春稲荷1

 春稲荷




 春特有の瑞々しい水と緑の香に誘われて伸は振り向いた。風はリビングのカーテンをふわりと揺らして一巡りしたあと、廊下にすりぬけて行った。
 右手に持っていた本をテーブルに置いて、伸は風の軌跡を目で追ってから大きく伸びをした。
 なだらかな昼前の十一時五分。久しぶりの静かな時間だな、と思う。
 青梅の事件から五日が経った。陰陽寮のことも北辰結界のことも真相についてはまだ何もわかっていない。そんな中で事件が起きた。不安がないといえば嘘になる。けれども、この一時だけは、ふんわりとしたぬくもりと静けさに包まれて平和だ。
 当麻は調べ物があるからと、彼にしては珍しく早起きして家を出て行った。秀は遼と征士を連れて浅草へと向かった。中華街の友人の開店祝いに行くのだそうだ。もちろん昼食も食べてくるのだろう。伸も誘われたが断った。秀には申し訳なく思ったが、まだ人混みに出るだけの体力が戻っていなかった。
 また一筋、心地よい風が伸の頬を撫でた。目を閉じて背もたれに体を預ける。一人だけの贅沢な昼ごはんを想像した。丁寧に紅茶を淹れて、それから春野菜のサラダと新玉ねぎのスープ。だったらメインはパスタがいいだろうか。いつものように大量に作る必要もなく時間制限もない。ゆっくりと作る料理は大勢に振る舞う賑やかなご飯とはまた別の美味しさがあることを伸はよく知っている。パスタの具材が冷蔵庫の中にあることを頭の中で確認して目を開けたとき、人ならざる眼とぶつかった。吊り気味の形の眼におさまる瞳孔は猫のように縦に長く伸を捉えている。獣の眼だった。
「クロ……だよね?」
 黒髪の少年は小さく頷き、また伸をじっと見た。


 ゲストハウスをすり抜けて行った風の仲間の集う公園のベンチの下で、伸は少し緊張しながら隣人に弁当箱を渡した。隣人とはもちろんクロだ。まだ、少年姿のクロとは片手で数えるほどしか言葉を交わしていない。最初は青梅で異界に囚われたとき。それから彼は何度かゲストハウスに姿を見せたが、ほとんど会話をすることもなく、いつの間にか姿を消していた。
「今からお昼ご飯にしようと思うんだけれど、一緒に食べるかい?」
 思わずそう声をかけてしまったのも、会話のきっかけが欲しかったのかもしれない。しかしその返事に伸はまず戸惑い、自らの軽はずみな言動に後悔をした。
「寿司が食べたい」
 伸はすぐ、俵型の酢飯の上に乗る切り身の魚を思い浮かべた。背筋に冷たい汗が流れた。白炎の好物は生肉だからと遼と二人で毎食3キロの牛肉の塊を大皿に出していたことを思い出す。白炎は霊獣だ。そして目の前の少年も大きさは違えど本来の形は霊獣だ。そもそも、この国の最高神は「美味しい食事を食べたいので料理のうまい神様を呼び寄せて欲しい」と当時の天皇の夢の中でお告げしたくらいである。この国の神霊には、常に「旬の美味しい食べ物」を差し出す義務がある。ゆえに、クロが寿司を求めるなら、スーパーに並ぶ寿司パックで許されるはずがない。かと言って、伸には魚屋に行く勇気も、ましてや魚の血を見ながら捌いて調理する技術もない。
 伸の戸惑いに気づいたのか、クロがぼそりと言った。
「伸はよく台所にいるから料理をしていると思ったんだけどな」
「ええとね、クロ。僕は料理は嫌いじゃないんだけどお寿司だけはちょっと」
「いなり寿司はそんなに難しいものなのか。昔の人間は簡単で安いものだと言っていたぞ」
 いなり寿司。
 寿司イコールいなり寿司、というクロの主張に、伸は改めて少年の本質を知った。狐である。稲荷神社には油揚げが供えられる。神使である狐が油揚げを好むからだと信じられている所以だ。
 弁当箱を開けたクロは、ずいぶんと長い間、中身を見ていた。少年の口の大きさにあうようにうまく考慮された大きさの俵形のいなり寿司四個、黄色と緑色があざやかなほうれん草入り卵焼き三切れ、昨晩の残り物の根菜の煮物。別のタッパには小ぶりの苺を用意している。少年の沈黙があまりにも長いので、伸は心配になって自分の弁当箱を眺めた。いなり寿司と卵焼きと煮物。その組み合わせに問題があるのだろうか。息の詰まるような時間の長さに耐え切れず、伸が声をかけようとしたとき、クロが顔を弁当箱に近づけて匂いを嗅ぐような仕草をした。そしていなり寿司を手にとり、一口でパクリと食べた。視線を伸の方に向けて「美味しい」と口元をほころばせる。無邪気な、子供らしい顔つきだった。つられて伸の口元も緩やかに弧を描く。ああ、やはり霊獣と言っても子どもなのだと安心した。表情らしきものをこれまで見せなかったクロが初めて見せた笑顔だった。
 立て続けにいなり寿司をもう一つ、卵焼きと煮物を半分ほど食べてから、クロは箸を置いた。
「伸はどこかの料亭で働いているのか」
「料亭? なぜだい? 中華料理屋を営んでいるのは秀だよ」
「誰だ?」
「ほら、体格の一番いい……」
「あの大きいのか」
 『大きいの』という呼称に、つい伸は吹き出してしまった。あまりにもストレートだ。霊獣の言葉に人間が使う『差別的言語』は存在しない。大きく見えればそれは『大きい』で正解だ。
「ならばなぜ、伸は料理ができるんだ? 普通、女がすることだろう」
「趣味かな。ほら、美味しいご飯を食べれば元気になるし、食べた人に『美味しい』って言ってもらえれば嬉しいじゃない?」
 クロは再び弁当箱を見つめてから、三つ目のいなり寿司を頬張った。
「時代が変わったんだな」
 しみじみと、どこか年老いた者が歴史を俯瞰するような口調で呟いてから、クロは続けた。
「あの大きいのは、秀というのか?」
「そう。秀麗黄。華僑の名家の子孫で、今は中華料理屋を営んでいるよ。料理の腕前は秀の方が上じゃないかな」
「伸の親戚なのか?」
 伸はとっさに答えられず、息を止めた。簡単な答えのはずだ。けれども、うまく言葉にならない。それどころか、クロの言葉は伸の記憶の中からずるりと何かを引き出そうとしていた。
「あの片目の奴も、元気のいいのも、ひょろ長いのも、みんな親戚か兄弟なのか?」
 違う、の一言がどうしても口から出ない。とても大切な友人たち。『あの時間』を共有した唯一の、時間や場所が離れても、手放すことのない大切な仲間。『あの時間』……つま先や指先から血の一粒一粒がゆっくりと冷たくなってゆく。死に向かうように。
「俺にはそうは見えないな。家族や親戚のような『血』のつながりが、まったく感じられない。それなのにどうして一緒に暮らしているんだ?」
 クロの言葉には何の感情も気遣いも感じられない。人ではないのだから、人間の持つ感情の質は基準にはならないにしても、彼の『問い』を発する言葉の音は、どこまでも純粋で透明だった。その獣の瞳がたたえる光が問う。「オマエタチハナニモノダ」と。
「僕たちは……」
 伸がようやく声を絞り出したとき、ふたりの間を風が過ぎていった。風はふわりと輝く欠片を土産に残して、春の陽だまりに溶けた。伸の手のひらに運ばれた土産は、一枚の桜の花びら。周囲のソメイヨシノはもう盛りは過ぎ、濃い緑をたたえ、群青の木陰を広げている。伸は風がやってきた方を振り返った。
 一本の桜の樹があった。
 それは、ソメイヨシノでもヤマザクラでもない、いわば「存在しないはず」の樹だ。
 いや、正しくは、五人が十年前のあのときに見た、記憶だけに刻まれた桜。
 初めて伸が、『他人』の心に触れた瞬間を司る樹だった。


 続

2017年9月6日、クロ誕です! 短編なのに前後編になってしまいました(汗  ひさびさに書く伸とクロ、それも出会いのころってなんだか自分でも書いていて新鮮でした。続きはブログで。