明大前でラッシュは一段落した。
人と人の間に隙間が出来て、ようやく人の乗り物らしくなった車内で、当麻は伸の身体から手を離した。
二人の間に奇妙な沈黙が降りる。
伸はお礼を言いたかったし、当麻は気遣いの言葉をかけたかったが、どうも微妙な雰囲気なのだ。お互いに。
そんな沈黙を埋めるように次の車内放送が流れた。
『……次は銀河ステーション……銀河ステーション……』
え、と二人は顔を見合わす。
「当麻、今、僕、聞き違えたのかな。『銀河ステーション』って……。」
「いや、俺も聞いた。」
言いながら、当麻は周囲の乗客を素早く見回した。誰も気付いていないらしく、車内は変わらない喧騒に包まれている。
「銀河ステーションって、あれだよね。」
「ああ、『銀河鉄道の夜』だな。」
当麻が首を傾げ、訝しげに答える。
「井の頭線にそんな駅あったかな……。」
独り言のように呟いた伸は、ふと車窓の向こうの景色を見た。今まで、満員電車の中ばかりに気を取られて見る余裕がなかったのだ。
ガラス窓の向こうは、家やビルの明かりが流れる様に見えていたが、次第に様子が変わってきた。徐々に人工の照明が消え始め、やがて青白く光る海岸と波頭のように銀色に揺れ光るすすきが姿を現し始めたのだ。
「当麻! 外、見て!」
伸は振り向いて窓の外を指差した。その行動に促され、当麻も車窓の外に視線を遣った。
しばらく窓の外の景色に釘付けになっていた当麻は、その口から無意識に言葉を零していた。
「『青白く光る銀河の岸に、銀いろの空すすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆれうごいて、波を立てているのでした。』だ。」
「それ、原文?」
「ああ、小学生の時の読書感想文の課題図書だったんだ。二度も読んだから覚えてる。」
言ってから、当麻は再び車内を見回した。やはり、誰も外の様子に気付いてはいないようだった。そもそも、電車を移動手段とする都民で、画一的な風景が広がる車窓のの向こうに気を払う方が珍しい。
突然、車内が目も眩むように白く明るい光に包まれた。
思わず目を閉じた二人が、再び目を開けた時、車窓の向こうに見えたのは、ぼうっと青白く後光のさした一つの島だった。その島の平らないただきに、目も覚めるような十字架が建っている。
「じゃあ、あれって……。」
伸が続けようとしたとき、突然、二人の間に声が割り込んで来た。いや、正確には、二人だけの世界にそっと語りかけてきたというべきか。
「あなた。北十字まできましたから、次はプリシオン海岸ですよ。」
伸の立つ前の席に座るおばあさんだった。随分と高齢にも見えるが、醸し出す雰囲気は生命力に満ちていた。皺はあるが目立つことはなく、うっすらと施した化粧が彼女の気質を物語っているかのようだ。
「何十年ぶりかのう。前は確か、ばあさんと新婚旅行で乗った箱根鉄道だっただろうか。」
おばあさんの隣に座るこちらも年を重ねた男性が答えた。姿勢が良く、帽子とステッキが様になっている。
「誰かが願っているんでしょうねえ。昔の私たちみたいに、この電車を降りたくないと。」
「こんな夜だ。誰かとずっと一緒に居たいと願ってもおかしくはないだろうよ。」
その言葉を聞いて、当麻と伸は互いに顔を合わせた。そして、相手も頬を赤くしているのを見て取って、慌てて顔を背ける。
しばらく、交わす言葉はなかった。
車窓から見える風景から十字架が消えた頃、当麻はそっと伸を抱き締めた。
そして、耳元で囁く様に言った。
「『銀河鉄道の夜』のオチって知ってるか?」
感覚の鋭敏な所を低い声で刺激され、伸はくすぐたったいようなじれったいような感覚に僅かに身を強ばらせる。
「確か……最後、死んじゃうんだよね。カンパネルラが。」
そこまで言って、伸は気付く。
このまま話の通り進んでしまえば、どちらかが本当に居なくなってしまうかもしれないんだ、と。
「降りような。」
当麻の低い声に、その声が与える身体のどこかもどかしい燻りに、伸は甘い吐息を漏らした。
そして、うん、と小さく頷く。
それを聞いていたかの様に、おばあさんが言った。
「まあ、電車が再び地上に降りたみたいですね。」
「そのようじゃな。いやしかし、こういう幸せな奇跡を起こせるくらいだから、きっといつまでも一緒にいることができるだろうねえ。」
窓の外には、再び、コンビニやアパートや人々の住む人工の灯りが色とりどりに織りなす風景が戻っていた。
吉祥寺駅で電車を降りてから、二人はしばらく何を話せば良いのか分からなかった。
若干の気恥ずかしさに加え、たった5駅の帰りの電車に乗っただけなのにあまりにも多くの事が有りすぎて、何を切り出せば良いのか話題を選び損ねていた。
駅前を離れ、人工の灯りが少なくなり始めた頃。
「ねえ、当麻。」
「なあ、伸。」
二人同時に口を開いてしまい、また会話が途切れた。
替わりに、互いに目を合わせたまま笑い出してしまう。
伸は当麻の珍しく無垢な笑い声を聞きながら思う。
きっと、言いたい事は同じだったんだ、と。
ふわり、と金色の小さな光が当麻の肩に落ちたのを、伸は見逃さなかった。無意識にそこへ手を伸ばす。しかし、それは肩に落ちたまま消えてしまった。
「どうした?」
不思議そうな声で当麻が尋ねる。
「いや、今、大きな蛍みたいなものが……。」
言い止して、伸は夜空を見上げた。
雪が降って来ているのだ。
後から、後から。
まるで、地上に生まれて来るかのように。
「雪か……。」
当麻もまた、夜空を見上げる。
「雪まで金色だね。しかも、この雪、あったかいよ。」
伸は夜空に手を伸ばすような仕種をして、手のひらに、雪のひとひらを受け止める。
それは、あたたかな温度を確かに伝えて、儚く消えた。
「こんな事もあるんだな。」
当麻もまた、それを手のひらに受け止めた。いつもならば、こんな奇妙な現象について気象学の立場からあり得るか否か考えるのだが、今日は何故か、そんな風に考える気にはならなかった。
二人の上に広がる空から、あたたかな黄金の雪が、後から後から降ってくる。
キンと冷える冬の冷たい空気の中、黄金はさらに輝いて見えた。
どこかで教会の鐘が鳴る音がした。
いつのまにか、日付を越えたようだった。
聖夜を告げる厳粛で清らかな音。
当麻はそっと伸の手を取った。鐘の音に促されたかの様に。
伸もまた、その手を握り返す。その想いに応えて。
二人はもう一度、揃って夜空を見上げた。
きらきらと輝く黄金が、ふわふわと舞い落ち、やさしく二人を包む。
後から、後から、二人の上に広がる冬の空から音もなく黄金の雪は降り続けた。
続き

