対幻想(つがいげんそう)

 対幻想(つがいげんそう)

「自己ひとりでは少な過ぎるが、自己と他者ふたりでは多すぎるのだ。」
       ダナ・ハラウェイ 「サイボーグ宣言」



 その日の夕食、俺は初めてナスティの旦那と席を共にした。
 ナスティの隣に座る彼は、三十路を過ぎているとは思えない若作りをしていたが、それが嫌みにならないくらい同性の俺から見てもいい男だった。
 食事の後、彼は年上の男性らしく、俺たち一人ひとりに不必要に踏み込まない範囲で現在の生活や将来の夢について尋ねて来た。
 彼の態度や物言いには全く非はなかった。
 ナスティの旦那ということもあり、気を許した他の四人がてらいなく質問に応じる中、俺は彼と目が合った瞬間、席を離れ、態度でその質問に答えることを拒否した。


 その夜。
「当麻。」
 布団の中、腕の中の伸が静かに語りかけてきた。
「ナスティの旦那さんは、君にとってそんなに気にくわなかったのかい?」
「別に。ただあの質問に答えても、あいつには理解できないだろうと思っただけさ。」
 彼は、自分の夢をこう語った。
 東京で家を持つ事がこんなにも難しいという状況を、僕はなんとかしたい。
 だから、環境に配慮し、デザイン性にも優れていて、それが一般の人にも手に届くプロダクツを作りたい、と。
 なんと現実的で、自信に溢れた夢だろうか。
 そんな奴の前で、自分の幼稚な夢を語るのが怖かった。
 確かに、俺は世界規模で仕事を請け負ったり人脈を作ったりしている。けれども、それは単に趣味と実益を兼ねたものであって、決して将来の夢に繋がる物ではないと熟知してのことだ。もしかすると、俺の作ったプログラムが誰かの役に立っている可能性はあるかもしれないが、俺は誰かの為に仕事をした事はない。
 それに比べ、彼は「首都の住宅事情」という現実に基づいてそれを改善しようという「誰かに役に立つ」夢を持ち、それに向かって生きている。劣等感は抱かないが、そんな真っ当な人間に、自分本位の俺の幼稚な夢はきっとまさに「子供じみた夢」として受け取られ、俺はそういう人間だと思われるのが嫌だったのだ。
「ふうん、それは僕にも理解できないものかい?」
 俺に背中を向けていた伸がもぞもぞと動いて、こちらを向いたようだった。薄闇で見えないが、多分、伸はいつもの凪いだ海のような穏やかな笑顔で俺を覗き込んでいるのだろう。
「笑うなよ。」
 それでも、一応、牽制はしておく。形だけだが。
「俺の夢は、普通の人間になることだ。」 
 普通に恋愛をして、新聞もニュースも疑うことなく信じることができ、バラエティやドラマを楽しみ、世間話も苦にならず、会社の歯車として働いて、家族を持ち、週末には親子でドライブをする。
 社会というのは、差はあれど、そういった大多数の家族から出来ていることを大人になって知った。中には仮面を被っている奴もいるが、どんな形にしろ誰かと暮らし生活を営んでいる。それが「普通の人間」だ。誰かと暮らす事にためらいも、疑いもない。
 そんな他人と暮らす事ができる「普通の人間」を今の俺は羨ましいと思う。
 若い頃はそれらを対幻想の成れの果ての姿だとどこかで蔑んでいたが、いつの頃からか対幻想に疑いを持たない彼らの方が幸せだと思える様になった。
 何もかも知る事よりも、知らない事の方が時には幸せな選択をできるのだと。
「当麻らしい夢だねえ。」
 伸はその言葉をどう解釈したのか分からないが、細い腕を背中に回して来てそっと力をこめてから言った。
「今は分からないけれど、当麻がそう望むなら叶うんじゃないのかな。望んでいるということは、きっとその方向にすでに動いていることだと思う。だとしたら、いつかは『そう』なれるんじゃない?」
 そんなに簡単なことじゃないんだがな。
 伸の言葉にそう反論しそうになるのを我慢して、俺は寝ることにした。

 続き