夏の幻


 翌日、昼食を済ませた遼と征士は伸の焼いた鯛と鯵を持って、公園の池にかかる橋のたもとで、じっとりと汗を滲ませながらやってくるであろう仔猫を待っていた。しかし、真夏の太陽が天中し、日射しが熱の直線のように降り注ぐ公園には、猫はおろか、人の影さえ伺う事はできなかった。
「おかしいな。暑さで具合でも悪くなったのかな。」
 落ち着かない様子であたりを伺う遼の隣で、征士は黙って池の北西にひっそりと有る朱色の社を見ていた。そこから、遼に纏わりつく異界の気配を感じていたのだ。
 橋に着いてから三十分が過ぎて、遼が公園内を探そうと言い出したその時。
 小学校にもあがらぬであろう年端のいかない幼い男の子が、とことこと小さな歩みで橋を渡って遼の元へとやってきた。そして、遼の足に頬を擦り付けてから、その顔を上げてあどけない笑みを浮かべる。
「どうした、お前? 一人なのか? お父さんやお母さんは?」
 懐いてくる子どもの頭をぽんぽんとやさしく叩いて、遼は本職の保育士の表情を浮かべた。その笑顔はたくさんの子ども達に安らぎと勇気を与え、未来に歩むことを支えて来たものだ。
 しかし、子どもは一言も答えず、ただ遼の顔を見上げてニコニコしているだけだ。時折、その足に頬擦りをする。
 二人の様子を一歩離れて伺っていた征士は、遼に気付かれぬよう表情に出さなかったものの、子どもが放つ異界の住人特有の気に、心の中で警戒し身構えた。
 子どもに、影がない。
 まるで、それに気付いたかのように子どもは遼の足に頬擦りするのを止めると、じっと征士の方を見つめてすぐに遼の背後に隠れる。
「征士。」
 困ったような、呆れたような声音で遼が苦笑する。
「男の子が怯えてる。そう身構えるなよ。」
「しかし、遼……。」
 征士には、明らかに子どもが人の子ではないことが分かっていた。おそらく、赤い血が流れていないであろうということも。悪い気配がないとはいえ、普通の人間が異界のモノと接することは予想外の出来事が起きる可能性がある。その被害が遼自身に被る場合も時にはあるのだ。征士にとって、それは何としても避けなければならないことだった。
「お前、もしかしたら昨日の仔猫?」
 足下に懐く子どもに遼が慈しむように声をかけると、言われた本人は僅かに首を傾げただけだった。
「そんな訳ないよな。一人なの?」
 子どもはこくりと頷いて、弾けるような笑顔を浮かべた。
「家が近いのか?」
 小学校にもあがらないような子どもが親の付き添いなく一人で公園にいるということは、公園が自分の庭のようなものなのだろうと解釈した遼の問いに、またも子どもは頷いて笑顔を見せた。
「じゃあ、俺と遊ぼっか?」
 遼の明るい声に、足下の子どもが飛び跳ねて喜ぶ。
 つられて、遼も童心に帰ったかのようなやんちゃな笑みを浮かべると征士に焼き魚の入った袋を渡す。
「俺、あの子とそこの遊具で遊んでくるよ。これ、征士に預けとく。」
「遼……。」
 咎めるような声音で困惑した表情を浮かべる征士の耳元に、遼は身を寄せて囁いた。
「大丈夫。征士の心配しているようなことは起きない。ありがとな、征士。」
 すっと征士から体を離した遼は、そのまま子どもと一緒に、ブランコや滑り台のある遊び場に走り出して行った。


 二人を見守ることができる場所にベンチを見つけて、征士は腰を下ろした。
 容赦なく降り注ぐ真夏の太陽。風がなく淀んだ大気。自らの季節と謳歌する蝉の声。
 異郷の夏を征士は身を以て実感していた。
 目の先で、子どもが転んだのを遼が抱き上げて笑いかける。一瞬、泣きそうになった子どもは遼の笑顔に返すようにはじけるような笑みを見せた。
 ああ、これが本当の遼なのだと征士は思う。
 全てを焼き付くし無に帰す業火ではなく、人を温める炎が遼なのだ。
 初めて出会ったのは新宿だった。
 烈火の鎧を纏う炎の戦士。
 少年の彼の瞳には、邪悪に対する激しい怒りと、己の宿業への哀しみがあった。
 脆い、というのが第一印象だ。これで剣を振るうことが出来るのかというのが率直な思いだった。
 考え方も行動も直情的で、心静かに物事を見つめることを知らない。
 けれども、戦いを共にしてゆくうちに、それが遼の遼たる所以なのだと知った。仲間の為なら自らを忘れ、後先考える事なく走り出し、身を呈して守ろうとする。それは、心静かにしていてはできない。現実の戦いは、剣道の試合ではないのだ。
 だから彼が、烈火、炎の鎧を纏っているのだと勘違いしていた。
 一度、阿羅醐城を破った後の休息で、ナスティの別荘で一時の共同生活を始めた時だ。
 食事の度に居心地が悪そうな、というより、ぎこちない様子なのを見咎めた伸が遼に事情を聞くと、「大勢で食事をするのに慣れていない」という理解し難い返事が帰って来た。そこで初めて皆、遼の家庭環境について聞く事になったのだ。
 遼の母上は早くに儚い人となり、父上すらも写真家という仕事のせいであまり家にいることはないという。一人っ子の遼は白炎と育ったようなもんだと笑って言った。その台詞に皆が言葉を失い、秀が緊張した場を必死に取り繕おうと空元気で大騒ぎを始めた。 
 私はその時、奇妙な違和感を覚えた。
 仁の心は人を、生きとし生けるものを慈しむ心。
 確かに遼は、戦いを共にする仲間や、時には戦闘の邪魔にもなりかねない純にも対等に優しかった。
 それは、伸のどこか一歩ひいた気遣いとは違う、ひたむきで真っ直ぐな優しさ。
 間違いなく遼は深い愛情を持って、世界と接している。
 しかし、遼自身はその愛情を誰から与えられたのだろう。
 それは、胸の不可思議なしこりとなって私の中に重く留まっていた。
 長い死闘が終わり、鎧を脱いで一個の人間に戻った時、私は戦う前よりも強くなった自分に気付いた。
 力量でも技量でもない。誰かを想う、心だ。
 これまではただ、剣の道のためと磨いてきた腕は守るべきものを知らず、己の自己完結で終止していた。しかし、仲間と出会い他者を本当の意味で知り、その他者に心から感謝をすることができた時、自然と彼らを守りたいと思うようになったのだ。いや、正確には、自分は守るものがなければ強く有る事ができないと知ったのだ。
 だから、守りたいと思うようになった。
 ……遼を。
 その発端は、確かに罪悪感にあった。その後もなくなった訳ではない。
 戦いを終結させるためとはいえ、遼を殺めた事実からは逃れられない。
 遼を救ったのは私たちではなく、命の勾玉の奇跡だ。
 贖罪という意味で遼が特別になった一方で、私は例の不可思議なしこりの謎が解けないまま遼の明るい笑顔を眩しい気持ちで眺めていた。
 何故、遼はあんなにも真っ直ぐな優しさを他者に与える事が出来るのか。
 誰が遼に、他者をひたむきに愛することを教えたのか。それとも仁の戦士として、それは生まれつき備わっていた物なのだろうか。しかし、天性の物だとしても、人は愛する術を他者から学ばなくてはならない。一人っ子で親兄弟といったものから縁遠い遼は誰からその術を学んだのか。
 そういった想いを持ちながら、いつしか、私の中で遼は、他の三人と違う特別な存在となり、自ら進んで、他者をもっと知りたいと、遼の優しさの源を知りたいと願うようになった。
 生まれて初めて、片目ではなく両の眼で、他者の心を見たいと欲した。
 戦いが終わる事で遼との絆が疎遠になるのが怖いと思った。
 だから、柳生邸で過ごす最後の日に、その想いを告げたのだ、「守りたい」と。
 遼の深い愛情を挫(くじ)くものがないように、再び業火に身を投げ出す事がないように、そして私自身が強く有るために。
 それを遼はどう受け止めたのか、今でも分からない。ただ、いつもの明るく鮮やかな笑顔でそれを許してくれた。身勝手な言動を嫌な顔ひとつせず受け取ってくれた事に、私は深く感謝した。
 柳生邸で別れた遼との再会は、意外にも早く訪れた。
 その年の四月の半ば、遼から電話があった。ゴールデンウィークに山梨に遊びに来ないかという誘いだった。
 聞けば、柳生邸で共同生活という名の合宿のような暮らしをして以来、一人で過ごすことが寂しいと感じるようになったという。学校も休みになってしまうゴールデンウィークは友人に会う事もないので、せめて誰かと過ごしたいと思うんだ、と電話の向こうで遼は張りのない声で笑っていた。そして何かを確かめるかのように「寂しいなんて、この歳で言うのは恥ずかしいよな」と付け足した。
 その一言に、私は己の心を見透かされたような気がして、返答に躊躇した。
 戦いが終わり仲間と別れ、まだ一ヶ月も過ぎていなかったが、私は、己の心にどこか欠けてしまった部分があることに気付いていた。欠けてしまったものの名前は分からなかった。ただ時折、死線をくぐり抜けた日々を思い出す度、その欠けた部分が疼くように痛むのだった。
 遼の言葉は、まるでそんな私に欠けた部分の名前を教えてくれたようだった。
 それを「寂しい」というのだと。
 私は竹刀を振りながら、それでも満たされず、「寂しい」という感情を生まれて初めて抱えていたのだと、遼が教えてくれた。
 ゴールデンウィークは遼の家で過ごすと告げた時、祖父も、両親もそして姉も妹も瞠目して、ただただ私を見つめるだけだった。当然だろう。家の都合でもなく、剣の為でもなく、学校の行事でもなく、鎧の宿命でもなく、純粋な私自身の意思で行動を起こすなど、私がこの世に生まれ落ちてから一度もなかったのだから。そして、告げた私自身も驚いていた。己が、剣の道以外の事にこれだけ執着するものができるとは思ってもみなかったからだ。

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