あたたかな黄金が降る夜に

 あたたかな黄金が降る夜に 〜宇宙が見る夢〜



 十二月ニ十四日金曜日、夜十時過ぎ。
 当麻と伸は、京王井の頭線の渋谷駅プラットフォームで呆然と立ち尽くしていた。
「これに、乗るのかい?」
 血の気をなくした表情の伸が恐る恐る隣に立つ当麻に尋ねる。当麻もまた狼狽した顔で目の前の電車、正確には車両の中身を見ていた。
 人が多いのだ。いや、多いというよりもそこにいるのは果して人間か否か分からないくらい、人間という物体が詰め込まれている。
 これが噂の乗車率300%というやつか、と当麻は心の中で溜め息をついた。東京の電車の殺人的混雑は世界的にも有名だが、これは予想外の出来事だった。ここまでのプランは完璧だったというのに。
 クリスマスイブということで、秀はまだ若い奥方にクリスマスサービスをするために、朝早くにゲストハウスを出た。征士と遼も東京のクリスマスを見物したいからと昼前に都心へと向かった。そこでようやく当麻は、友人がクリスマスライブをしているから、と伸を渋谷の街に誘い出すことに成功したのだ。
 ライブが終わった後、予約してあったレストランで遅めの夕食を食べ、伸から「楽しかったよ、ありがとう」という言葉を伝えられて『完璧だった』と自己満足の境地に至っていたその矢先の出来事だった。よくよく考えれば、クリスマスイブの金曜の夜の電車など混んで当たり前だ。しかし、そこはまだ帰国して一年と少し、ましてや去年はクリスマスも関係のないスケジュールで暮らして来た当麻にとって、全く予想外だったのだ。
 伸が人混みや雑踏が苦手なのは当麻自身が一番よく知っている。
 吉祥寺周辺は慣れたようだが、新宿や渋谷など人が人とを思わぬ距離の雑踏を目にすると、僅かに顔を曇らせる。電車の中も同様で、様々な人の想いが詰め込まれた人肌が触れてしまう程混んだ電車の中では僅かに眉を顰めて我慢している。
 そういう事も踏まえて、様々な局面で気を配って来たつもりだったのだが。
「タクシーで帰るか?」
「大丈夫だよ、そんな勿体ないこと出来る訳ないじゃないか。第一、金曜の夜はタクシーが掴まりにくいって言ってたのは君だろう。」
「あ……。」
 伸の事を気にかけるあまり、現実をうっかり見落としてしまっている当麻である。
 そんな二人の目の前で人を詰め込んだ電車の扉が閉まり、発車音と共に車体が重そうに動き出した。
「大丈夫だよ。いい大人が満員電車くらいで我がまま言わないよ。それが東京なんだろう。」
 言ってから伸は当麻に笑いかけたが、うまく笑うのに失敗していた。
 憂鬱な笑顔を浮かべる伸を見て、当麻はしばらく考えを巡らせた後、電子時刻表を見上げた。
「じゃあ、次の急行に乗ろう。」
「各駅の方が空いてない?」
「いや、あまり変わらんだろう。それに各駅は16駅もあるんだ。5駅で着く急行の方が楽だと思う。」
「当麻に任せるよ。」
 そう遣り取りしている間にも、すでに乗車の列が出来始めている。
 当麻は慌てて伸の腕を引いて、その列に並んだ。

 車内は想像通り、乗車率200%は軽く越えていると思われる悲惨な状況だった。鯖缶の中の鯖の気持ちが理解できそうな車内で、二人は車両の一番奥、つまりその先は人がいない場所を陣取り、当麻は伸につり革を持たせて自分はその背後に立った。これで、伸は目の前に座る乗車客と左側の人間しか接触しないことになる。
 動き出した電車の中はイブの夜ということもあってか、随分と騒がしかった。
「大丈夫か。」
「うん、平気……。」
 言葉とは裏腹に、その声音は弱々しい。場所的には悪くないはずだが、この一種、特殊な空間に伸は人酔いでもしたようだ。
「キツいようなら寄りかかってもいいから。」
「ああ、うん。」
 伸の力のない声が返って来て、その背後で当麻はわずかに苦い顔になり唇を噛み締める。
 次の瞬間、ふわり、と伸を包む空気の色合いが変化した。
 人の口から出る息や、匂いや、温度や、湿度、そういった物が入り乱れている息苦しい空間から切り離されたかの様に、伸の周囲の空気だけが山奥で涌き出した瞬間の水ような清らかなものに変わったのだ。
「当麻……?」
 驚いて伸は肩越しに当麻を見上げるが、本人はまるで気付いていない様子で『どうした?』と返しただけだった。
 そういえば、と伸は思い出す。
 以前、新宿の街を二人で歩いていた時、前をゆく若い男性が煙草を吸い始めた。その煙に伸が咳き込んだ時も、これと同じ様に突然、空気が変わったのだ。まるで、透明な大気の結界が張られた様に。
 明らかに大気を操る天空の鎧の力の仕業だが、どうやら本人は無自覚らしいので、伸は心の中でありがとうと言っておくだけに留めた。もし本人に言ってしまったら、それこそ、自分と常に行動して大気の結界を張り続けようとするのは想像に難くない。
『……次は下北沢……』
 車内放送が流れた瞬間、ぐらりと車両が揺れた。
 通常なら体が揺れる程度だが、殺人的乗車率の車両が揺れると、人は立つ術を持たず、他人にのしかかるしかない。それが連鎖した車両内はまさに人という肉の押し合いへし合いである。
 その被害に伸は辛うじて免れた。
 咄嗟に当麻が伸を守る様に抱き寄せたのだ。 
「大丈夫だったか?」
「あ、うん……。ありがとう。」
 僅かに高い目線から覗き込まれ、伸はぎこちない口調で返事をする。
 これだけのラッシュで他人が今の自分達の状況に気付くとは思わないが、流石に照れてしまう。
 ラッシュに、じゃなくて、当麻に対して心臓の鼓動が早くなる。
 毎晩、当麻の腕の中で寝ているが、こんなに積極的に抱き締められる、とも言える行為をされるのは初めてだった。もちろん、そういう意味ではないのだが。
 征士を筆頭とする体格が優秀すぎる三人に比べ、当麻はいつもパソコンか本に向かって猫背気味なのでひょろひょろと背の高いだけのイメージがある。なので、いつも眠る時には気付かなかったが、抱き寄せるその腕は思いの外力強く、その胸も自分がすっぽりと入る程広い。服の上から感じる当麻の手の感触に何だか妙な気分になって、居心地が良いけれど恥ずかしい気もするという不思議な心地だ。
 そんな複雑な心境の伸を抱き寄せてしまった当麻自身も、実は途方に暮れていた。
 咄嗟の事とはいえ、まるで求愛するかのようにその身を包み込んでしまった。
 本当に、かつて戦士だったのかと疑いたくなるような繊細な体つきや、顎のあたりに当たる柔らかな琥珀色の髪、全身から立ち上るようなほんのり甘い香りに理性が飛びそうになる。
 極めつけは、抱き寄せたその手のひらに、服越しに肌の温度が伝わって来てその下をありありと想像してしまい、それ以上考えない様に必死になって思考の先走りにブレーキをかけた。何故、冬なのに薄着なんだとあらぬ方向に八つ当たりをしてみる。
 電車は下北沢駅で止まったが、降りる客と乗る客が入れ替わっただけで、相変わらずの肉詰め状態が続く。
 当麻は結局、伸の身体を手放すことが出来ず抱き締めたまま電車は次の停車駅の明大前に向かう。


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