春の雨

 春の雨



 雨の気配で伸はゆっくりと目を覚ました。一度、二度、瞬きをして窓の方に視線を向ける。やはり雨だった。やわらかな雨が草や木の葉に落ちて雨の朝を告げている。そのまま枕元の時計に目をやると、午前8時45分を示していた。
 まだ気怠い体を起こして、伸は当麻の腕の中から抜け出す。春といっても朝夕の冷えるこの時期、晒された素肌はひやりとして、伸は手近にあった当麻のシャツに無意識に手を伸ばして羽織った。わずかに湿度の残るシャツは数時間前までの己の狂態を思い起こさせて、ほんの少し後悔した。
 右足からベッドに降りて、左足、そしてもう一歩、右足。ベッドから窓は遠くない。週末に春色に模様替えしたばかりの淡い緑のカーテンを開けると、細い銀の糸のような弱々しい雨が静かに降っていた。そうして、伸の記憶は過去へと遡る。
 1973年の3月14日は、前日までの天気予報では降水確率ゼロの晴天だったという。ところが、母が産気づいた頃から急激に天気が変化して雨が降り出したそうだ。その話を聞いたのは、確か中学にあがったときだった。それ以降、自分の誕生日に雨が降るかどうかと妙なことを気にしていたが、特に降る様子もなかった。3月14日が雨の降る特異日という訳でもないことを知ると、どうでもよくなって、母のその話はいつか記憶の引き出しの中にしまわれていた。
 その引き出しを、今、伸は丁寧に開けてそこに収められ風化せずに残っているものを感慨深く眺めていた。
 ……僕が生まれた日も、こんなやさしい雨が降っていたのだろうか。
「伸。」
 背後に呼ぶ声を聞いて、伸は顔だけで振り返った。当麻が片肘をついて、伸の方を眠そうに見ている。
「もう起きたのか。」
「ああ、うん。雨が降ってたから。」
「じゃあ余計に寒いわけだ。」
 言外に伸のぬくもりの不在に不満を漏らした当麻は、空いている左手でぽんぽんと、ベッドの上にできてしまった空間を叩いた。戻って来い、と仕草で示す。さすがに伸も寒くなって、言われるままに当麻の腕の中に戻った。
 当麻の首筋に額を寄せて、栗色の猫毛をいいように遊ばれながら、伸はしばらく目を閉じて体ごしに伝わるぬくもりと心地よい仕草に身を預けていたが、ふと閃いたように瞼を開けた。顔を首筋からほんの少し離して当麻を見る。
「当麻、不思議な話をしようか。」
「なんだ?」
「僕が生まれた日、天気予報では絶対に晴れる予報だったのに、こんな春の雨が降ったんだって、母さんから聞いたことがあるんだ。おかしいだろう?」
 当麻は急に手を止め、伸の瞳の奥底を覗き込み、片方の唇をつり上げた。くしゃりと猫毛を撫でてから伸の額に自分のそれをくっつけて、至近距離で低く囁く。
「それは水滸の力じゃないぞ。」
「え?」
「天空の力だ。」
 当麻の言わんとするところがわからずに、目を見開いて伸はその口元を見た。
「お前の生まれた瞬間を祝う甘露を降らせたんだ。天空のこの俺が。」
「馬鹿言うな。君は僕よりも年下なんだから、まだ生まれてないじゃないか。」
「ああ、生まれてはいないが命は授かっていたさ。」
「まあ、確かにそうだけれど……」
 その先を言い募ろうとして、伸はやめた。当麻ならやるかもしれない。そうすれば、1973年の3月14日の天気予報が当たらなかった謎が解けて、すべて辻褄が合うのだ。
「だからこの雨も、俺からの誕生日プレゼントだって言ったら、伸は信じるか?」
 伸は雨音よりも静かに瞼を閉じて、言葉の全てを受けとった。
 その瞼に、当麻は春の雨のように甘い口付けを降らせた。

 3/12の夜にtwitterでうーたんさんが「春の雨」というお題を出したので、急遽、短編を書きました。甘い甘い〜と言われましたが、そのつもりで書いたので甘いです。陰陽伝的には「未来の話」になりますね(笑)