわ、ざわざわと咲いて、世界をさくらいろに染めるだろう。しかし、まだその時期ではなさそうだ。一時期の凍えるような身に染みる冬の冷たさはやわらいだものの、大気はまだほんの少し寒さを残している。きりきり、きりりと鳴く鳥たちの姿が、青空に伸びる葉のない枝に点々としている。
春の薫りはするけれども、まだ春になりきらない、そんな曖昧な時期。
桜の賑わうその直前が好きだった。
早春に咲く足許の小さな花を辿り、七井橋までやってくる。と、伸はそこで、珍しいものを見てはたと立ち止まった。
少年が、橋の真中から池を見下ろしている。年の頃は身長から察するに10歳くらいだろう。身長からしか想像することができないのは、その姿が多少、風変わりだったからだ。甚平に、藁草履。昔話の絵本から出て来たような、そんな風体だった。
そして何よりも驚いたのは……彼の背には、甲羅があった。黒ずんだ緑に、黄褐色の綺麗な六角の紋様が入っている。間違ってもランドセルには見えない。
彼は橋を行き交う人々に目もくれず、じっと池を眺め込んでいる。あまり前のめりになると落ちそうだと思い、伸は驚かさないように、そっと声をかけた。
「池に何か落としたのかい?」
「そんなんとちゃう。」
少年は言ってから、ぱっと後ろを振り向いた。精一杯に目を開けて、伸のことを凝視する。
「俺のこと、みえるん?」
関西訛りの言葉が、驚きに充ちている。伸は返事に迷ったが、小さく頷いて相手の裁量に任せることにした。
「珍しなー。60年ぶりくらいや。人間が俺のこと見付けたん。」
「60年?」
「そや。」
半ば威張るような茶目っ気たっぷりの少年に、何をどこから尋ねればよいか伸は困る。河童ですか、と聞くのは憚られるし、どうしてここにいるんですか、というのもこの場面に相応しくない。悩んだ挙げ句、とてもありふれた質問を投げかけた。
「関西から来たの?」
少年は、ぱっと破顔した。
「生まれは摂津やけどな。人間がこっちに幕府作った頃に生まれたんや。そのあと、しばらく西の方を転々としとったけど、200年前にこっちに来てな。ここの弁天さんのとこにお世話になるようになったんや。」
そう言って、池の向こうにある朱色の社を指差してから……そこまでこぼれそうな満面の笑みで喋っていた少年は、突然、語気を弱めて続けた。
「100年くらい前からやろか。ここの水がな、俺らにあわんようになった。汚れてきたんや。仲間はさっさと住処を変えよったけど、俺はここの人が好きやったから、がんばって残った。けどな、大きい戦争があったやろ。あのあと、もう、どんながんばっても住めんようになった。それに、人間も変ってしもうた。俺らのこと、見えんようになった。でもな、約束したんや。いつも、弁天さんのとこに食べもん置いてくれてた別嬪さんと、ここの水がきれいになったら帰って来るって約束したんやけどな。」
そこで言い止して、少年は思いに耽るように井の頭池を覗き込んだ。
「まだあかん。前よりはちいとはましになったけど、こんなんじゃ、俺ら生きていけんわ。」
つられて、伸も池を覗き込んだ。大きな鯉の魚影がいくつも過り、水面を揺らす。
少年の言いたいことが痛いくらいに分かる。
この池は生きている水の気配がしない。管理され、人々の手が加えられ、所々にゴミが棄てられ、底には汚泥が溜っている。何よりも、空の青を映しても、水の面はどんよりと枯葉色だ。
しん、と二人の間におりた静寂をぐうと何かを押しつぶすような音が破った。
少年が顔を耳まで朱の色に染めて、自分の腹を何度も触る。
「あー。今朝、何も食べんと高尾から来たさかい、腹の虫が怒っとる。」
つまり、お腹が空いたらしい。
河童の食べ物……と伸が小首を傾げていると、その顔を覗き込むように河童の少年が言った。
「ねえちゃんも別嬪やさかい、尻子玉うまそうやなぁ。」
口の端をあげて、にやり、と少年が笑う。伸は茫然として返す言葉を失った。尻子玉に、ではなく「ねえちゃん」の方にである。
表情を引き攣らせて、動きを止めてしまった伸に申し訳ないと思ったのか、少年が謝るような口調で言った。
「冗談や、冗談。弁天さんにお世話になるようになってから、悪さはせんちゅーて約束したんや。尻子玉は食べへんから安心し。」
「いや、ええと、そうじゃなくて。」
どこからどうやって少年の認識を正すべきか、いやどちらにしろ尻子玉を取られるのは困るな……そんな具合に伸が心の中で唸っていると、彼がぱっと伸の右手の買い物袋に目をやった。その仕種で、なるほど、と伸は理解した。河童といえばキュウリである。俗信かと思っていたが、そうでもないらしい。サラダ用に買ったそれを、袋の中から出して5本まるごと渡す、と河童の少年は目を輝かせてさも有り難そうに伸に一礼してから、パリパリと景気の良い音を立てて食べ始めた。
「ねえちゃん、どっか行きたいとこあるか?」
キュウリを食べ終えた少年は、伸から貰ったペットボトルのお茶で一服すると唐突に言った。
「行きたいところ?」
ねえちゃん、という少年の誤った認識を伸は修正するのを諦めた。「行きたい所」、少年の言うその本当の意味を考えて目を二度、三度、瞬かせる。彼は胸をはり、少々、凄みをきかせたような物言いで言った。
「こう見えても、俺らは水の神様の使いやねん。水の流れとるとこならどこにも行けるんや。この国は水の国や。行けんところはない。キュウリのお礼に、どこでも連れてったる。」
「大阪でも?」
伸の言葉に、少年は大きく頷く。
「水の流れてるところならって言ったよね。じゃあ……昔にも行ける?」
「昔やて!?」
少年は素っ頓狂な声をあげて、それから何度も首を大きく縦に振った。
「行けるで。行ける。けど、ねえちゃん、昔に何の用があんねん。」
「そうだね。」
池をはるか越えて、伸は遠い眼差しをした。折からの風にやわらかな琥珀色の髪がふんわりと揺れる。
「大切な人が失ってしまったものを確かめたいんだ。」
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