十月の沈丁花

 十月の沈丁花


 明日の朝食の卵の数が足りない……気付いたのは夜もずいぶんと更けた頃。
 伸は慌てて財布を持って、最寄りのスーパーに足を向けた。
 秋の夜気には、華やかな香りが混じる。
 ……金木犀。
 無数の橙の小さな花の香りが、家々に植えられた庭木から漂って来る。昼はそれほどでもないが、夜になるとむせるほど甘く魅惑的な芳香で人を惹き付ける。この花が己の本性を発揮する夜は幻想的だ。別の世界へと誘うように、甘く甘く薫る。
 その香りを破るように、別の甘い芳香が漂い、伸は首を傾げた。
 この匂いをよく知っている。
 けれども、今の季節には相応しくないものだ。春、まだ桜も咲かぬ寒い時期、自分が一つ、歳を重ねるちょうどその時期に咲く花の香り。
 香りの跡を追って、伸はスーパーへ続く路を逸れた。

「これは……」
 突然現れた見知らぬ光景に、伸は目を見開いて立ちつくした。
 そこは、近所の公園の一角。いつもなら、腰の丈ほどの沈丁花の低木が一本、そこに植わっているはずなのだが。
 いつの間にか、見上げるほどの大木が生えていた。
 大地に幾筋も張り出した根、大人が抱えても有り余る幹、枝葉は月のない夜空に黒々と生い茂っている。街灯から漏れる光で照らされた部分だけ、ほんのりと淡く明るい。葉の陰で濃い紫の小さな花が群をなして咲いていた。
 それだけの大木にも関わらず、不思議と存在感が薄かった。少しでも気を逸らしてしまえば、夜気に溶けてなくなりそうな、儚げな雰囲気だった。
「ようこそお越し下さいました」
 声がした。
 振り向くと、女がいた。深い紫の着物をまとい、結い上げた髪は黒々と艶やかで、細いうなじは闇夜にも仄白く、匂い立つような美しさだった。細い面はすっと紅を刷いた口元だけがはっきりと見えて、それから上がぼんやりと霞がかって見えない。
「あなたは……?」
 伸の問いに、女が笑みを溜めて応じた。
「この公園に植わっております、沈丁花でございます」
 言われて伸は、大木を見上げる。そこから香って来る匂いは、確かに沈丁花のものだ。しかし、沈丁花の大木など、聞いたことも見たこともない。
「今宵は一段と金木犀の花々が競う中、彼らには不躾とは思いながら、こうして貴方をお招きするために香りを風に乗せました」
「僕を?」
「永い間、この公園のここに立っておりました。春先、私の花の香に誘われて足を止めるものがおりました。けれども彼らは、私の姿を見るとひどく残念そうな様子で立ち去ってゆくのです。香りとは裏腹な、この地味な姿をまるで厭うかのような……。そんな人間が私は嫌いでした」
 まだ寒さの解けぬ春先、人々はほんの少しでも春の兆しを探そうとする。沈丁花もまた、春を運ぶ香りの一つだが、その姿には人々が花に期待するような華やかさはない。どちらかといえば、老婆が静かに春を待っている、そんな風情だ。
 しかし、伸はその落ち着いた雰囲気が好きだった。諸花の兄である梅の花が春を告げ、華やかな桜たちが咲き誇る、その短い隙間を縫うようにひっそりと穏やかに香る沈丁花は、やさしい春の訪れに相応しいと思っていた。
 女は言葉を継いだ。
「けれども貴方は違っておりました。この私の姿を愛でて下さいました。春の嵐に枝が折れたときは、そっと癒してくださいました」
「だってそれは……」
 あまりにも無惨で痛そうだったから、と言おうとして、伸は口をつぐんだ。花の精霊に痛いという概念が通じるかどうか分からない。痛そうだと思ったのは自分勝手な想像で、癒しの力を使ったのも自己満足からだ。決して、礼を言われるためではなかった。
「もう老体ゆえ、この冬は越せますまい」
「え……」
「ですから今宵、咲き誇って最後に貴方にお礼を言ってから、潔くこの世界を旅立つことにしました」 
 どうして、と問いかけた伸の瞳に、女は答えた。
「貴方のおかげで人が好きになりました。私を見る人見ない人に関わらず、どんな愚かしい人も。それだけで十分です」
 言って、女は伸に背を向けて着物の裾を揺らした。
「さようなら。お元気で」
 しずしずと女は陽炎のような樹の幹の中に姿を消した。
「待って……」
 慌てて伸は手を伸ばしたがわずか、遅かった。届かなかった腕を見つめて、呟く。
「お礼を言わなきゃいけないのは、僕の方だったのに」
 自分が歳を重ねるその時期に、やわらかな芳香で祝福してくれるやさしい花を、伸は深く深く愛していた。

 翌朝、まだ陽が昇って一時間も経たない早い時間、伸は再び公園を訪れた。
 透徹な朝の大気の中で、沈丁花は全て葉を落とし、寒々とその茶色の木肌を晒していた。
 そこにもう、命の気配は宿っていなかった。

Tea Break Aのちらし企画に掲載したファンタジーなバージョンです。