おねえさんの誕生日

 おねえさんの誕生日


 それは突然、やってきた。
 夕飯の片付けも終えて、5人がリビングで思い思いに過ごしている時だった。

 ドンドン、ドンドン。ドンドン、ドンドン。

 無遠慮に叩かれる入り口のドア。
 こんな時間にゲストハウスを訪ねてくる人物に思い当たる節もなく、5人は顔を見合わせた。
 たとえ近所の人が緊急に何かを伝えに来たとしたのだとしても、インターフォンがあるのだからそれを使うだろう。
「泥棒かなぁ」
「そりゃまた、律儀な泥棒だな」
 秀と当麻の間の抜けた会話を尻目に、伸はティーカップを置いて立ち上がった。
「僕が見てくるよ」



 玄関のドアはまだ、音を立てていた。
 さすがに薄気味悪いので、一応確認をとる。
「あの、どちらさま……」
「わたしよ! 伸、あけなさい!」
「ナスティ!」
 耳に馴染んだ声色に、慌てて伸はドアを開ける。
 すると、ナスティが踊り込むように玄関へと入って来た。そして、そのままへたりと、座り込んでしまった。
 よくよく観察すれば、ピンヒールの片方はないし、右手に握ったジャケットは皺でくしゃくしゃだ。自慢のストレートヘアもばさばさである。
 一瞬、悪い想像を巡らせた伸は、恐る恐る遠回しに尋ねた。
「ナスティ。その、何かあったのかい」
 自分もかがみ込んで、ナスティと同じ顔の高さで伸が尋ねると、ナスティは顔をあげて、一瞬、じっと伸の瞳を奥を見つめた後、盛大に泣き始めた。
 騒がしい玄関に訝しんだのか、リビングでくつろいでいた面々も姿を現した。
 眼前の状況に呆然とする3人とは違い、遼は慌てて伸の隣、ナスティの近くに駆け寄って真っ直ぐに見た後、まくしたてるように言う。
「どうしたんだ! ナスティ! そんなにボロボロになって。悪い奴に絡まれたりしたのか?」
 多分、東京でそんな目に合ったならナスティはここにはいないだろうな、などと当麻が冷静に判断を下していると、その視線の先でナスティがすくっと立ち上がり、涙声でご近所中に響き渡るくらいに叫んだ。

「もーう!! 男なんてサイテーッ!!」

 そこに居た、生物学上の男5人は、ぱきっと固まって動けなくなった。血縁でこそないが、自分たちが姉のように慕っている人から、まさか自分達の存在を全否定されるとは思ってみなかったのである。
 一瞬の沈黙の後、征士が独り言のように言った。
「ふむ、アルコールで心が乱れているのか」
「俺の見たところ、旦那さんと何かあったんじゃないのか」
 他人事のように言い放つ当麻に、秀が何か怒りを禁じ得ないものを感じたらしい。
「独身には分からない苦労があるんだよ。新婚のナスティがこんなに取り乱しているってことは、大事件だぜ?」
「そうなのか?」
 炭酸の抜けたコーラみたいに味気ない当麻の言葉を無視して、秀は伸に声をかけた。
「ずっとそのまんまって訳にもいかないだろ。とりあえず、上がってもらわないか?」
「そうだね」
 秀の判断を最善ととり、伸はナスティの気に障らないようになるべく柔和な声音で言葉をかけた。
「ナスティ。ここじゃなんだから、とりあえず上がらないかい?」
 伸の言葉に促され、ナスティは片方だけのピンヒールを脱いだ。
 その瞬間、ぐらりと体が揺れ、伸が慌てて抱きとめる。
「ナスティって、お酒弱かったっけ?」
 遼の問いに、伸は若い頃、ナスティ自身が言っていた言葉を思い出した。
「いや、ワインに関しては水同然だと言ってたから、決して弱くはないと思うんだけど」
「ということは、飲み過ぎってやつだな。リビングに通すより、そのまま寝室に運んだ方がいいんじゃないか」
「そうだね」
 当麻の言葉に頷いて、伸はナスティの肩を抱いて歩き始めた。その背後から疑問の声がかかる。
「寝室はいいけどよ。誰の寝室だ?」
 秀の問い5人が互いに視線を交わす。この重要な問いに結論を出したのは、当のナスティだった。
「伸の寝室に決まってるでしょ!」
「え?」
 思わず声をあげた当麻に、ナスティの厳しい眼差しが突き刺さる。
「何、当麻、あなた文句あるの?」
「……ありません」
 この瞬間、5人の心に阿羅醐よりも怖いものが地球には存在するのだと深く刻み込まれたのだった。



 ベッドの端に座ったナスティは、泣き止みこそはしたものの、彼女に相応しくない暗い瞳で俯いたままだ。 
 伸はグラスに注いだミネラルウォーターをナスティに渡すとそっと尋ねた。
「ナスティ、言い辛かったらいいんだけど、僕で良ければ何があったか話を聞かせて欲しいな。一人で抱えているより、誰かに話した方が楽になれると思うんだ」
 隣に座る伸の、穏やかで静かな言葉を聞きながら、ナスティは小さく溜め息をついた。
 グラスに一度口付けて、それから自分に言い聞かせるようにゆっくりと話し始めた。
「分かってるの。元はといえば、私がうっかりダンナの会社用の携帯に出ちゃったのが良くなかったの。若い女の子が電話口にでて、『啓介いる?』って聞いてくるのよ? おかしいと思って、仕事用携帯のアドレス帳を見たら女の子の名前がたくさんあったのよ! どう思う?」
 どう思う、と聞かれても微妙な立場の伸である。
 伸はナスティの夫である「須ヶ崎啓介」氏に関しては殆ど知らないし、その職業である建築デザイナーという仕事も畑違いで詳しいことは分からない。だから、ナスティを宥めるために同意するにも理由が見つからないし、誤解を解く為としても背景事情が飲み込めない。
「あのさ、ナスティ。僕は旦那さんの事も仕事のこともよく知らないんだけど、ナスティが選んだ人が悪い人だとは思えないんだ。だから、きっと何か理由があるんじゃないのかな。その件に関しては」
 伸が無難な言葉を選びながら話しかけたが、どうやら失敗したようだった。怒りを含んだ静かな声で、ナスティが伸の顔を覗き込む。
「伸もダンナをかばうのね? やっぱりあなたも男の仲間なのね?」
「いや、僕、男だから」
「伸だけは分かってくれると思ったのに!!」
「気に障ったんだったらごめん、ナスティ。そんなつもりじゃなかったんだ。ただ本当に、ナスティの旦那さんがナスティの思っているような悪いことをしていると僕は思えないから。だってナスティ、旦那さんの話をする時、とても幸せそうじゃないか。そりゃ、僕は結婚していないから苦労は分からないけれど」
 言ってから、恐る恐るナスティの横顔を覗き込むと、その表情からは先程の激しさは消えていた。
 一安心して、ほっとしたのもつかの間、ナスティはふらりと立ち上がりベッド脇のテーブルにグラスを置くと、突然、伸の両肩を強く掴んだ。そして、多い被さる形で顔を近づけてくる。
「そういう伸は、当麻とどうなってんのよ」
 唐突な展開に固まってしまった伸に、ナスティはなおも詰め寄る。
「ナスティ、何のことを言ってるんだい?」
「今更ごまかそうとしても無駄よ。あなた達2人の間に、何かがあることは10年前からお見通しよ。女の勘を甘く見ないで!」
「いや、ナスティ、本当に僕と当麻の間には何もないから。ただの友人だよ」
「一緒のベッドなのに、寝た事もないの?」
「有る訳ないじゃないか! だからただの友人だってば!」
「キスぐらいはあるでしょ?」
「ないよ、本当に何も!!」
 強く否定すればするほど、「何かある」と言っているようなものだが今の伸はナスティの事で精一杯で気付かない。逆に、そのことに気付いてしまったナスティは、伸を問い詰めることをやめ、妖艶な笑みを浮かべた。
「そう。じゃあ当麻に遠慮することないのね?」
「え?」
「旦那が浮気するんだったら、私も浮気するわ。どうせなら若くて可愛い子がいいわね。伸みたいなユニセックスな子」
「ちょっとナスティ?」
 完全に据わっているナスティの目に、伸は得体の知れない恐怖を覚えた。
 両肩のナスティの手に力が入り、伸は体を硬直させ、呼吸を止める。
「だから伸。わたしを抱きなさい」
「何言ってるんだよ、ナスティ! 正気に戻ってよ!」
 声を上擦らせてナスティの手から逃れようと伸は身を捩ったが、思いのほかナスティの力は強く効果がなかった。相手が男なら殴ることも突き飛ばすことも出来ただろうが、相手は女性、ましてやナスティである。出来る訳がない。
「怖いの? なら、私が伸を抱いてあげる」
「ナスティ!! 待って、本当に待って!! ここは話し合おう。僕がちゃんとナスティの話を聞かなかったのが悪いんだよね。ごめん」
 半ば泣きそうな表情で伸が懇願すると、ナスティはすっと顔を遠ざけて小さく笑った。
「ホント、伸は真面目なのね。これで本当に襲ったら、わたしは立派に犯罪者だわ」
「ナスティ」
 伸の肩からナスティは手を離すと、すっと笑みを消し、憂いを含んだ表情を浮かべた。 
 その様子に、伸は胸の痛みを覚える。
「伸、悪いけどわたし、このまま寝るわね。疲れちゃったわ。着替えは持って来てるから、明日、シャワー借りるわね」
「借りるも何も、ここはナスティの家じゃないか」
 そうね、と笑って、ナスティはベッドに潜り込んだ。その様子に、伸は今更ながらナスティが随分疲れていることに気付く。
「あとね、伸にお願いがあるの。明日、吉祥寺でダンナと食事をするの。伸も一緒に来てくれないかしら」
「え、僕が? いいのかい、せっかくの休日なんじゃない?」
「いいの。今の気分でダンナと2人っきりなんてイヤ」
 女心は難しいとは誰が言ったのか。母も姉も自分にこんな風に甘えるような人じゃなかったなと伸はふと思う。それは、伸が次期当主として背伸びしていたせいもあるのだが。
 いつの間にか、ナスティの寝息が聞こえて来た。
 ベッドサイドの時計を見るとまだ眠るには早い時間だったが、このまま寝室を出るのもナスティを見捨てるようで気がひけた。時計の隣のカレンダーを何気なく見て、明日が5月28日だと気付く。
……5月28日? ナスティの誕生日じゃないか! ということは、明日の旦那さんとの食事というのは……。


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