夏の幻

 夏の幻


 猛暑日が続く八月半ば。
 お盆休みの吉祥寺の街の人影はいつもより三割減で寂しさを漂わせる。
 そんな街で初めて夏を迎えるゲストハウスの住人も、一人を除いては湿度の高い市街地特有の気候に辟易していた。緑の多い公園の裏とはいえ、水分を多く含む重い大気と容赦なく照りつける太陽の力強さに変わりはなく、必要最低限以外の外出を控えていた。一人元気なのは火の性である遼である。暑さにうだる四人を尻目に、毎日のように公園に出かけて夏を満喫していた。


 そんな夏の一日の夕食時。
 テーブルに並べられた鯛の塩焼きをじっと見つめて、遼が黙り込んでいる。
「どうしたんだい、遼。」
 対面の伸が不安そうに尋ねる。
「具合でも悪いのかい?」
「いや、そうじゃないんだ。……鯛なんて、豪華だなって思って。」
 伸の言葉を否定するように遼は明るく笑った。
「ああ、遼は昼間出かけてたから知らなかったね。隣のお宅の方がお盆休みを利用して大島まで釣りに行っていらしたそうだよ。たくさん釣れたから、お裾分けを頂いたんだ。」
「そうなんだ。」
 小さく呟いたまま、遼は箸を取ろうとしない。
「もしかして遼、鯛が苦手とか?」
「そんな事はない。前に勝浦の民宿に泊まりに行った時、鯛のフルコースを食べている。何があった、遼。」
 自分の箸を置いて、征士が静かに尋ねる。そこには厳しさではなく愛しい者を気遣う優しさが含まれていた。
 遼はちらりと征士を見て、かなわないなと呟いてから事の顛末を話し始めた。
「今日さ、公園で仔猫と遊んだんだ。まだ三ヶ月くらいのちっちゃなやつでさ。周囲を見回しても母親らしき猫はいなくて、だから多分、捨てられたんじゃないかと思う。普通なら人間が近付いたら警戒するのに、その仔猫は全然、怖がらずに俺のところにやってきたんだ。さっき、橋のたもとで別れる時に、明日も遊ぼうなって約束してきた。そいつ、お腹空いてるんじゃないかと思って。だからこの鯛を喰わせてやりたいんだ。」
 一瞬の間をおいて、征士と本人を除く三人が唖然として遼を見つめた。
「お前、本当に変わんねえのな。」
 ま、それがいいところだけどよ、と付け足して秀が笑う。
「仔猫の方も、遼の仁の心を嗅ぎ付けてやって来た訳だ。」
 当麻の批評に、遼が僅かに眉を潜める。
「まあ、なんというか、遼らしいというか。大丈夫だよ、遼。魚はたくさん貰ってるから仔猫用の魚を明日、焼いてあげるよ。だから、遼はちゃんとその鯛を食べること。分かった?」
「ほんとか?」
 伸の言葉に、遼は生き生きとした瞳で表情を輝かせた。浮かべた笑顔は今を盛りと花咲く向日葵のようだ。 
 冷めないうちにね、という伸の言葉に促され遼は箸を取った。
「では明日も仔猫に会いに行くのか。」
 隣に座る征士のどこかやわらかな声音に遼は迷いなく答える。
「ああ、きっと喜ぶぜ!」
「私も一緒に行っていいだろうか。」
「いいけどさ。征士、絶対に正面から見るなよ?」
「……分かっている。」
 二人の珍妙な遣り取りに正直な疑問を差し挟んだのは秀だった。
「なんだそれ。征士が正面から見ると問題でもあるのか?」
「そうなんだよなー。征士ってほら、相手を正面からじっと見る癖があるだろ? だから動物たちが怯えるんだ。前に上野動物園に一緒に行った時に、動物たちがみんな怖がっちゃてさ。檻の隅から出てこないんだよ。」
 説明する本人には全く悪気はないのだが、話題の当人はその隣で白皙の頬を僅かに染めて四人の視線が集中するのを感じながら、箸をすすめた。


 夕食後、リビングで遼と秀と一緒にテレビゲームで盛り上がっていた当麻を、征士がダイニングに呼び出した。
 この部屋の主ともいうべき伸はすでに姿がなく、広いダイニングは先刻までの喧騒が嘘のように静かだった。
「頼み事があるんだが。」
 話を切り出したのは征士の方だった。真摯を通り越して、深刻な面持ちだ。それを察して、当麻の方も軽口を最低限にとどめた。
「お前が伸じゃなく俺に頼み事ってのは、穏やかじゃないな。」
「遼に死臭がほんの少し纏わりついている。」
 その言葉に、当麻もまた眉を顰めた。五人の中で、征士は伸に次いで、異界のモノへの嗅覚が鋭いことを身をもって体験している。
「妖か?」
「いや、そういうモノではないと思う。仮にそうであったとしても、悪いものではない。ただ……。」
 曖昧な事が嫌いな征士にしては珍しく、語尾を濁した。何か考え事をしているようだった。
 わずかな時間をおいて、征士が続けた。
「炎が見えるのだ。その死臭の影に。それもただの炎ではない。戦火、おそらくは第二次世界大戦のものだろう。一面に焼き尽くされる映像を、それは伝えてくる。」
「東京大空襲か。」 
 二人の間に沈黙が下りる。戦争を知らない世代ではあるが、命をかけて戦うことについては十代で体験している。
「昼間、遼が遊んだという仔猫が多分、それに関係があると思うのだが、残念ながらここは私の地元ではないのでな。街の歴史に疎い。それでお前に調べてもらいたい。」
「吉祥寺が空襲で被害にあったという話は聞かないが。まあ、いい機会だ、調べてみるさ。もちろん貸しだぞ。」
「ああ、ゴミ出し一週間、代わってやる。」

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