白日夢



 化粧台の前で、女が身繕いをしていた。年の頃は三十路前後だろうか。髪に白いものはなく、まだ肌も瑞々しい。
 これから旅行でもするようにーー彼女の傍らには、荷物が詰められた大きな鞄が置かれてある。
 一通り身なりを整えた女は、一度キッチンへ行き封筒を置くと、鞄を抱えて玄関へと向う。その玄関の扉を開けて、少年がランドセルを背負って入って来た。青みがかった髪とやや目尻の垂れた面差しが印象的なまだ幼い男の子だ。彼女の息子、であった。
「行くのか?」
 足を止めた少年は感情を押し殺した声でぶっきらぼうに言い放った。表情は動かない。硬くこわばったまま、女ーー自分の母親を見上げている。
「ごめんね、当麻くん。前から話してあった通り、母さん、出て行くわ。」
 しばらく、間があった。やさしい空気でも緊迫した空気でもなく、ただ互いが互いを諦めている、そんな空気が流れた。
「大切な書類は、キッチンの机の上に置いてあるから。」
「分かった。元気でな。」
「当麻くんもね。」
 少年の母は、わずかに躊躇した表情を浮かべ、青みがかった髪に手を伸ばしかけた。だが、小さく目を伏せてその仕種を止める。振り切るように少年の横を通り過ぎて玄関の向こう……家の外へと出て行った。
 母親を背中で見送った少年は、その蒼い目には何も映さず、誰に言うともなしに呟いた。
「生まれ持ったものさえも失うんだ。ましてや、自分で手に入れたものを失わない保証なんてどこにもないさ。」

 その一部始終を、伸と河童の少年は見ていた。
 先の時間から来た人間は、過去の人間の目にも映らないし何の影響も与えることもできない、という少年の言葉通り、女もその息子も、二人の存在に全く気付かなかった。
 玄関先で母親を見送ったあと、ぽつんと立ったままの幼い当麻を伸は胸がきりきりと痛くなる思いで見守っていた。
 そうだった。気付いた時から当麻は、いつも誰かに何かを欲しがることを諦めていた。全てを知識や論理で理解しようとする癖は、それらが彼の頭脳をもってすれば必ず手にはいるからだ。俺は何でも知っているから、というその裏で、無意識に自分の持ちえないものを隠そうとしていた……。

 その大きな原因は、恐らくここにあるんだ。

 幼い頃に自覚さえしない、大きな喪失体験。

 伸は頭を項垂れて、目を伏せた。脳裏に、24歳の当麻が過る。最近、小さなスキンシップが増えた。手を重ねたり、ちょっと肩に手を置いたり、時には頬にさりげなく触れることもある。本の中の知識ではなく、自分の事を自分の言葉で話すようになった。その言葉は、今までより少し幼い。ーーそして何よりも、よく笑うようになった。その笑顔は何を隠すこともなく、一つの曇りもなく綺麗だ。
 変って行く当麻を、なんだか成長してゆく鳥の雛でも見るように嬉しく見守っていたのだけれど。
 それでも当麻は、いまだこの大きな喪失体験を抱いたまま。

 この大きく空いた穴を、僕は埋められない……。

「ごめん、当麻。」
 伸はふうわりと、幼い当麻を抱き締める。その両の腕は、細い少年の体をすうとすり抜けただけだった。けれども少年は、何かに驚いたかのように、きょろきょろと辺りを見回す。
「なんだ?」
 冷たく乾いた空気に充ちていた玄関が、一瞬、花の薫を含んだあたたかい風が吹いたようにやさしくなった。それは自分をすいと抱き締めるように流れた。水の涸れた泉のように潤いのなかった心に、静かに、静かに、何かが満ちて来る。
 少年は何を思ったのか、口許だけに小さく笑みを浮かべると、靴を脱いで自分の部屋へ向った。


「ほな、ねえちゃん、元気でな。」
「こちらこそありがとう。」
 河童の少年は、最後まで伸のことを女性と勘違いしたまま、七井橋を渡って自分の住処へと帰って行った。その背中の甲羅を見送りながら、伸は心の中でそっと呟く。
 君が今度、ここに来た時に住めるようにするのが、僕たちの仕事かもしれないね。
 彼の姿が消えるのを見届けてから、伸もまた、自らの仮の住処へと帰った。


 春の一日、ついつい眠ってしまうのは俺のせいではなく、この気温の為である……そんな事を考えつつ、当麻はソファで居眠りから目を覚ました。目覚めたといっても、明晰と謳われる彼の頭脳は3割程度しか動いていない。まだ瞼は閉じたまま、意識だけがうっすらと明るくなる。
 ……そういえば、久しぶりにあの夢を見たな。母が出て行く時の、あの夢。
 ぼんやりとたゆたう意識の隅で、当麻は思い出す。
 最近は見なくなったんだが、また、何故。そうして不思議なことに、あの夢を見る度に味わっていた「嫌な感じ」がなかったのも奇妙だ。いつもは2人しかでてこない夢に、何か別の気配も感じた気がする……。
 そこまで思い起こして、当麻はようやく瞼を開けた。
 誰かがいる。
 ひどくやさしくて儚げな存在。
 ようやく寝ぼけ眼をはっきりと見開いて、視界に入るものの正体を知る。
 海の碧を貴石にぎゅっと閉じ込めたような二つの眼が、じっと自分を見ている。
 その眼から、まるで湖から水か溢れるようにつっと水が流れて、当麻の頬に落ちた。温かい。……そこでようやく、当麻は状況を理解して、半身を起こす。
「伸……? どうしたんだ?」
 その声に反応を示さず、伸は当麻の前に立ったまま、静かに透明な涙を零している、その視界には……大きなものを失った幼い当麻と、失うことを心のどこかでまだ恐れている大人の当麻が二重写しに見えていた。
 しかし、当麻にはその理由が分からない。伸の見ているものが見えない。
「え……。」 
 ふいに、伸がその両の手で当麻の頭を抱き締めた。思わず声を上げてしまった当麻に構いもせず、ぎゅっと力をこめる。まるで、その存在を確かめるかのように。
「伸、何があった……?」
 不安げに当麻は声をかけるが、やはり返事はない。ただただ、伸の心の檻には悲痛な声が響く。

 ……ごめん、当麻。僕は君に幸せになって欲しいのに、あの蛇神を宿してしまった今、君の傍にいられる自信がないんだ。

 窓から射し込むやわらかな日射しを浴びて、しばらくの間、二人は塑像のように動かなかった。
 やがて、当麻がそっと、その柳のような細い腰を抱き寄せる。伸は当麻の頭から手を離し、すとんと彼の身体の内におさまった。まだ涙で潤んだ瞳でゆっくりと当麻を見上げる。その視界がやさしく拭われた。当麻の指で。
 伸の涙を拭きながら、当麻は思う。
 また、俺に言えない何かを隠して抱えて、溺れそうになりながらこうして涙を流している。いつも、そうだ。
 多分、伸自身も気付いていないんだろう。そういう癖が昔からあることを。でも俺は、そういう伸を守ると決めた。
 当麻は伸の瞼から手を離すと、今度はその手で伸の左手を握る。一語一語、確かめて、伸の心に注ぐように言った。
「絶対に、お前の手は離さないから。」
 ぴくりと小魚が跳ねるように、伸は身体を震わせて、それから瞼を伏せた。小さく首を縦に振る。
 いまだ桜は咲かず、春の歩みは遅い。

久しぶりの外伝です。物語の時間的には青梅哀歌の後ぐらい。誕生日だからもう少し幸せな話にしたかったけど、何故かこんな話になってしまいました。河童にまつわるエピソードなどの呟きはブログにて。