涙の惑星 (1)

 第11話 涙の惑星 (1)


 淡いさくらいろの花弁が、春の朝の清々しい大気の中を舞っていた。
 それは、やわらかな午前の陽の光を浴びて、ふわふわとした輝ける数多の銀の羽根が天上から降りてくる様にも見える。
 時折、春のぬくもりを含んだ風がやさしく駆け抜けると、一斉に散り始めた花弁は、くるくると舞い踊り、その木々の下にいる宴を待つ人々の上に、ふんわりと降り積もった。
 田無神社で、衝撃の事実を知った翌日の朝。
 表面上は、何事もなかったかのように振る舞っていた5人だが、やはり、それぞれに思うところがあり、朝食の会話も弾まないでいた。それを見かねた秀が、突然、言い出したのだ。
『花見やろーぜ! 裏の井の頭公園、丁度、散り始めて綺麗だぜ。』と。
 その言葉に、皆が、どこか緊張した面持ちをゆるめ、笑みを取り戻し、伸を筆頭に、お花見計画がすぐに立ち上がった。
 伸いわく、『花見は場所取りが最も重要』ということで、場所取り役を与えられた征士と遼は、朝食を終えてすぐ、近くのコンビニでブルーシートを購入し、すでに、たくさん並べられているシートの合間をかいくぐって、適当な場所にシートを広げ、今に至る。
 シートの真ん中で、黄金の豪奢な髪を春風に揺らめかせて、征士はくつろぐように足を延ばしていた。
 その太腿に、主人になつく大型犬よろしく、遼は頭をのせて征士と、降り注ぐ桜の花弁を見ていた。
 桜の下で、ふたりに会話はなかった。
 征士は、遼以外の前では絶対に見せる事のない、穏やかで慈愛に満ちた微笑を浮かべ、その右手で優しく遼の漆黒の髪を梳いている。時折、その顔や髪に花弁が落ちると、一枚一枚、丁寧に取り除く。そのゆっくりとした心を込めた仕草は、春の朝のなだらかに過ぎてゆく時に、悠久に繰り返されるように見えた。
 遼は、征士のされるがままになって、悠然としたその主の瞳を覗き込んでいた。
 いつもは、そこには硬質な紫水晶の輝きを宿しているのだが、こういう時だけ、瞳の色はやさしい桔梗色(ききょういろ)になることを知っていた。その瞳は、誰も射る事はない。ただ、静かに、慈しむように自分を見つめているだけである。
 こんな時、遼は不思議に思う事がある。
 征士は、自分をどう思っているのだろう、と。
 いや、正確には、どのような位置を占めているのだろう、と。
 9年前、あまりにも不器用な形で告白をされた時は、正直、まだ、互いに少年だったこともあり、その言葉をどう受け止めて良いのか分からなかった。もしかして、戦いが終わっても、征士の中では、自分が大将で有り続け、だから『守る』と言っているのかと思い、多少、胸に痛みを覚えた時期もあった。
 けれども、征士は、不器用な告白通り、その後、自分が負担にならないように、ゆっくりと距離を縮めてくれた。
 高校時代、一人暮らしは寂しいだろうと、頻繁ではないにしろ、メールや電話で近況を尋ねてきてくれた。
 その時、5人の共同生活では、口数が少なく、自他ともに厳しい面しか見せなかった征士が、意外にもマメで、自分の話を聞き出す事に長けていることを知って驚いた。そしてまた、会話を重ね、互いの悩みや、将来の進路の話をしていると、征士も、自分と同じ、普通の高校生なのだと知る事が出来た。
 そこには、かつて、新宿で出会った頃の、どこか神々しささえ醸し出していた「光輪の鎧戦士」の面影はなかった。
 一度、高校3年の受験直前の冬に、風邪をひきこんだ時、征士から電話があった。征士は、もう、東北大学への受験が決定し、受験勉強に専念しているはずだった。ところが、電話口で、自分が風邪をひいて、しかも外は雪で買い出しにも病院にも行けないという話をした、その翌日の朝、家の玄関の前に、征士がスーパーの大きなビニール袋を両手にさげて、その瞳に不安の色を湛えて、立っていた。そして、受験前の貴重な三日間、征士は自分の看病に専念してくれたのだ。
 その時、初めて、自分の中で、征士が、途方もなくかけがえのない存在になっていることに、気付いた。
 そして同時に、一人暮らしは寂しいのだという自分の感情を知った。
 互いに進学し、就職すると、金銭的な余裕ができて、直接逢うことも多くなった。誘われて、一緒に旅行にも行くようになった。
 実際に逢う機会が増えて、征士の瞳が自分を映す時だけ、やさしい桔梗色になる事に気付いた。透き通るような白い肌に桔梗色の瞳というのは、とても甘美な誘惑に満ちていて、恍惚とした気持ちにとらわれ、息をのんで魅入った記憶がある。
 それ以来、自分は征士の何なのかが、気になって仕方がなかった。
 征士は『守る』と言った、その言葉通り、自分の弱い部分をフォローして守ってくれている。そして、自分はそれに甘えている。
 人との関係に名前をつけるのは、大切なことだとは思わない。
 ただ、ひたすらその穏やかな桔梗色の瞳で見守ってくれる征士に、自分が何も返す事が出来ていないと思うと、鈍い痛みが胸を支配するのだ。
 自分は、『無償の愛』を征士から与えられるほど、価値のある人間だと思ったことはないのだから。
 家族の一人として認識されているのであれば、それなりの愛情を、そして、もし、性的な意味を含む恋人として認識されているのであれば、それなりの行動を、征士に与える事ができるのではないだろうか。
 ざあっと、小さな突風のような春風が吹いた。
 視界いっぱいに桜の花弁が舞い散る。
 征士は、遼に砂埃がかからないように、風に対してわずかに身を傾けた。
 そしてまた、うらうらと優しい春の日差しが戻ってくる。
 再び、遼の髪を丁寧に梳き始めた征士の口から、言葉が漏れた。
「桜の神様を木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)と言うそうだ。この神様は、桜の神様であると同時に、霊峰富士山の神霊でもあるという。自らにかけられた嫌疑を晴らすため、火の中で、海幸彦と山幸彦を出産した。だから、安産の神とも言われている。桜も富士も、遼には所縁の深いものだ。この逸話も、偶然ではないのだろうな。」
 征士の、低く綺麗に響く言葉を、心地よく体で感じながら、遼は苦笑した。
「さすが古典の先生だな。でも征士、その話でいくと、烈火の鎧が安産の守り神に聞こえるぜ。」
「いや、そんなことは……。」
 髪を梳く手を止め、固まってしまった征士を見て、遼は、伸ばした体を揺らして笑い始めた。
「冗談だよ、征士。どっちかというと、安産の守り神になってくれそうなのは、水滸の鎧だよな。」
 遼の言わんとしているところを察して、征士もわずかに桔梗色の瞳に笑みを浮かべる。
「海は命の源というのだから、そうかもしれんな。だが、今、我々の目の前にある問題は、水滸を纏う、伸のあの格好だと思うぞ。」
「そうなんだよなー。」
 二人で目を合わせて、それから小さく笑った。
 甘やかな空気が流れる。
「当麻ってさ。」
 一度、遼はそこで言葉を切ってから、征士の桔梗色の瞳を覗き込むように尋ねた。
「伸のこと、好きなのかな。」
「どうしてそう思う?」
「んー、気がつくと、伸のこと、目で追ってるし。昨日もそうだけど、伸のこととなると、妙にムキになる。」
 はらりと一枚、遼の瞼に落ちた花弁を、やさしく取り除いて、征士は答えた。
「10年前から。」
「え?」
「何がきっかけだったのかは、私にもわからないが。当麻は、まだ、伸が遼を思っていた10年前から、伸のことを目で追っていた。ただ、昔も今も、本人に、はっきりとその自覚はないようだが。」
「好きっていう自覚がないってこと?」
「うむ。おそらく当麻は、男は女を好きになる、という常識の中で生きているのだろう。だから、見た目はともかく、男である伸を自分が好きになるはずはない、と意識している。だが、伸に向けるあの眼差しは、恋情半分、残りは母恋し、だな。」
 征士の太腿の上で、わずかに身じろぎをした遼が、分からない、という表情を浮かべた。
「母恋し?」
「ないものねだりをして、駄々をこねている子供にも見える。伸は、あの性格だろう。ホスピスで働いて、死んでゆく命にさえも深い愛情を向けられる。そういった、すべてを受け入れてくれる母親のような愛情を、当麻は伸に求めている気がするのだ。それは、おそらく当麻が子供時代に得られなかったからだろう。」
「ふうん。」
 小さく頷いて、遼は征士の瞳を意味ありげにじっと見た。
「どうした、遼?」
「征士はさ、伸のことも当麻のことも、よく分かってるよな。」
「大切な友人たちだからな。」
「じゃあ、征士は、俺のこと、どう思ってんの?」 
 再び、征士の手が止まり、その瞳に驚きの色が広がる。
 遼は、体を起こしてゆっくりと自らの顔を征士に近づけていった。
 二人の呼吸が止まる。
 一枚の白い花弁が、わずか5センチまで近づいた征士と遼の顔の隙間をふわりと通り抜けてゆく。
 征士の瞳の色が、桔梗色から、硬質な光を湛えたものに変わり、その表情が緊張に強ばる。
 二人とも身じろぎひとつせず、黒曜石の瞳と、紫水晶の瞳が見つめ合ったまま、幾許か経った。
 すっと、遼が征士からわずかにその体を離し、苦笑する。
 征士の瞳がゆっくりと穏やかな桔梗色に戻り、その面持ちにやわらかなものが戻ってきた。
「あのさ、征士。こういう時って、普通、どっちかが目を閉じるよな?」
「なぜ目を閉じるのだ?」
 率直な征士の問いに、遼はある疑問を抱いた。
「もしかして、キス、したことない、とか?」
 征士の白皙の頬が、さあっと朱に染まる。なまじ、白い肌だけに、それはやけに艶かしく見える。
 それを見て、自分の疑問が、疑問ではなく事実だったことを知り、遼は肩を小さく震わせて、くすくすと笑い始めた。
「遼……。」
 咎めるような征士の声に、遼が小さくごめん、と答えるが笑いは止まらない。
 諦めたように、征士が白状した。
「女性と寝た経験はある。事情は複雑なので、言いたくないのだが。そして、彼女たちは、一様に、わたしに口付けることはなかったのだ。理由は分からない。」
 征士の瞳は穏やかだったが、その表情は、彼にしては珍しく、自信を失ったような翳りを見せていた。
「俺には分かる気がするよ、その女の人が、征士にキスできなかった理由が。」
「私は何か悪いことでもしていたのだろうか?」
「征士みたいに整った顔で、宝石の光の様に綺麗で鋭い視線を真正面から受け止めるのは、そうそう出来ないぜ? 多分、怖かったんだろうな。」
 言われて征士が、落胆した面持ちになる。
「遼も、私の顔が怖いのか。」
「まさか。俺は、どんな征士の表情も好きだよ。剣をふるう時の顔も、俺に優しくしてくれる時の顔も。光輪の名にふさわしく、かっこいいし、綺麗だ。でも、まぶしすぎる光を直視できる人は、あまりいないってことじゃないか?」
 言ってから、遼は甘えるように征士の背を両の手で抱きしめ、再び征士に顔を近づける。
「征士、目、閉じて。」
 全身に緊張を漲らせて、言われるままに、征士は瞳を閉じる。
 その、わずかに東雲色に染まった頬に、遼は軽く口付けて、また、くすくす笑い出す。
「はい、ひまわり保育園のキスでした。」
「……遼。」
 からかわれた事に気づき、戸惑いを隠せない表情で、征士は遼からそっと瞳をそらす。
 それからぼそりと、不満を述べた。
「私は保育園児ではないぞ?」
「それは、俺が一番よくわかってるよ。」
 遼は、宥めるように、黄金の豪奢な髪に触れ、それから、自らの頭を征士の肩口にうずめた。
 一瞬、征士は困惑したような表情を浮かべたが、やがて、静かに微笑する。
 そして、長い両手で大切なものを守るように遼の体を抱きしめた。
 征士に体重を預けた遼は、そのぬくもりの中でそっと囁く。
「征士のファーストキスは、俺にくれよな。」
 遼には見えなかったが、再度、征士の白皙の頬が朱をはいたような色を浮かべた。
「努力しよう。」
 ぬくもりを帯びた低い声で、睦言のように、征士が答える。
 うららかな春の陽を浴び、光を帯びた花弁は、身を寄せ合った二人の上に、あとからあとから舞い降りて、その肩にふんわりと降り積もった。  

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