Yang ylang

 Ylang ylang


 寝室のドアを開けると、ジャスミンに似た華やかな花の香りがして、伸は思わず足を止めた。
「……どうしたの、当麻」
「何だ?」
「この香り」
「ああ、友人から精油をもらったんだ。アロマってほら、体にいいっていうだろう。伸もこっちに来てからいろいろあって疲れてるだろうと思ってさ、焚いてみた」
 ありがとう、と返して、寝室に漂う花の香を嗅いだ。そこに色とりどりの花園が広がるような魅惑的で抗い難い香りだ。
「ずいぶん強い香りだね。」
「そうか? 俺はあまり気にならないんだがな。都会育ちだから嗅覚は伸よりも低いかもな」
 伸をちらと見た当麻はそういって、無邪気に笑った。

 伸がベッドに入って三十分もすると、いつものようにシャワーを浴びた当麻が潜り込んで来て、背後から抱き締めた。それは毎晩のことで、互いの温もりを確認しあう、それ以上の意味を持ってはいなかったはずなのだけれども。
「……!」
 抱き締められた瞬間、堪え難い疼きが伸の身体を貫いた。
 触れ合った場所から火が灯るように熱があがってゆく、零れそうになる声を押さえるために息を詰めると呼吸が乱れる、突然の出来事に驚いた身体は苦しくて身じろぎをしてしまう。
「どうした?」
 心配そうな当麻の声が耳元に降りた。
 その声すら刺激に変わって、身体中に甘い痺れが走る。そこから身体が溶けてしまいそうな感覚に陥って、伸は思わず目を閉じた。
 ……苦しい。
 この感情を、感覚を知っている。欲情という名の、蕩けるような甘い果実。
「どっか具合でも悪いのか」
 言って当麻は、伸の身体を自分の方へ向かせた。額に骨張った手を当てて、ふむ、と唸る。
「熱でもあるんじゃないのか。ちょっと熱いぞ」
「……大丈夫」
 震える声で言って、伸は目を伏せた。
 ……浅ましい今の僕を見ないで。今の僕にやさしくしないで。
 額に当てられた手のひらの温もりは、いつもなら心地よいと思えたかもしれない。でも、今は、それすらも媚薬のように身体に染みて、全身を快楽が犯してゆく。腰の奥がひどくもどかしく、先を、先を、と身体が求めている。
 自分でも泣きたくなるくらいの、このみにくい身体。
 ……君を遺していく途を選んだ僕に、君を求める資格はないのに。
「伸が大丈夫っていうときは、一番信用ならないんだよ。明日、病院に行くか?」
「いいって。一晩眠ればこんなの治ってるよ。おやすみ。」
 逃げるように伸は言葉を突きつけて、当麻の腕の中で背中を向ける。
 これ以上、やさしくされて、耐えられる自信がなかった。
 おやすみ、と背後で返した当麻が、そっと伸の手に自分の手のひらを重ねる。
 重ねられた手のひらの冷たい熱が、伸の火照る身体を煽り、やさしい疫病のように全身を悦楽で蝕んだ。目一杯噛み締めた唇に鉄の味が混じる。

 その夜、伸は、享楽的な自分の身体を、当麻に暴かれる苦しく甘い夢を見た。

 朝、目を覚ました伸はヘッドボードの飾り棚に置かれてある小さな茶色の硝子瓶を手に取った。精油が入っていたものだ。そのラベルを見て言葉を失った。
 Ylang yrang(イラン・イラン)。
 それは、インドネシアでは新婚のカップルが夜を過ごすベッドにその花を敷き詰めたと言われる催淫作用のある花の名だった。


Tea Break Aのちらし企画に掲載したちょっとアダルトなバージョンです。